エリィの苦難
「ここがオレの部屋だ。魔王城とは離れになってるから、他の悪魔に見つかる心配もない」
そこそこ大きな平屋だった。でも、この大柄な悪魔には窮屈そうに見える。部屋の中は温かみのある暖色で統一されていて、居心地がよかった。心が反映されているような部屋だった。
私は蓋が開けられた箱から出ようとして、出れないことに気づいた。
「出して、おじちゃん」
私は両手を伸ばして大男の方へ向ける。
「あー、一応、ベルゼブブって名前があるんだが……そうだな、オレのことは師匠と呼べ、エリィ。これからここで生きていくすべを教えてやる」
そう言いながら、師匠は箱から出してくれた。その手つきは優しくて、この悪魔は信頼できると思った。私を置き去りにした義理の両親とは違って。
「ハムカツサンドを作り置きしていたんだ、食べるか? もちろん悪魔の主食である、人間の魂は入っていない」
「食べる!」
師匠は皿に乗ったサンドイッチを差し出す。が、すぐにひっこめた。
「なんで!?」
「その前に手を洗え、エリィ。そのぼろぼろの服も何とかしないとな。洗面台はそっちだ」
私は急いで手を洗うと、サンドイッチを頬張った。
「美味しい!」
「そうか、よかった」
そう言って、師匠は私の頭をなでる。
そこから、師匠と私の奇妙な同居生活が始まった。
「これは毒草だ、エリィ。腹が空いたからと言ってオレが不在の間、食べるなよ」
「じゃあ、これは?」
そう言って差し出した卵に、師匠はぎょっとする。
「な、これはコカトリスの卵じゃないか! 親はいなかったのか?」
「他の魔獣と戦ってたから……」
「コカトリスの卵は禁止だ、魔獣には一切近づくな。魔法も一切使えないだろう?」
「はい……」
しょんぼりしていると、頭をなでられた。
「怒っているわけじゃない。心配なんだ」
「うん!」
にっこり笑って見せると、師匠は私を抱きかかえて高い高いをした。
「やだ、私、そんな子供じゃないもん!」
「オレに言わせれば、まだ尻の青い子供だ」
「もー!」
つつましくも幸せな日々だった。師匠は本当の親のように愛情を注いでくれた。
「師匠、野草を取ってきました!」
50年後、私はすくすくと育って、二十歳ほどの見た目になった。師匠はそれを見越していたのか、私の背が伸びてきているのに気付くと平屋の一部屋を与えてくれた。
「あぁ、もうすっかり野草の区別はつくようになったな。料理はからきしだめだが、コーヒーの淹れ方も覚えたし」
「街へも買い物いけますよ!」
師匠の変身魔法があってこそだが。街では気味の悪い見た目の悪魔がうようよいる。中でも下級悪魔は悪魔の姿だと魔力の消費が激しいので人型のまま闊歩していた。だからすぐ見分けがつく。
「まだ、独り立ちしてはだめですか?」
「そうさなぁ……下級悪魔への偏見が無くなれば、だが……それにお前は見た目が天使みたいで目立つからなぁ」
「でも、私みたいな金髪の悪魔もいましたよ?」
「いや、お前みたいな美しい悪魔はめったにいないんだよ、そして魔界ではそれは醜いとされる」
こんなやり取りをしたさらに50年後、転機が訪れた。
堕天使たちが天界から堕ちてきたのだ。
悪魔たちはその圧倒的な美に打ちのめされ、自身の姿を恥じた。好き好んで、人間の姿を取るものが増えて、私はそこまで目立たない存在となった。
そして、出会ってしまった。
美しい海を思わせる青い瞳をした堕天使に。
コーヒーをあげた後、その堕天使はどこかへいなくなってしまった。無事、悪魔になったことで魔界のどこかで生きていることを願いながら私は過ごした。
しかし。
「エリィ、オレは出かけてくる。堕天使たちも来たことだし、お前はもう、独り立ちして大丈夫だろう」
「師匠?」
最近、師匠がどこか遠い目をしていることに気づいた。憔悴していると言った方が近いかもしれない。
「料理をするのがつらいのですか?」
「なんでそれを……」
魔王城から帰ってきた時の師匠は、ひどく悲しい顔をしていたからだ。
「あぁ、人間の魂を扱うのに疲れた。悲鳴を聞くのはもうたくさんだ」
魔王城で出される料理には人間の魂が使われていると聞く。私は食べたことがないし、なんとなく、食べたいとは思わない。しかし、それを調理する師匠は心がすり減ってしまったのだろう。
「ここでお別れだ」
それから、私は300年、一人で生きてきた。
「エリィ、こんなこともできないの?」
何度言われてきたことだろう。
「コーヒーを淹れることならできます!」
それだけは、師匠に免許皆伝と言われた。私の誇りだ。
「ヤダわぁ、下級悪魔の飲み物じゃないの」
「アンタみたいな、下級悪魔で堕天使みたいな見た目の悪魔にはお似合いね」
「堕天使と言えば、知ってる? 執政官になったルシファーって堕天使、人間の魂を取らないらしいの」
「へぇ、エリィみたいじゃない」
くすくすと嘲笑が巻き起こる。
私は奥歯をぐっとかみしめて何も言うまいと思った。
師匠が、独り立ちできると言ってくれたんだ。負けるものか、と。
そして、いつかあの美しい瞳をした堕天使にもう一度、コーヒーを淹れてあげたいと思った。




