Time To Say Goodbye
「お前の声は、神様からの贈り物だね」
小さい頃から、言われ慣れた言葉であった。
特に歌声は格別だと、多くの人から称賛の声を受けた。聖歌隊では男だというのに常にソプラノに配属され、いつまでも変わらぬ歌声を響かせ続ける。そう。いつまでも変わらず、だ。
――聴くものを皆癒す歌声。
一般に多くの人が変声期と呼ぶ、小学校高学年という時期を過ぎても声変わりがないことに悩んでいた。親を含め、周りはそのことを気にした風でもない。異常だと思うこちらが異常であるかのようだ。
両親……特に母親に女の子と期待されて生まれてきた彼は、聖良という名をつけられた。女の子につける名前しか用意されていなかったという理由でつけられた名前だったが、聖良自身はこの名前が嫌いではなかった。
「聖良」
ふわりと、優しい声が彼を包む。柔らかな陽の光さえ感じる、聖良の大好きな声だった。
「聖良の声は、まるで天使の声ね」
にっこりと、彼女は笑う。
幼い頃から散々聞かされた内容ではあったが、彼女が言うのではきっとまた意味が違っていた。少なくとも聖良の中では。
隣の家に住んでいるお姉さん、名前は美也という。歳は聖良よりちょうど十コ上だった。いつもハツラツとしている明るい女性であったが、聖良の歌声を聞くときはじっと黙って目を伏せ、うっとりとした雰囲気を漂わせる。
美也もまた、聖良の変声期について、「どうでもいいじゃない」と言った。
「あなたの声は普通の人とは違うんだから。いいじゃない、失わなくても。そのまま、美しい声の聖良でいて」
「……美也姉は、俺の声が好きなの」
「ええ」
美也は、慈悲深く目を細めながら、聖良の目を見て答えた。
「大好きよ」
***
線も細いしさ、声も高いしさ、色素も薄いしさ。おまけにそこまで身長も高くない。まるで男っぽくねえよな。聖良って。
クラスメイトの誰だったかが、体育の着替えのときに言った。聖良が制服を脱ぎ、体操服に着替えようとしたそのときだ。
更衣室内が少しざわつく。同調するように、そこらから「確かに」と囁く声も聞こえた。聖良は体操服の袖に手を通しながら、なんとなく嫌な予感がした。
「なあなあ、聖良くんよ」
嫌な予感とは的中するもので、クラスの中でも一番体格がよく、全体のまとめ役のような男子が、にやにやしながら聖良に近寄ってきた。古池という苗字のその男は、聖良によくこうして絡むのだった。
「古池、『聖良くん』なんて失礼だろ。ちゃんと『セーラちゃん』って呼ばなきゃ」
古池の隣にいたクラスのお調子者が、くすくすと笑い声を出しながら茶々を入れる。かもなあ、なんて言いながら古池の方は大きく笑い声をあげた。
聖良は溜息をついた。……それで、結局何が言いたいんだ。
「溜息なんかつくなよ、釣れねえな。それよりちゃんと答えてくれよ。聖良ちゃんはぁ、なんで男子更衣室に居るんですかあ」
「……居ちゃ悪いのかよ」
「悪いっつーか、聖良さ。お前、ほんとに男には見えないの。俺たち中学二年生男子としちゃ、そういうの気を遣っちゃうの。わかる?」
「わかんねえ。というかよく見てみろ、男の体だろうがよ」
着かけていた体操服を下ろし、聖良は裸の胸が古池に見えるように胸を張った。……くだらない。こんなどうでもいいやりとりは、一刻も早く終わらせたかった。
普通の中学生男子の基準からすると痩せて不健康な白い胸板だったが、当然平らだ。それを見て、古池や周りのお調子者男子たちはつまらなそうに口を歪める。
「もういいだろ。早く着替えて外出るぞ」
「……いや、ちょっと待てよ」
いい加減しつこい。普段は諌めれば大人しくなるのだが、この日の古池はそこで引き下がらなかった。
「なんだよ。まだ何かあるのか」
「お、お前、それで証拠を見せたつもりなのか。上なんてよ、いくらでも偽装できるだろうが」
「はあ?」
頭おかしいんじゃないか。
「そうだ、下だ。下。見せやがれ」
そう言いながら、古池は聖良のズボンに手をかけた。否、ズボンのみではない。古池の指は聖良の下着まで掴んでいた。
もう古池に加勢するような奴もいなかった。かといって、彼を止めるような奴もいない。みんな静かに、古池が聖良のズボンを下ろそうとしているところを見ていた。
「何すんだ、やめろ」
聖良だけが、古池の手を押さえながらヤメロと繰り返す。しかし古池は聖良に比べるとよっぽどガタイが良く、ちょっとやそっとでは引きはがせなかった。
ずる、とズボンが古池の手で下ろされる。
「キャッ!」
咄嗟に出た、一言だった。
そう、咄嗟だった。大きな声。しかし、それだけにその声は男のものとは思えない響きを含んでいた。更衣室に、異様な空気が漂う。
古池の手がするりと離れる。その隙に、聖良は下ろされた自分のズボンをあげた。
「へ、ヘヘヘ」
古池は薄笑いを浮かべた。少し、焦っているようにも見えた。
「やっぱお前、男じゃねえよ」
聖良は古池の顔を見ることができず、俯いてその声を聞いた。
悔しかった。惨めだった。
聖良は自分の部屋でシャツを脱ぎ、姿見と対峙していた。白くて薄い胸板。腕はかわいそうなほど細く、首にかかった大きなロザリオだけが貧相な身体に妙に浮いて見えた。
昼間に見た古池の薄笑いを思い出す。馬鹿にされた。嘲られたのだ。高い声、この見た目を。自分の欲しかった要素を全て持っている彼に。
抵抗は無駄に終わり、それも聖良は女の子のような悲鳴しか出せなかった。神様からの贈り物と呼ばれる、この高い声はそんな情けない叫びしか紡ぎだせなかった。少しでも男であろうと一人称や言葉遣いに気を付けていることすら、この声の前には無意味であるように思えた。
その日は、美也が聖良の家に晩御飯を食べに来ていた。お邪魔します、と無邪気に笑って家に上がってくる。美也が家に来ると、家の中の温度が数度上がったようにも感じられる。聖良も彼の両親も、美也がやってくるたび彼女のことを大歓迎していた。聖良にとってはそれだけではない。美也を見ていると、心が軽くなるような気がした。
「あら。聖良。……なにかあったの?」
美也には、聖良が落ち込んでいたことがわかってしまったらしい。頭を撫でられ、なにがあったのか尋ねられた。優しい声だった。聖良にとっては、紛れもなくそれが天使の声だった。
なにがあったのか。情けなくて、本当のことなど話せるはずもない。聖良は、美也に訴えかけるように言った。
「美也姉……。俺、もうこの声要らない」
美也が驚いたような顔をする。美也が褒めてくれたこの声。けれど、聖良は強く思っていた。もういい。要らない。
彼女は厳しい顔をして首を振った。
「要らないんだよ……」
「そんなことを言っては駄目よ、聖良。あなたの声は、聞く人を癒すの。みんなを幸せにする力を持っているんだから」
――俺が不幸せになってもか。
そんな疑問を飲み込んで、聖良は美也にひとつだけ聞いた。
「美也姉も?」
「私?」
美也は、一際輝く笑顔を見せて、嬉しそうに答えた。
「もちろんよ。きっと私が一番、聖良の声から幸せを貰っているんだもの」
「……そっか」
そっか。聖良はそれだけを思った。そっか。ならいいんだ。美也が幸せならば、聖良にはそれでいいのだ。
*****
放課後。学校を出る前に、古池に会った。
「……」
「あ、おい。なんで無視するんだよ」
何かを言っているようだったが、聖良は無視を決め込んだ。古池とはもちろん毎日教室で会ってはいたが、「あの日」以来、心持ち避けていた。当然だ。古池に絡まれると碌なことがない。
「おい、聖良」
「……なんだよ」
古池は、無視して校門をくぐろうとする聖良の後ろから、その背を追いかけてきた。相変わらず空気の読めない奴だと思う。無視をするのも相手をするのも面倒だったが、結局聖良の方の我慢がきかずについ反応を返してしまった。あからさまに不機嫌な顔を向けられ、聖良の隣に追いついた古池は珍しく気まずそうな顔をした。
「怒ってるか」
「別に」
「嘘だ」
「……決めてかかるなら、最初から聞くなよ」
聖良は、小さく息を吐き出した。その様子を見た古池が俯く。今日の古池はとことんおかしな態度をとるものだ。
聖良は怒っていないと言った。実際その通りだ。自分にやるせなさを感じ、古池に関わると面倒だと思ったのは確かだが、そこには古池に対する怒りは存在していなかった。
「この間のこと、やっぱり悪かったなって思う。いや、最初から悪気はなかったんだ。……けど、あのあとお前が傷ついていたのと俺のことを避けていたのとで、今頃になって申し訳ねえことしちゃったって」
「俺を哀れんで、か。なあ」
苛々する。この怒りは件のときの彼に対してではない。今隣にいる古池に対しての苛立ちであった。思わず、それを全面に表して気持ちを投げつけてしまう。言葉を選ぶ余裕もなかった。
「気を遣ってんの?それ、この前よりずっとむかつくんだけど」
古池は、この言葉に対しては即座に答えなかった。その代りに、「俺さあ」と聞きたくもない別の話を始めた。
「俺、お前の入ってる聖歌隊の歌、聞いたことがある」
「はあ?」
「ソプラノの中に混じってるお前の声は、大勢いる女よりすごく目立っていて、光っていた。全然うずもれない、お前だけの歌だった。ソロは特に格別で、歌とはお前のためにあるんだとすら、俺は思ったよ」
やめてくれ、と聖良は思った。
「天使の声だって、誰かが言ってたな。俺もそう思う。お前は、人とは違う。もっと別の何かなんだ。つまり、聖良は男だとか女だとか、そんなもの最初から関係がないんだろうなあって。あの歌を聞いてから、俺はそんなことをずっと思っていた」
古池は自分で自分の言葉に納得するように、小さく何度も頷いた。そして「だから」という接続詞を遣ってこう続けた。
「これは、哀れみなんかじゃないんだ。お前の歌う姿を見てから、お前は俺にとって、天使と同じ意味を持つ存在なんだよ。聖良が不快なら謝るべきだと思ったし、怒っているなら罰されるべきだろうと思った」
なんだ、なんだよそれ。――古池の妄信的な言葉に、一瞬聖良は言葉を失った。おい、こっち見ろよ。古池。隣にいるのは天使じゃない。同い年の、男なんだぞ。
肌はほどほどに浅黒く、髪は短くて、声が低かった。そして、なによりがっちりとした体を持った男らしい古池は、聖良の密かな憧れだった。古池が、聖良の考える「男らしい男像」だった。……彼にだけは、こんな言葉をかけてほしくなかった。
ようやく我に返ると、すう、と息を一度だけ吸って、聖良は一言だけ古池にこう言った。
「気持ち悪い」
嫌なこととは続くものだ。聖良が家に帰ると、美也が来ていた。父はまだ帰宅しておらず、母はスーパーに買い物に出かけていた。そんな家で一人待っていた美也が「おかえり、聖良」と言って迎えてくれた。留守番をしていたらしい。
「……美也姉。どうしたの、こんな時間から」
時計を見ながら聖良が聞く。まだ五時過ぎで、普段美也が夕食を食べにやって来るときよりもよっぽど早かった。そもそもこの時間、彼女は職場から帰宅すらできていないはずなのだ。
「そのことなんだけどね」
美也は言いながら目を細めた。本当に、表情のひとつひとつが優しくて、マリア様のような人だな、と聖良はぼんやり考える。聖良などよりずっと、彼女は神聖で綺麗だった。話は「聖良に、報告しなきゃならないことがあるの」と切り出された。
「報告?え、なに?」
言いながら、ドクリと心が嫌に震えた。この先を聞いてはいけない気がした。そんな聖良の心とはお構いなしに、美也の唇は次の言葉を伝える。
「私、結婚するつもりなの」
ほら、やっぱり。聖良の心のどこかがまたドクリと脈打った。
「……結婚?誰と?」
「職場の人なの。ずっと付き合ってた人でね。ふふ。……聖良に最初に伝えたかったのよ」
「なんで?」
「だって、聖良は私の幸せを願ってくれるでしょう?」
――願ってくれるでしょう?
――お前は俺にとって、天使と同じなんだ。
さっき聞いた言葉までもが蘇ってきた。
みんな勝手なものを聖良に積み上げていく。俺の、声が。俺が、一体何を彼らにもたらしてやったというんだ。
聖良は、何もした覚えがなかった。聖良には、何もなかったのだ。空っぽなものを崇め、妄信して、彼らは本当に馬鹿じゃないだろうかと思う。
「ねえ聖良。あなたに、結婚式で歌を歌って欲しいの」
美也が更に続ける。言外に含まれる意図はこうだ。ねえ、歌ってくれるでしょう。私の幸せのために。祝福してくれるでしょう。その歌声で。
「……ふざけんな」
「聖良?」
聖良は呻くように呟いた。もう、我慢はできなかった。
「お願いだよ。結婚なんてしないでよ。美也姉」
「え、」
「俺は、確かに美也姉に幸せになって欲しかった。……けど、それは俺が美也姉のことをずっと、好きだったからだ」
そうだ、ただそれだけだった。
――聖良の声は綺麗ね。まるで天使の声よ。あなたの声は聴く人を皆癒す。私、聖良の歌声が好きよ。私が聖良から一番幸せを貰ってるの。
「俺は、俺の歌声で美也姉が幸せになれるっていうならそれもいいって思った。……けどさ、誰かとの幸せを願って歌うなんて俺にはできないんだよ」
聖良は泣きそうだった。そうだ。美也の結婚を祝福など、できる自信がなかった。聖良は、どうしようもなく子供だった。まだ中学生なのだ。
――ねえ、聖良。私、結婚するつもりなの。
嬉しそうな美也姉。ただ、この顔をさせられるのが、自分であって欲しかっただけなのに。
ごめんと、美也が放心したように謝罪の言葉を繰り返す。
「ごめん、ごめんね。聖良」
違う、そうじゃない。気が付けば聖良は涙を流していた。涙を流しながら、謝罪の言葉に首を振り続けていた。
違う。違う。違う。欲しいのは、謝罪じゃなくて。……美也が結婚をしないでいてくれたら、それでいいのに。
美也は、静かに言った。
「でもね、もし結婚をしなかったとして……私は聖良のこと、そんな風には見られない」
「……どうして」
「だって聖良は、神様のものだもの」
――嗚呼。やはりこんな声、要らなかった。
だって、これこそが自分を不幸にするのだ。好きな相手の幸福の役にさえ、立てない。
次の日、突然聖良の声は出なくなった。
聖良は落ち着いたものだったが、代わりのように周りが騒然としていた。両親は病気を疑い、病院にまで連れて行かれた。聖良は、そんなに「神様からの贈り物」とやらは大事なのかと、呆れたように思うだけ。
そう時間をかけずに医者から出された診断は、「変声期」であった。
***
次に声がきちんと出るようになったときには、聖良の声はすっかり低くなってしまっていた。もうソプラノの音域など出ない。聖歌隊もやめどきだろう。
声変わりをしたことは、両親を少なからずがっかりさせてしまったようだ。古池とは直接話をしたわけではないが、時折微妙な視線を向けられる。……美也はあれ以後、聖良の前に姿を見せていない。聖良の元に寄せられたのは、結婚式の招待だけ。
今にして思えば。本当に、あの声は美也のためだけにあったのかもしれない。
そんなことを考えながら、聖良はカレンダーの赤丸がついた日をちらりと見る。明日は美也の結婚式だ。