正義の味方は押し掛け女房お断り?
「レイチェル」
およそ四年ぶりだ。突然のことにジェイは驚き、立ち尽くす。
今日、総帥ドゥブルヴェから呼び出され話を聞き、再会するかもとは思っていた。だがまさかこの家を訪れてくるとは想像もしなかったのだ。それもこんなに堂々と。
レイチェルはにこりと微笑むと口を開いた。
「久しぶ……」
ガチャンと音をたてて家の扉が閉まる。それに続いて鍵がかけられる音が聞こえた。もちろん扉を閉めたのも、鍵をかけたのもジェイではない。
ジェイは驚いて扉を閉めたリアを見下ろした。扉の向こうではレイチェルが『何なのよ、開けなさいよ!』と怒鳴っている。
「リア?」
「何をしている、グンソー! 早くチェーンをかけたまえ!」
「ぐ、軍曹?」
兵隊ごっこだろうか、とジェイは首を傾げた。動かないジェイに焦れたのかリアは何とか自分でチェーンをかけようとしたのだろう。その場でぴょんぴょん飛び、高いところにあるドアチェーンに手を伸ばしていた。そうしながらリアはもう一度叫んだ。
「グンソー! 不審者を閉め出せ!」
「あーはいはい。イエッサー」
リアの言葉が聞こえたらしい。ドアの向こうから『誰が不審者よ!』と怒る声が聞こえた。
だが、今はリアに従うべきだ。彼女の『正体』を考えれば入れるべきでないのは確かなのだから。
それに今はやるべきことがある。スーパーで買ってきたものを冷蔵庫に入れ、金魚の墓をつくり、夕食の準備をしなければならない。そのいずれもが失踪して何年かぶりに戻ってきた妻より優先すべき事柄である。
ジェイはそう判断し、ドアチェーンをかけた。リアは満足そうに頷き、ジェイを室内へと引っ張る。
「グンソー、よくやった!」
軍曹は司令官からお褒めの言葉をいただいた。
リアはジェイを台所まで連れていくと兵隊ごっこは終わったのかいつも通りの口調に戻った。
「じゃあ、パパ。早く冷蔵庫にそれしまってね。金魚のお墓作るんだから」
「わかった。ちょっと待っててくれ」
リアが台所に続くリビングへと入っていくのを見送ると、玄関のほうへ視線を向けた。玄関ドアの向こうは既に静かだ。先ほど立ち去る足音が聞こえたから、レイチェルは諦めたのだろう。
勿論油断するに越したことはない。だが今はここにジェイもいるし、外には組織から配置してもらったリアの護衛もいる。いざという時には速やかに本部へ連絡が行くだろう。
自分はやるべきことを済ませ、夕食を作らねばならない。レイチェルに構っている暇はないのだ。
まず冷凍庫に食品をつめ、次は冷蔵庫を開ける。そこでふとリビングを見たら、リアが鋭くベランダの方を睨んでいた。
一体何を見ているのだろうか。ジェイのいる場所からはリアが見ているものが見えない。思わず立ち上がり、リビングへと近づいたその時。ぱっとリアが振り返り、ジェイの背後、台所の壁を指差して叫んだ。
「パパ、『あいつ』が!」
「何!」
ジェイは慌ててリアの指差す方を振り返る。だがそこには仇敵とも言える黒光りする某家庭害虫の姿はない。隠れたか、と思わず舌打ちをする。だが今突然奴が現れたら己は丸腰だと気づき、慌てて愛用の虫叩きのもとへジェイは駆け出した。
そんなジェイの背後でガラガラっとベランダのガラス戸を開く音が聞こえ、そのすぐ後にピシャッとそれを閉める音がした。気になって振り返るとリアがよいしょよいしょとカーテンまで閉めている。
「リア?」
「なあに?」
「どうした? って、『あいつ』も見当たらないんだが」
ジェイは鋭く台所を見渡す。だが闇に蠢く忌まわしい影は見えない。
「うーん……。ごめんね、パパ。リアの見間違いかも」
「そ、そうか。だったらいいんだ。ところでリアは何をしてたんだ?」
「んにゃ? えーっとね……。ベランダに大っきい虫がいたからやっつけたの」
「虫?」
「うん。ほら……だってお野菜があるもん」
このアパートには広めのベランダがある。ジェイは節約と子どもの教育も兼ねて、プランターで夏野菜を育てていた。シソやオクラ、プチトマトにキュウリ、様々な野菜がそこにはある。虫がきてもおかしくない。
リアはもう夕方だからついでにカーテンも閉めたのだ、と言った。
「パパ、早くリアの金魚のお墓!」
「ああ。悪い、もうちょっと待ってて」
ふくれっ面になったリアをなだめ、ジェイは再び冷蔵庫のもとへ戻った。手早く冷蔵庫に買ってきたものを仕舞う。
そしてビニル袋や割り箸、キッチンペーパーなど金魚の埋葬に必要そうな道具を手にリアの元へ向かった。待ちくたびれたと文句を言われるだろうかと思いながらリビングへ入る。
リアはリビングのテーブルの前に座り込み、白い画用紙にクレヨンで何か描いていた。お絵かきか、と背後からひょいと覗き込んだジェイが固まった。
そこには赤いクレヨンで『押し掛け女房お断り』と書いてある。
「り、リア。それ何だ?」
「これはね、ドアに貼るんだよ」
変な女がまた来たら困るもん、とリアは言いクレヨンをテーブルに置く。
「パパ、テープ貸して」
「リア、貼らなくてもいい」
そもそもあれは押し掛け女房ではない。法律上の妻である。ただ彼女が失踪して四年もたつから、今となってはどうなのか調べなければわからないけれど。少なくともリアの母親であることは違いない。
だがリアはきっと分かってないだろう。四年も前なのだ。大人の自分の四年前と五歳児の四年前は違う。リアが母親を覚えてなくても仕方ない。しかしジェイはリアに真実を教える気にはなれなかった。
その代わりリアの手から画用紙を取り上げて言った。
「お隣さんたちに見られたら恥ずかしいから駄目」
「むー! だって、だって!」
「ほら、金魚埋めてあげるんだろ。日が暮れる前にしないと」
ジェイの言葉に渋々とリアが頷いた。その様子にほっと胸を撫で下ろす。勧誘、セールスお断りの貼り紙と同じ感覚でこんなものを貼られてはたまったものじゃない。
「えーっと。スコップがいるな」
ベランダに置いてあるスコップを取りに行こうとしたジェイのシャツの裾をリアが慌てて引っ張った。
「パパ! リアね、さっき虫退治するときスコップ投げちゃったの。だから下に落っこちちゃった」
「投げた? じゃあ下の植え込みらへんか……。とりあえず見に行こう。下のお家のベランダに入ってなきゃいいけど」
ジェイはリアの手を引き、まずはスコップを探すべく家の外へ向かった。
警戒しながら外へ出たがやはりそこにレイチェルの姿はない。プライドの高い彼女が粘ったりするはずがないと分かっていたがほっとする。
リアを連れ、まずはベランダの真下にある植え込みの所を見に行く。すぐにスコップが見つかった。下を歩いている人にぶつかったら危ない、今後は投げないように言い聞かせる。リアは神妙な顔で頷いていた。
そしてアパートの一階に住む大家の所へ金魚の墓を敷地内に作って良いか聞きに行った。大家の老女の快諾を得て二人は金魚の墓を作ることが出来た。
金魚の墓の前にしゃがみ込み、一生懸命手を合わせるリアの小さな背中を見てジェイはふと思った。
今日の夕食に魚を出すのは教育上どうなのだろうか、と。
***
「え、それで結局夕食は魚をだしたわけ?」
「ああ。使わずにせっかく買った安売りの鯛を駄目にしたら勿体無いし。もうメニュー決めてて変えるの面倒だったから」
魚でも同じ金魚でないから良いかと思い、結局予定通り魚にした。鯛を焼いて、それだけだと淡白だが少しパサパサするのでアサリを使ったスープに近いソースをかけたものだ。アサリは味噌汁にでもするかと冷凍して少し残しておいた分である。これも使ってしまわないといけなかったものだ。
ちなみにリアは美味しそうに完食した。
「だけどアッシュ。突っ込むところはそこか?」
完全に彼は戻ってきたレイチェルに関してスルーしている。
ジェイの突っ込みにアッシュは笑った。
「別にお前だって何とも思ってないだろ。四年前嫁さんが消えたのには少し驚いたかもしれないけど、別にそれで傷ついた訳でもないだろうし。戻って来ても来なくても、敵のスパイだろうが何だろうが。そもそも興味もなかった相手だろ」
「リアに危害を加えなければどうでもいい」
「ほらー。そう言うだろうと思ってたから突っ込まなかったんだけど。でももしリアちゃんに彼女が何かするとしても、随分と今更な気がするよな」
そう。今更だ。
ジェイは彼女に対して何の感情も抱いていない。だから何も思わない。
不安に思うことがあるとすれば娘に関することだけだ。だが彼女は姿を消した四年前、リアには何の手出しもしなかった。危害を加えることもなければ、ジェイに対する切り札として連れ去ることもしていない。
それなのに何故今更彼女はジェイとリアの暮らす家を訪れたのか。
「そうか……!」
「ジェイ?」
「レイチェルの奴、離婚届けでも持って来たのかもな。くそっ、締め出す前にサインしとけば良かった!」
「いや……そもそも、その『レイチェル』って存在自体が作られたもんだろ。俺もお前もそうだけど……」
「それ以外何かあるか? ただ宣戦布告する為に来たとしたら、アホだろ。飛んで火に入る夏の虫だ」
「もしかしたら宣戦布告しに来たのかもよ。悪の組織ってそう言う下らない前口上好きだろ?」
もし彼女がそうしたら自分は果たしてどのように行動しただろうかとジェイは考える。まずリアをトイレか何かに行かせ、その隙にレイチェルの首でもへし折り、リアの護衛として外に控えていた『無色』の連中に死体を回収させていただろう。
それをそのままアッシュに伝えると、彼は呆れた顔で言った。
「お前のそういう発想、あんまり正義の味方っぽくないよな。前々から思ってたけど」
「放っておいてくれ。正義の味方として創られたから義務感で正義の味方やってるだけであって、それ以上でもそれ以下でもない」
「あー、そうですか……」
「ならばその義務感を失わないようにしてくれよ、ジェイ」
ジェイとアッシュは声が聞こえたほうを振り返る。そこには総帥であるドゥブルヴェとイグレク博士が立っていた。
「わかってますよ。少なくとも娘が無事のうちはね」
「物騒な奴だ。だが『無色』のほうにもしっかり言い含めてある。安心しろ」
「それはどうも。総帥、何か御用ですか? イグレク博士まで連れて」
ジェイの問いかけに答えたのは総帥ドゥブルヴェではなく、イグレク博士のほうだった。
「ジェイ、以前に話したお前の娘の検査をやろうかと思ってな」
その答えにジェイはため息をつく。
「別にそれは構いませんけど。でも調べても何も出ませんよ。あの子は普通の子です。去年の検査でもそうだったでしょう?」
「成長に伴って何らかの能力が、ということはあり得ることだよ」
「わかりましたよ。では今月のミナット区の五歳児検診の日に」
何もなければいい。何もなければ普通の子どもとして娘は生きていける。
組織としては普通ではないジェイの娘が何か特殊な能力を持っていることを望んでいる。だがそれはジェイの望むところではない。