それは突然でした。
意識が、無限に広がる暗黒世界の中にあった。なにか、とても大切なことを考えていた気がする。しかし、それが何であったのか、今のおれにはわからない。
ある時、眩しさがおれを暗黒世界から引きずり出した。その眩しさの先には、ある世界を見晴らしのいい場所から眺めているような景色があった。長方形に広がる黄色い砂の地面に、白い線で何重にも陀円が描かれ、黄色い地面のふちには、網が張られた白い小さな長方形の枠がいくつか寝そべっていて。その全体を囲むように、桜の木がいたく咲き誇っている。顔を上げれば、淡い青色があって、やわらかそうな白がいくつか浮かんでいた。
なぜだろう、この景色には見覚えがあるような、なにか不安に似た胸の奥が少し痛むような、そんな気持ちを起こさせる。
おれは小さな部屋の窓のサッシに組んだ腕を乗せて、そんな風景を見ている。
この景色は何なのか。ここはどこなのか。おれは誰なのか……。
何も思い出すことができない。
そんなおれにもひとつ、確実にわかる事があった。
それは、おれの背後でパイプ椅子に腰かけている男子学生が、こっちを見てにやついていることだ。この男子学生に気付いていないふりをしているのは、ここで話しかけたら面倒なことに巻き込まれそうだとか、そんな理由ではない。
とはいえ、なんでこの男子学生はにやついているのか。おれのことを知っていて、おれから話しかけられるのを待っているのか。それとも、背中に「半額!」とか書かれたシールが貼ってあるのを見つけて、「いつ気付くのかな、いつ気付くのかな」なんて思っているのか。もしそうだったならば、すぐにでもはがして「うわ、やられちゃったな!」と軽く笑って流して、少しでも付くであろうメンタルの傷を浅くしたい。
そんなことを考えていると、背後から声が聞こえた。
「やあ、ユウキ。ひさしぶりだね」
ついに話しかけられてしまった。暑いわけでもないのに、背中に、額に、汗をかくのがわかった。
しかし、その声は、悪意のようなものはいっさいなく、非常に聴きやすく、心地のいい響きだった。
「……わるい、誰、だっけ?」
自分のなかでは、かなりの決心をしたつもりだ。おれは振り向き、声の主に言ったのだ。
すると男子学生は、「うそお」とありきたりな言葉を発し、椅子から滑り落ちるという使い古しのリアクションで驚きを表現した。
「それは冗談かい、本気で言ってるのかい?」
崩れ落ちたままの体勢で男子学生は言う。
「ごめん、マジな方です」
一応、申し訳なさそうに答える。
もしかして、と男子学生が椅子に座りなおしながら言ったそれは、いま自分が置かれている状況そのものだった。
「ここがどこだとか、自分の名前とかもわかってなかったりするんじゃない?」
こいつはおれに記憶がないことがわかっているのか。
「ああ、何も思い出せない。なんとなく外の景色は記憶にあるような、そんな気はするけど……。さっきお前はおれの事をユウキって呼んだよな。おれはユウキって名前なのか?」
疑問に思っていることをとりあえず聞いてみる。
「そうだよ、君の名前は関祐輝。それでここは、高校三年間、君が過ごした文化研究部の部室なのさ。だからこの窓からの景色が記憶にあったのかもね。それで、僕は仲村光です。コウって呼んでね」
そう言って椅子から立ち上がり、差し出された右手を、まあそうなのか、と握って応えた。
こいつはしっかりと記憶を持っているようだった。そうなると、おれの記憶がないのは何なのか。
「なあ、おれは記憶がいっさいないようなんだ。記憶喪失なのか?」
「ああ、そのことだけど、この世界に来た以上、記憶がない事は別におかしい事ではないんだ」
「どういうことだ?」
握っていた手に力が入る。コウはそれに困ったような表情をしたが、握っていた手を解き、椅子に座り直した。
「この世界に来る人間は、死ぬか生きるか、その境目にいる人間なんだ。そのきっかけが交通事故とかだったりすると、頭をやられることもあるから、記憶がない事はイレギュラーなできごとではないのさ」
おれの予想をはるかに超越した答えが返ってきた。もはや異次元のお話だった。
だめだ。なに言ってるんだこいつは、おれは生死の境目にいる? 記憶がない事もイレギュラーな事ではない?
全く思考が追いつかない。
頭を抱えて、髪をぐしゃぐしゃにしながらコウに問う。
ひとつ気付いたことがあった。
「ちょっとまて。ってことは、おれはつまり死にかけているのか?」
「うん。その通りだよ」
コウは満面の笑みで返す。
理解できない現実を突きつけられ、パンク寸前の思考回路に、コウの笑みが加わり、口調が強くなってしまう。
「おれは存在しているじゃないか! どこも痛くも、苦しくもない、それでもおれは生死の境目にいるって言うのか!? それに、記憶がないこともイレギュラーじゃないってどんな世界なんだよ!」
まあまあ落ち着いて、と言い、静かな口調でコウは続ける。
「ここは君が以前いた世界よりも、構造が大きいんだ。小さな世界の常識や秩序は、それより大きな世界には通用しない。大きな世界の常識や秩序によって打ち壊されるんだ。だから君は、順応性を高めないといけないよ、それで、あるがままを受け入れるんだ」
わ、訳がわからない。こいつぶっ飛んでやがる。そうか、おれはきっと疲れているんだな。それでちょっと頭がおかしくなってるんだ。休めば……休めばこんな悪い夢から脱出できるはずだ。ちょっと病院にでも行ってこよう。そうすれば、記憶がないこともちゃんとした説明を受けることができるだろう。
「もういい。病院にでも行ってくる」
そうやって、捨てゼリフを吐いて、外を見ていた窓と正反対にある、この部屋唯一のドアに向かって歩き出し、コウの横を通り過ぎた所で、おれはこの世界の情報をまたひとつ告げられた。
「まって、ユウキ、この世界に病院なんてないし、他の場所にはいけないよ」
「は?」
「この世界では誰も病むことはないし、それに君の場合は、この部屋から出ることはできないんだ」
「なにいってるんだ、お前。そんなはずな……あれ?」
ドアの前まで進み、ドアノブを捻る。しかし、押しても引いてもドアは開かない。
「くそ! どうなってるんだ!」
さらに強くドアを動かそうとも、ビクともしない。
全力で走って体当たりをしようとも、パイプ椅子でぶん殴ろうとも、ドアが開くことはなかった。
「どうだい、満足したかい? これがこの世界から君に課されたルールなんだよ。あと、もうひとつ、君は『心配されたら心臓麻痺で死亡』するんだ」
「意味がわからん。……説明しろ」
おれはドアと格闘し、ひざに手をついて、ぜえぜえと上がった息で言った。
「それが僕にもよくわからないんだ。ドアが開かないのもそうだけど、世界とか、世の中のルールって『理由はわからないけど、そうなっている』ってのが結構あるよね。僕にもそんな感じにしか、わかっていないんだ。」
パイプ椅子をすべてドアに破壊され、部屋には重すぎて使用を断念した本棚と、操縦性の観点から断念した長机ふたつが残るだけだった。座る椅子がなくなったコウは、ドアから一番遠い窓のそばにいて、両手の平を天井に向けて、やれやれといったジェスチャーをとりつつ、そう言ったのだ。
「理解できないことが多すぎる……。なんだって言うんだ、この世界は!」
「だからユウキ、言ってるじゃないか。順応性を高めないといけないよ、それであるがままを受け入れるんだ」
そう言ってコウは、ぺたぺたと校内用スリッパを鳴らしながらおれの横に来て、軽く肩を叩いた。
その時だった。あれだけ頑丈を誇ったドアから、ガチャと、ドアノブが回る音と同時に、ドアが……開いたのだ。




