その三
粉雪君は、驚くほど無反応で無感動な人だった。
もちろん、私が話しかければ何かしらの返事はしてくれる。しかし、そこに私情というものをほとんど挟まなかった。挟んでくれなかった。粉雪君の中には何かしらあったのだろうが、それを私に現わしてはくれなかった。意図的に彼の感情を逆撫でるようなことも言ってはみたが、あくまで便宜上の反論を唱えてくるだけだった。義務上の否定をしてくるだけだった。普通の人ならいぶかしんだり、怒鳴ったり、わめいたり、机を叩いたり、睨んできたり、あるいは無視したり、そんな拒否反応を――――粉雪君は全然しなかった。完全なる拒絶をしなかった。してくれなかった。
彼にとっては、私もまた世界の一部でしかないのだろう。
自分勝手な意見を自分勝手だと理解せずに押し付け、自分勝手に私を殺しにかかってくる――――なんてことをまったくしない、そんな人を、確かに私は心の底から望んでいた。そんな人の傍にいたいとずっとずっと思っていた――――はずなのに。粉雪君は、私の予想の遥か上空にいたのだ。
だから私は、こんなにも盲目になっていたのだろう。
この柊粉雪というクラスメイトを、常に視界の中心に置いていたのだろう。
自分すら世界の内側と捉えない彼。私すら遠く及ばない、私の理想の中の理想の具現化。……いつか、もしかしたら、何かのきっかけで、彼は私を世界の中心に置いてくれるんじゃないか? 私を中心に世界を回してくれるんじゃないか? 私だけを世界の主軸に据えてくれるんじゃないか? そんな淡い想いを抱いてしまうこともあった。しかし言われなくても、それが不可能なことは私にもわかっている。わかりきっている。
私を殺さない代わりに、私を生きているとも認めない。
彼の価値観とは、つまりはそういうことなのだ。そんな彼が見つめている世界こそ、私が正解だと目している世界のはずなのだが……。そんな世界が、見えない。見せてくれない。
私と世界を区別してくれない。
そんな彼に毎日話しかけようと思ったら、話しかけたいと思ったら、私はどうやったって、いわゆる『鬱陶しい人間』にならざるを得なかった。
私は鉄の笑顔を覚え、一人で数十分語りつくす癖を覚え、飽きもせず追いかけまわすという習性も覚えた。恐らく、同じ中学出身の同級生は、さぞ驚いたことだろう。私の笑顔を始めて見たという人もいただろうし、私の笑い声を初めて聞いたという人もいたはずだ。何人かは、同姓同名の別人だと思っていたかもしれない(事実、私は一度、中二の時隣の席だった女の子に『初めまして、よろしくっ』とあらん限りの眩しい笑顔で声をかけられたこともあったくらいだった)。
粉雪君と出会って一カ月経った頃には、私はだいぶ『それ』に慣れていた。
もしかしたら、本来の私はこうなんじゃないかと自分で思ってしまうほど、そういう『自分』が板についていた。私がこの仮面を脱ぎ棄ててしまったのは――――剥がれ落ちてしまったのは、今のところ、たった一度だけ。文化祭の夕方の時だけだ。あの時ばかりは、私は『私』だった。止められなかった。
物悲しくなる風景が、切なくなる眩しい夕日が、それを止めることを許してくれなかった。
私は何が嫌いなのか。
私は何が怖いのか。
私は何が悲しいのか。
私は何を恐れているのか。
私は何を望んでいるのか。
私は何を望まないのか。
それを伝えずには居られなかった。思わず、とめどなく伝えてしまった。……最も、『それ』がちゃんと伝わったのか、いまだに定かではないけれど。
逆に、それがたった一度だけだったということは、それ以外の時間はずっと、私は楽しかったということだろう。嬉しかったということだろう。粉雪君と話し、粉雪君に笑いかけ、粉雪君の隣にいた日々が。
特に嬉しかったのは、校舎から寮に向かう途中の道脇にある『時計塔』――――これを粉雪君と並んで見上げる一瞬だった。その時計塔は、垣根の奥の大きな木の陰に存在していた。毎日百何十人という生徒が通る道にあるにも関わらず、それを見つめる人間など、私と粉雪君だけ。それ以外は誰もそれを見上げなかった。見ようともしなかった。そんな類の――――あるいは、『その程度』のオブジェだった。
時間は、誰かのためにあるものじゃない。
我々にできるのは、ただそれが過ぎるのを待つことのみ。
寂しいけれど。悲しいけれど。
悔しいけれど。恐ろしいけれど。
でもそれだけが、事実。
そんな風に世界を眺めているのは私達二人だけだと――――そんな風に世界を正確に認識できているのは私達二人だけだと、そんな儚い幻想を、私は粉雪君の隣で人知れず抱いていた。抱くことができた。そんな夢のような一時だった。
そんな夢のような瞬間が、永遠に続けばいいと思っていた。