狐の小路
――これから、小さなおとぎばなしをしよう。
ぼくにもうまく話せるかわからない、ほんとうにちっぽけな、ひみつのお話。
きみはそんなお話を聞いて、おもしろいと思ってくれるだろうか。
とある街に、小さなお稲荷さまがある。稲荷と言うのは、狐の神様を祀る神社のことだ。
場所はどこかって? 残念ながら、それは教えることができないけれど。
そこには来る人を見守るようにして座っている狛犬ならぬ狛狐の石像が目もさめるような赤い前掛けをつけていて、鳥居の朱色もあせていない。まあつまりは小さいけれどとても信じられている神社なんだ。
じっさい、そのお稲荷さまはとても霊験あらたか――つまり、願い事がよくかなう――なんてうわさもある。いつから言われているかわからないけれど、本当に小さな神社なのに、今では最近流行りのパワースポットだなんて話もあるらしい。まあ、ぼくはそれほど信じていないけれど。
でも、そこの神様は、とても人間っぽい。
それはまるで、まっすぐで傷つきやすい、だけどたんぽぽみたいに柔らかな心を持った少女。
……まあ、そこの神様はじっさい狐なのだけれど、まだ年若いメスだから『少女』といって差し支えがないだろう。
え? 何で知っているかって?
だって、ぼくは彼女に会ったことがあるんだから。
うそや冗談なんかじゃない。本当だ。
彼女は間違いなく、ホンモノのカミサマだった。
ぼくは今でこそごくふつうの大学生なんてやっているけれど、もちろん昔は当然のことながら子どもだったわけで。
小さいころから神社の近くに住んでいて、初もうでは当たり前のように毎年この神社だった。家族全員で大みそかの除夜の鐘を聞き終えてから神社に向かうのは、毎年のお約束。
神主さん一家が元日の夜中に毎回甘酒をふるまってくれて、ぼくはその白くて甘い、湯気の上がる飲み物を毎年のようにもらっていた。うんと小さい頃はさすがにもらえなかったけれど、小学校に入学するころだっただろうか、それをはじめてもらって飲んだときは少し大人になった気がしたものだ。ほんのり甘くて、やさしい味がしたっけ。
夏は夏で年に一度の祭りがある。小さな境内――神社の内側のことだ――がにぎにぎしく彩られて、見ているだけでわくわくしたものだ。
少し離れた場所にもっと立派な神社もあったけれど、そこは幼いころのぼくにとって少しいごこちの悪いところと言うイメージだった。この小さいけれど静かな空間を、ぼくは愛していたから。
高校生のころにもらった歴史の教科書に載っていたのだが、その立派で大きな神社はこの付近の一ノ宮だったらしい。一ノ宮、と言うのは昔そのあたりで一番大きかった神社と言うことで、ぼくにはいごこちが悪かったのも当然といえば当然だろう。しかし一ノ宮の存在が今のぼくがあるきっかけのひとつとなったのは、おそらく間違いない。
とはいえ、今もよっぽどのことがない限り、神社といって思い出すのはあの子供の頃から慣れ親しんでいたお稲荷さまだ。
幼い頃に聞いた話によると、もともとその神社がある場所には大きなクスノキがあって、そこに狐の一家が住み着いていた。今はもうそのクスノキは残っていないが、その狐たちは悪さをせずに田んぼや家の害になるネズミなどを食べつくしてくれたらしい。それを縁に神社を作って狐をお祀りすることになったのだそうだ。
そんないわくがあるためか、ここの狛狐たちはひどく穏やかでかわいらしい顔をしている。だからだろう、ほかの神社の狛狐の顔のきびしさには、いつもびっくりしてしまう。石像の顔だちといってもあまりわからない人がほとんどだろう。しかしよくよくみてみると、どの神社の狛狐にも少しずつ少しずつ、彫りの違いというものがある。この稲荷はそれがやわらかい。そういうことだ。
ぼくは別にそういうものを観察する趣味があるわけではない。ただ、ふんわりとやわらかな、まるで笑みを浮かべているような狐の石像が小さいころから好きだった。それに子どものころは境内でよく遊んでいたから、神社の内部を細かいところまでほぼ記憶しているというのはぼくのひそやかなじまんなのだ。本当に子どものころはやんちゃで、五、六人の仲間たちとつるんでは暗くなるまで毎日のように遊びまわっていたくらいで……
そう、あの神社はまさにぼくにとってのホームグラウンド。
小さいころから通っていた、思い出の神社だ。
だからこそ、彼女に会うことができたのだろう。
だからこそ、今のぼくはこの話ができるのだろう。
それは中学に入って間もないころだった。
それまでみたいに放課後毎日遊びほうけるということはほとんどなくなって、学校と部活と学習塾のみっつに明け暮れる毎日に突入しつつあった。といってもそのころはまだ部活は体験入部だったし、塾だって受験生のそれに比べればうんと楽な勉強内容だったはずだ。それでも学習塾に通った経験はなかったから、疲れがたまりやすくなっていたのかもしれない。
それでもまだ着慣れない、少し丈がぶかぶかな学生服のつめえりを時々さわることで中学生の生活を送っているのだなあ、と時々思い起こすくらいにしか実感がわかない。むしろ、学区や部活動の違いでそれまで仲良くしていた友人たちと顔を合わせることの少なくったことのほうが、ぼくにとっては寂しく感じていたくらいだ。小学生のころは追いかけっこをしては、くたくたになるまで遊んでいたな、と思い返す。
そんなある日の帰り道、ふとかつて毎日のように友人たちと遊んでいた神社がみょうに気になった。
神社の前の道は中学への通学路で、毎日通る。だが通りすぎるだけで、そのころは境内に入ることもなかなかなくなっていたのだ。
ふだんは何の気なしに通るだけの道だけど、その日はなんとなく懐かしくなって境内に足をふみいれた。そういえば最近顔を出していなかったなと思って、なんとなく手を合わせたくなったのだ。べつに学校でいやなことがあったわけではない。確かに小学校時代と比べたときの授業内容などの大きな変化はとまどいを生んでいたし、体験入部した野球部では先輩にしっかりしごかれている。疲れていないといったらウソになったが、だからといってそれにめげるわけにもいかず、少しでも親や先輩、教師たちの期待にこたえられるようにと少しずつがんばっていた。少なくとも自分としてはがんばっているつもりだった。
ぼくは社殿――神社のたてもの――の前に立つと、ズボンのポケットの財布から十円玉を取り出して、さいせん箱に放り込んだ。ちゃんと二礼してから、パンパンと手を打つ。神社のお参りは二礼二拍一礼といって、まずはじめに頭を二回下げ、次に二回手を打ってお祈りしてからもう一度頭を下げるという作法があるのだが、神社に慣れ親しんでいたためか、気がついたころには身についていた。前よりもごつごつしてきた手のひらは、以前よりも大きな音を生む。そして目を閉じて、心の深くで祈る。いや、それは祈りよりも旧友に対するあいさつのようなものに近かった。
(おひさしぶりです。今は中学生になったのであまりひんぱんにくることは難しくなるかもしれませんけど、これからも時々こうやって来ます……よろしくお願いします)
そうひととおり祈って、さいごの一礼をしたそのときだった。背後でぱきっという、乾いた小枝をふむような小さな音がしたのは。
音に気がついたぼくはあわててぱっと振り向いて、そこに誰がいるのかと目をこらす。なんだか神頼みをしているみたいで、そしてそれをのぞき見されたみたいで、少しだけ気恥ずかしくなったからだ。
そこでぼくが見たのは――白い着物に赤いはかま、世間一般で言う巫女服を着た少女だった。年のころは自分と同じくらいだろうか。でも今まであまり見かけたことのない顔だなとぼくはぼんやりと思う。快活そうな大きな瞳と巫女服がなんとなくミスマッチな、けれどそのくせそれがなぜかかしっくりとする、そんな感じのふしぎな少女だった。その子はびくりと身体をこわばらせて、それからちょっとこまったような照れ笑いを浮かべた。そして鈴を転がすようなかわいらしい声で、言った。
「ええと、淳司くん、だよね」
名前をたずねられてぼくはびっくりした。小学校のころは胸の目立つ位置に名札をつけていたからともかく、みんなおそろいにしか見えない学ランと学校指定のスクールバッグには表に見えるような場所に名前を書いた記憶がない。ぼくがふしぎそうな顔をしているのに気づいたのか、少女はあわてて言葉を付け加える。
「あ、えっと……ちょっと前まで、ここでよく遊んでいたよね? 前に見かけたことがあるなって、なんとなく覚えていて」
「ああ……」
まだ中学に入学して間もないし、べつだん顔が変わったわけでもない。あえて言うならわずかに日焼けをしたくらいか。見覚えのあまりない相手だけれど、きっと以前にたまたま見かけて、そのときに覚えていてくれたのだ――そう思ったら、みょうに納得できた。
「君は、ここの巫女さん?」
神主さんの家には確か同年代の少女はいなかったはずだ。しかし目の前の少女はいかにも神職――神社で神様につかえる人――の関係者であるような姿だったので、おそるおそるたずねてみる。
「んー、似たようなものかな。まだ見習いだけど」
光の加減でか、稲穂のような黄金色にも見えるリボンでポニーテイルにしたその髪がさらりと揺れる。つややかでやわらかそうな、いかにも女の子らしいその髪の毛に夕陽が当たって、きらきらと輝いていた。それがとてもきれいで、思わずぼくは見とれてしまっていた。
こんなきれいな子、見たことがない。
長い髪もきれいだけれど、その顔立ちもだ。たまごのようにつるりとしたみずみずしい白い肌に、ややつり目がちで快活そうな大きな目。瞳はほんの少しはちみつを混ぜたようなふしぎな色合いで、頬とくちびるは化粧をいっさいぜずともいかにも健康的なピンク色をしていた。
いや、姿かたちだけの問題じゃない。その少女のまとうオーラみたいなものが、とても澄んでいて、きれいだったのだ。
「ちょっといろいろあってね、しばらくここを離れていんだけど、またこっちに来たの。でも、あたしのこと、はっきり見える人がいるって言うのもちょっとびっくりしたなぁ」
よくわからないが、彼女はぼくのことを彼女なりにほめてくれているらしい。うれしそうにくすくす笑いながら、手を差し出してくる。
「あたしはね、杏花。あんずの花、って書くんだよ」
ふわりとかいだことのない、だけどどこか懐かしいあまずっぱい香りがどこからか鼻をくすぐった。
彼女――杏花はそう言って握手を求めてきた。かわいらしい名前だな、とぼくは思う。といってもぼくはあんずなんて果物はせいぜいジャムていどの知識しかなかったから、あいまいにうなずくだけだった。それよりも、ぼくはびっくりしていたのだ。友情表現として差しだされた手はなんとなく気恥ずかしくてつかめない。ほぼ初対面の、同年代の少女に――それもとびきりの美少女に――そんなあいさつをされるなんて、初めての経験だったからだ。少女はそんなぼくを見て何度かまばたきすると、くすっと笑った。
「あ、もしかしてあんずのホンモノ、知らない?」
もちろんそれだけの理由ではないのだけれど、杏花は同じ年ごろとは思えないくらいするどい。痛いところを指摘されて、ぼくは思わず赤くなって下を向いた。しかしそれは同時に、言わずとも答えを示してもいた。あんずの実は、見たことがないと思う。
「今度見せてあげるね。実もおいしいし、きっと気に入るよ」
杏花はそう言うと僕の鼻っ面をつんと押して、そしてくすくす笑った。そのしぐさが同年代の少女めいた外見に反して大人びていて、ちょっとびっくりする。と言うか、さらに真っ赤になってしまった。
「あれ? どうしたの?」
少女はふしぎそうな顔をして、ぼくにたずねる。でもぼくがとまどっている原因はどう考えてもこの少女なのだから、やっぱり顔を赤らめるしかない。
「……な、なんでも、ないっ」
のどの奥からそれだけをしぼり出して、またぼくはうつむく。杏花はふぅん? といった表情を見せると、
「ならいいんだけど」
と言ってまた笑った。どうやら相当の笑い上戸らしい。もちろん本来のお酒が入った人に言う『笑い上戸』ではなくて、よく笑う少女だと思ったのだ。それにしてもこれほどの美少女をまったく覚えていなかった自分もよっぽどだなあとぼくは思う。ひと目見ただけで恋に落ちてもおかしくないくらいなのに。
そう、ぼくは彼女をひと目見た時から胸のざわめきが止まらなくなっていたのだ。こんなにきれいな少女を見たことがない。この場合のきれいと言うのは姿かたちだけでなく、彼女のもつ空気そのものをもさしている。
まるで真夏のソーダ水のような清涼感。それが彼女からは感じられたのだ。
「淳司くん、最近はこの神社にあまり来ないよね? どうして?」
杏花はふしぎそうにぼくにたずねてきた。赤くなった顔を気取られぬよう、ぼくは軽くうつむきがちになって、言葉をつむぐ。
「……中学に入ったら、だんだん忙しくなってきちゃって。それに、小学校のころのクラスメイトたちとも、みんなばらばらになっちゃったし」
「そっか。……みんな成長しているんだもんね」
少女はみょうに納得した顔で、ぼくの姿をあらためて上から下まで眺めている。何かおかしいところでもあったのだろうか? ちょっと自分でも不安になって、制服を何度かぱんぱんっとはたいてみる。
「あ、いや、その。それ、たしか制服でしょう? えっと、近くの……チュウガッコウ、だっけ。似合っているなって」
視線を気づかれたのが恥ずかしいのか、彼女はそう言って照れ笑いを浮かべた。学ラン姿を見てそう確認するのも、それはそれで珍しい気がする。その問いかけにぼくはごく小さな声で、
「……うん」
とだけ応じ、ちょっとそっぽを向いた。少女の顔が、そのときのぼくにはまぶしすぎたから。今でさえ思い出すたびに、まぶしいと思うくらいに。
「ガッコウではどんなこと、しているの?」
杏花はさらに好奇心いっぱいというような表情を浮かべた。同世代にしか見えない少女だが、何らかの理由で学校に通っていないのだろうか。デリケートそうな話題にあまり質問を質問で返すのはどうかと思ったので、ぼくは問われるままに入学したばかりの中学校の様子を自分で思うままに口にする。
今まで着たことのなかった制服や、算数が数学に変わったとたん難しさを増したこと、部活動での上下関係……本当にぼくにとってはちっぽけな、だけど十分に驚きをともなった出来事ばかり。それでも彼女はぼくの下手な語りを楽しそうに聞いてくれて、ぼくの口にも思わず笑顔が浮かぶ。
「……最近は、このあたりで遊ぶ子どももずいぶん減ってきたでしょう? だから、つい声をかけちゃったの。あ、見たことある顔だーって、そう思ったら急になつかしくなっちゃって」
いたずらっぽい声で杏花はそう言い、ぺろりと舌を出した。確かに以前に比べ、神社の中は静かでひろびろとしている。たしかに以前もぼくたちのほかに遊んでいる子どもはそう多くなかったけれど、こんなに人がいないなんて境内に入るまで思ってもいなかった。
「静かだね」
そう言われて、ぼくはあいまいにうなずく。それは大学生になった今から思えばきっと彼女の中に潜んでいる寂しさがうみだした言葉だったんだろうけれど、そのころの――中学生のころのぼくにはそこまでわかるわけもなくて、少しだけ大人のぼくの心がちりりと痛む。
そんな話を続けているうちに、あたりがだんだんと暗くなってきた。
そういえばとぼくは入学祝いにもらったばかりの腕時計を見てから、よいしょとかばんを持ち直す。時計の針はもう、六時を回っていた。
「そろそろ、帰らないと」
「そっか……淳司くん、また来てくれる?」
杏花がじっと真剣な瞳でぼくを見つめているので、ぼくは苦笑した。
「来るくらいなら。ここは、通り道だし」
ぼくは軽く手を振って、少女に別れを告げる。このままいたい気持ちがないわけではなかったけれど、そういうわけにもいかないのだ。
「じゃあ、また」
「またね」
――またね。
そうあいさつをかわして、ぼくはその場を後にした。途中で振り返ると、彼女はずっとぼくに手をふり返し続けてくれていた。ぼくもそっとふり返す。
――いつだって会える。単純なぼくはそう思っていたから。
それから何日かたって、ぼくはまた神社に来ていた。あんなにきれいな空気をまとった少女のことを忘れるなんてなかなかできない。彼女に会えるだろうか、彼女とまた話が出来るだろうか――そんなことをぼんやり考えながら、ぼくは鳥居をくぐった。
真っ赤な鳥居をいくつかくぐると、少女がつまらなさそうな表情でぼんやりと社殿のそばに腰掛け、足をぶらぶらさせているのがようやく見えた。姿を見て安心したが、ぼくが境内に入ったことにも気づかない様子なので、ぼくはなんとなくいたずら心を刺激される。少女に気づかれないようにそおっと近寄って、そして前触れなしにとんとんと軽く肩をたたいてみた。
「きゃっ!」
思ったとおりと言うか、彼女はぼくの唐突なあいさつに驚きの表情をかくせなかったようで、胸に手を当ててぼくの方を見つめる。そしてようやく気づいたといった顔で、
「……ああ、淳司くんかぁ、びっくりしたぁ」
そういって、胸をなでおろすかのように小さく笑った。だけどその笑顔がこの間よりも少しくもっているようにも見えて、ぼくはつい、なにかあったのだろうかとたずねてみた。少女は少し困った顔で、
「ん……特に、何も?」
そうやってあいまいにはぐらかしていたが、それでぼくが納得できるわけがない。たわいのない会話の合間にため息をついているような姿を目の当たりにして、何もないと思うほうが不可能なのだ。
「ウソつくなよ。ため息ついてるじゃないか」
ぼくがそう指摘すると、杏花ははっとして口元をあわてて隠す。そういえばこの少女にここまでくだけた言葉を使ったのは初めての気がした。相手もそれに気づいたのだろう、うれしそうに笑って、そして小脇からなにかを取り出した。
「はい。まえ言ったでしょ、あんずのホンモノ」
それはとてもいい香りを発していて、みずみずしくて、今にもかぶりつきたくなるような果物だった。ぼくはそれを一つ手に取ると、まじまじと見つめる。
「時期はまだ早いんだけど、いいものが手に入ったの」
杏花の顔が花のようにほころぶ。それを見てから、ぼくはあんずにかぶりついた。鼻先をくすぐる甘い香りが、お食べなさいとぼくを誘ったのだ。一口かめば、口の中でたっぷりの水気といっしょにあまずっぱさがいっぱいに広がる。
「おいしい……」
「でしょう? もってきた甲斐があったなぁ……あ、もしもっとほしければ、まだあるよ。どうぞどうぞ食べて、淳司くんに食べてほしくて持ってきたんだもん」
杏花はまた笑った。その笑顔はさっきまでの影を振り払ったみたいに無邪気さをたたえてきれいで、やっぱりぼくは見とれてしまう。ぼくはあんずをごちそうになりながらまたたわいない話をして、杏花はそれを静かに聞いてくれて、そんな風にやさしく時間が過ぎていって。
――だけど。
「……また会えるかな」
ふいに杏花はそんな言葉をつぶやいた。彼女は少しうつむきがちで、その表情はきちんと見えない。その様子に、ぼくはきょとんとしてしまった。
「また、神社にくれば会えるんじゃないのかな?」
ぼくは彼女の考えがわからないので、そんな言葉を返す。すると杏花は顔をあげ、はらはらと涙をこぼして首を横にふった。ぼくはそれに戸惑いをかくせない。
「……おお爺さまが、また戻ってこいっていうの」
「おお爺さま?」
彼女の口から出た言葉をおうむ返しにする。
「ああ、長老様よ……あたしたちの。このあいだまではおお爺さまのそばで修行していたの。やっと一区切りついたからこっちに戻ってきたのに、また……。今度は前よりももっと長く修行することになりそう」
ぼくにはいまいちよくわからないが、彼女にとってはとても重大なことが起きていることだけはわかった。
また、彼女はここからいなくなる。
それだけははっきりと伝わって、ぼくはどうしたらいいのかわからなくなった。下手な言葉をかけるのも失礼かもしれないからだ。きっとまた会える、そう言いたいのにうまく言葉に出来ない。それはきっとぼくが少し大人になってしまっていたからなのだろうと今なら思えるのだけれど、当時のぼくにはわからなくて。
「……戻ってくることができたら、またこんな風に話してくれる?」
そんなことを言う杏花が、大人びているような、子どもっぽいような、ふくざつな表情をした。ぼくは笑った。当然じゃないか、と言おうとして――
そこで、ぼくの顔が少しこわばった。
杏花の身体が、かげろうのように弱々しく揺らめいていたのだ。ぼくは何が起きたのかわからず、何度もまばたきをする。すると先ほどのは見間違えだったのかと言うくらいに、ごく当たり前に彼女はそこにいた。
「……どうしたの?」
ふしぎそうな顔で杏花がたずねてくる。ぼくはなにをどういえばいいのかわからなくて、
「な、なんでもない、うん」
とだけ、何とか口にした。杏花はそんな自分の変化に気づいてないのか、
「変な淳司くん」
といって泣きそうな顔をしているのにくすくすと笑う。女の子はこんなときでも笑うんだなあと思いつつも、笑顔を少しでも見ることが出来てほっとした。ぼくの顔にも、ほんのり笑顔が浮かぶ。すると次の瞬間、今までに見たことがないくらいまじめな表情で、彼女はぼくを見つめてきた。
「……あたしのこと、忘れないでね」
まじめな顔で、少女は僕に言う。ぼくはほほえんだ。
「大丈夫、忘れないよ」
すると杏花はぼくに向かって手を突き出し、何かを手渡してきた。それを手にとってまじまじと見ると、それはどこにでもありそうな真新しい守り袋。金や銀の糸で神社の名前がししゅうされていることもあって、このお稲荷さまで配っているものだとすぐにわかった。
「これ、あたしだと思って大事にしてくれる?」
少女は上目遣いにぼくに尋ねてくる。ぼくはわずかにとまどいつつも、うなずいてそれを大事にかばんの奥に入れた。
「大事にさせてもらうよ」
そういうと、彼女はにっこりとほほえんで――
その瞬間。強いつむじ風がぼくらをおそった。砂や木の葉がくるくると舞いおどり、目も開けられないくらいの強風で、ぼくは思わず目をつぶる。
――また、ね――
びゅうびゅうと言う風の中に、そんな杏花の声が聞こえた気がした。風が止んで、目をゆっくり開けると――そこにはだれもいなかった。
「……杏花?」
ぼくはおそるおそるその名を呼ぶ。けれど、返事は返ってこない。先ほどまでの出来事は夢だったのか、そう思いたくなるくらいに彼女がいたと言う証は残っておらず。
「……そうだ、」
ぼくはかばんにあわてて手を突っ込んだ。先ほど手渡されたお守り、あれすら残っていななかったらどうしようかと不安に思ったのである。しかしさすがにお守りは、かばんの底にひっそり眠るようにしてあった。それに触れて、ぼくは安心してひとつため息をつく。
これすらなかったら、彼女は本当にまぼろしになってしまうような、そんな気がしたから。
そう。本当にまぼろしのように少女は消えてしまった。ぼうぜんとぼくはその場に一人、立ちつくしている。どのくらい長い時間かはわからない、ただそこで動けなくなってしまっていたのだ。どこからか『夕焼け小焼け』が聞こえてくるまで、ぼくはぼうぜんとしていた。家に帰る、ただそれだけのことのはずなのに、この場からはなれるのがひどくおしい気がして動けなかったのだ。
……杏花。
ぼくは心の中で思う。
君のことはぼくだけの秘密。ぜったいに、忘れるもんか。
もらった守り袋をきつく握りしめて、ぼくは夕焼け空の下、誓った。
それは……そう、きっとぼくの初恋。
ほんのりあまずっぱい、春の思い出。
……それから何年がたっただろうか。
ぼくはそのふしぎなできごとを胸の奥に閉じ込めたまま、すでに大学に通う年齢になっていた。大学でぼくは社会の構造(つくりのことだ)を研究したりする社会学を――たいした理由ではないが、なんとなくそちらに興味を持って勉強していた。数学がどうしようもなく苦手だったので文系の学問を選んだ、と言うのもあるけれど。
社会学にもいろいろあって、ぼくはその中でも民俗学に近いものに興味をいだいていた。民俗学と言うのは社会での文化やもの・ことについて専門に調べていく学問で、これを教えてくれる教授はなかなかいないのだそうだが、幸運にもぼくの進学した大学にはそれを専門としている教授がいてくれたのである。
授業とアルバイトとサークル活動にあけくれるそんな中、自分で取材をしたりするフィールドワークと呼ばれるものの実践と言うことで、自分の住んでいる街の伝承や言い伝えを調べるという課題が出た。夏休みの間に調べろという、要は宿題だ。
といっても、郊外の住宅地である地元にそんな大げさなむかし話が残っているはずもなく、ぼくは資料のあてもない状態で近所の図書館に通いつめる毎日が続いた。課題にぴったりの言い伝えなんてそうそうめったにあるはずがない――そう思いながら。
そんなある日、ぼくはふとあの神社を思い出した。中学を卒業してからは都会の高校、そして大学に進んだため、なかなか行く機会のない場所になってしまっていたのである。
神社の由来と言うのはあんがい面白いものがたりが残っているというっけ、と民俗学の授業がきっかけで読んだ古事記や今昔物語といった古典文学を思い出していた。
――そういえば小さいころに聞かされた、あのお稲荷さまのクスノキと狐の話。あれも、もしかしたらネタになるかもしれないな。
そう思い出して、ぼくは胸を高鳴らせながら神社へと向かった。
陽射しが強く照りつける暑い日だった。でも神社は昔のまま、静かな空気をたたえている。額からこぼれ落ちる汗を軽くタオルでぬぐい、ぼくは境内に入った。小さいころ毎日のようにくぐっていた鳥居はなにかを思い出させる。それはもやもやしているけれど、ひどくあたたかくてやさしい記憶。
夏の暑い盛りだからか、子どもはいない。手を清めるための手水舎には、こんこんと水がわいている。ここの水はわき水なのだと、そういえば小さい頃に教えてもらった記憶があった。かつて教えてもらったかた苦しい作法もそこそこに、ぼくはひしゃくから水をそっと飲む。喉を通り抜ける水は冷たくそしてほんのり甘く、僕の乾いた身体をうるおしてくれた。
「……ふぅ」
一つ息をついて、ぼくは周囲を見渡す。小さい頃は広く感じた境内も、今みると小さいものだ。それでもなつかしさがこみ上げてきて、狛狐の石像などを資料の意味も含めてカメラで写真をとる。ごく当たり前に見える神社の由来――とりあえず神社の事務所にあたる社務所に顔を出そうとそちらに足を運ぼうとした。さやさやと境内に風に木の葉がゆれる音が響く。まるで、ぼくを歓迎しているかのように。
すると。
「……淳司くん?」
ぼくは不意に呼び止められた。なつかしさをともなう、優しい鈴を転がすような声で。まるでたずねられるかのように。
「……?」
声に聞き覚えがあるような、ないような。ぼくはふしぎに思いつつ、名前を呼んだ声の主をきょろきょろと探す。だけど周囲にはだれもいなくて、ぼくは首をひねったままだ。
「淳司くん」
もう一度、今度は確信を持ったふんいきで名前を呼ばれる。こんなに親しみをこめた、優しい声なのに、ぼくはその姿をとらえることが出来ない。
なぜ、なぜだ。ぼくは周囲を見回しているのに問題の相手が見つからなくて、だけど胸がざわついて……ひどく心がかき乱される。
「だれ、だ?」
ぼくは誰もいない空間に問いかけた。
「忘れちゃったの……?」
寂しそうな声が、ぼくの胸に突き刺さる。やわらかい少女の声がぼくを呼ぶ。
しゃらん、と言う鈴の音が聞こえる。ふわりとただよう甘い香り。それは昔、確かにかいだことのある香り。……あんずの香り。でもこの近くにあんずの樹はないはずで、ぼくは戸惑う。無意識に、ポケットに突っ込まれた古びた守り袋を握り――ぼくははっと気づいた。
――あんずをくれた、さわやかな氣をもつ少女。
それは、ぼくの初恋。
あまずっぱくてやさしい、忘れかけていた思い出。
どうして今まで忘れていたのだろう。
まさか、まさか……
「まさか、杏花……?」
ぼくはその名をゆっくりと口にする。するとゆらりと空気が揺らいで、そして少女がひとり、ふわりとぼくの目の前に姿を現した。かつて見たときと同じく巫女装束をまとい、優しげなほほえみを浮かべた少女。しかし、その姿に違和感を覚えた。
――成長を、していない。
かつて中学校に入学して間もないころに出会ったそのままの姿で、少女はぼくの前に現れたのだ。軽やかな足取りで近づき、少女はぼくを見る。ひどく懐かしそうな瞳で。
「――大きく、なったね。声も低くなった。でも、すぐに分かったよ。変わってないもの」
杏花がほほえむ。
「もう、大学生だからな。今日は課題のための資料集め」
ぼくは応じる。少女は笑った。
「そうか……ダイガクセイ、か。そうだよね、七年以上たっているものね。で、カダイ、って何?」
「ああ……何か地元の面白い言い伝えを調べてこいって」
「なるほど。ここの由来でいいなら、どんどん使っていいよ、むしろどんどん使っちゃって。みんなの記憶に残るくらいに、ね」
彼女はくったくのない笑顔でそう言った。
……言っておくが、ぼくは驚いていないわけではない。この突拍子もない登場をした少女に驚かないわけがないではないか。でもたぶん、なんとなくわかっていたのだ。少女はきっと――この稲荷の眷属か何か。つまり、人ではないと。
「私のこと……なかなか思い出せなかったね。覚えていなかったらどうしようかと、すっごく心配だったんだよ」
「仕方がないよ、まさか今、あのころのままの君に名前を呼ばれるなんて思ってもいなかったし」
ぼくは彼女を見つめる。本当に、何もかもあのころのままだ。出会ったころはまだ同じくらいだったはずの身長も、成長期を終えたぼくのほうがうんと高くなっていたので、視線を合わせるために腰をかがめてみる。
「見えて、よかった……また会えて、よかった」
少女はほほえむ。ポニーテイルにつけた大きな黄金色のリボンのようなものは今だからわかったが、狐の耳そのものだった。ふさふさした毛がビロウドのようなつやをはらんでゆれている。
きみは――
ぼくは言葉にしたい気持ちをぐっとこらえた。言葉にしてしまうと、すべてが消えてしまいそうな、そんな気がして。
出会いも、思い出も、そしてぼくの小さな胸の痛みも。
「渡したお守り、まだ持ってくれているんだね」
そういわれて、ぼくはポケットの奥で握りしめていた守り袋をそっと取り出す。もうだいぶ色もあせていて、見栄えのよいものではなかったけれど、ずっと大事にしてきたぼくの宝物だ。それを杏花に見せるように手を広げると、彼女は顔をほころばせる。そしてその指を守り袋にそっとあてると、すり切れほつれ色あせていたはずのそれが一瞬にして新品同様の美しさを取り戻した。
「これはお礼、かな。これからも大事にしていてね?」
永遠の少女ははにかむように笑う。
「――神格がね、前より上がったの。ああ、神格って言うのは……神様のレベルみたいなものね。とはいえ今のあたしじゃあ、まだまだだけど」
ふわっと髪をなびかせ、巫女服のすそをはためかせ、杏花は笑顔を浮かべたまま言った。そういわれてみれば、境内は以前に比べて確かに空気が澄んでいるような、そんな気がする。
「でも現代は、みんなあたしたちのような存在を忘れてしまう。敬うことを忘れてしまう。少し寂しかった。……でも、淳司くんは覚えていてくれた」
人々の記憶というものは肉体を持っていない、人ではない存在にとって大事なものなのだと、少女は告げる。
「だから、あたしは今もこうして君の前にいる。……まるでできそこないのおとぎばなしみたいでしょう?」
苦笑しながらつぶやいた杏花の言葉に、ぼくは首を横にふった。彼女は初めて出会った時からちっとも変わっていない。そのすがすがしい氣も、やさしい笑顔も。
「ぼくは、それもすてきだと思うよ」
君に出会えたことはとても嬉しかったのだからとぼくは笑う。
「そう――そうかもしれないね。……ねえ、これからも忘れないでいてくれる? 人の記憶と言うのは、何よりも強い、あたしたちの生きるチカラだから」
最後に会ったときと同じ問いを、彼女はぼくにまた投げかけた。
「……うん。きみと言う存在があること、きっと忘れない」
風が吹く。ぼくと杏花の間にある、決して超えることのできない壁として、風が吹く。今度は目をそらさないよう、ぼくはじいっとその姿を見つめた。
その風はくるくるとゆるやかならせんを描き、少女の姿を狐へ、そしてかげろうのようなまぼろしへと変えていく。そして、誰もいなくなったはずの場所から声が聞こえた気がした。
――『ありがとう』、と。そして、『またね』と。
でもぼくは満足だった。彼女に再会することが出来た、それだけで。あのころのままの彼女は、あのころと同じで見ているだけで気持ちがよかった。心がまるで透き通るような、そんな心地よさを感じる。
「――さて、課題のほうにとりかかるかな。……見ててくれよ、杏花」
一つ背伸びをしたあと、ぼくはつぶやいた。心の中はすがすがしかった。
思い出にひたっていたら、すっかり時間がたってしまったようだ。
――そう、これがぼくの知っている小さなものがたり。
たわいのないおはなしだけど、きみは喜んでくれただろうか。
それとも彼女が自分で言うとおり、できそこないのおとぎばなしと笑うだろうか。
それでもぼくはかまわない。
――きっと彼女は、いつだってあの場所で、ぼくたちのことを見守っている。語りつがれていく限り、彼女はいつだってそこにいる。
ぼくはそう思っている。
それはきっと、人々の心に信じる心がある限り、彼女がそこにいるとぼくが信じているから。そう、きっと。
だから、きみたちも忘れないでくれるだろうか。
見えなくても、そばで見守っているやさしい存在たちのことを。
いちおう、児童文学として書いたもの。
少年の一人称。
成長とそれによるなにかの喪失を書きたかった。
狐は好きなテーマ。
巫女装束の狐の化身、はよく自分のオリジナルに登場。
読んでくださってありがとうございました。