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50. ●●なんて言えない ミナ視点

「二日後に、もう裁判かぁ……」


 声に出した瞬間、自分の吐息が冷たい空気に白く混ざった。膝を抱えたまま、寝台の端に座る。


 灰色の壁。灰色の床。灰色の天井。


 あたしの部屋は、ぜんぶ灰色だった。

 少年拘置所、って呼ばれてるけど要は牢屋だよね。でも、居心地は良い。

 静かだし、誰も文句を言わない。

 この鉄格子に囲まれた部屋の中は、あたしだけの場所でもある。


 寝台に腰かけて、窓の外を見た。空だけ青かった。


 小窓から差し込む光は、床の上で細長い四角を描いていて、その中に手を入れると、指先がほんのり温かくなる。


 数日前に衛兵たちから渡された、赤い封筒の弁護登録通知書によると――

 あの方が、あたしを弁護してくれるらしい。

 胸が熱くなるような痛くなるような、不思議な感じがした。


「ミナ・ロス=アルナス。面会だ」


 扉の向こうから、衛兵の声が聞こえた。


「はいっ」


 立ち上がって、髪を手櫛で整える。面会なんて初めてだなあ。


 廊下を歩く足音が、石の壁に反響して倍になる。衛兵の靴音と、あたしの軽い音。重なって、奇妙なリズムを刻んでいた。


 面会室に通されると、そこにいたのは。


「ミナ、だいじょうぶか!?!?」


 ウィリアムおにいちゃんだった。


 眼鏡をかけた、癖っ毛であたしより濃い目の色の、唯一の家族――ともいえるか。


 彼はちょっとだけ眉が下がってた。

 あたしは椅子に座って、テーブル越しに彼を見上げた。


「ひさしぶり、おにいちゃんっ」


 極めて屈託なく笑うよう、首の角度も意識する。だいたい十五度くらい。こうやってどう見られるかを計算するのは、もう癖かもしれない。


「……そうだな、ずっと会えていなかった……」


 面会室の空気が、少しだけ重くなった気がした。換気口から入ってくる風が、頬に冷たく当たる。


 おにいちゃんの声が低い。怒ってる? いや、違う。


 褐色の瞳が、あたしの顔をじっと見ている。視線が痛いくらいまっすぐだ。

 これは、困ってる時の声。


「ミナ、おまえは、……何を考えてるんだ?」


「……ええ?」


 あたしは首を傾げた。いつもなら遠回しに探りを入れてくるおにいちゃんが、こんなにストレートに聞いてくるなんて。今日はすっごく単刀直入だ。


「なにって?」


「……おまえは、アレクシス王子に利用されていたんだ。それを、望んでいたのか?」


 ああ、あれか。


「うん」

「……そうか」


 あたしは俯いたおにいちゃんの片方の手に、すっと自分の手を置いて、ぽんっと跳ねさせる。


「殿下は、情も関係なくちゃんとあたしをつかってくれるのっ」


 言葉が口の中で弾けた。ウィリアムおにいちゃんの目が細くなる。


「…――ミナ。素直になったらどうだ」


 声が喉の奥で小さく鳴る。くすっ、とあたしは少しだけ笑った。


「おにいちゃんが言うの?」


「……何が」


「だって」


 テーブルに肘をついて、両手で顎を支えてから、じっと兄の目を見た。


「おにいちゃん……レオンさまのこと好きだよねっ」


 そのとき、おにいちゃんの顔が固まった。眼鏡の奥の褐色の瞳が、かすかに揺れる。頬を片手で隠そうとして、途中で止める。


 面会室の時計の秒針が、カチ、カチ、カチ、と音を立てている。


「……何を、言って」


 声が震えてた。

 ああやっぱり。


「あたし、知ってるよ。おにいちゃんがレオンさまのこと、どう見てるか」


 ウィリアムおにいちゃんは何も言わなかった。ただ眼鏡を押し上げる手が、少しだけ震えてた。

 あたしは続けた。


「ねえ、おにいちゃん。レオンさまのどこがすき?」

「……」


「具体的におしえて。どこ?」


 長い沈黙。

 それからおにいちゃんは、ゆっくりと口を開いた。


「……あの人の、優しさだ」


 声が、いつもと違った。


 皮肉がない。熱がある。

 眼鏡のレンズ越しに見える瞳が、光を反射している。面会室の天井の蛍光灯が、小さく映り込んでいた。

 おにいちゃんの目が、少しだけ遠くを見てるような気がする。


「食えなくって完璧で、たまに困らせてくるけれど、いつも綺麗に笑うんだ」


 眼鏡越しに見える瞳が、やわらかくなっていた。

 ……あたしははじめて見た。おにいちゃんのこんな顔。


 そこで言葉が途切れた。


 おにいちゃんは顔を伏せて、眼鏡を押し上げた。


 口角が自然と上がる。あたしは心の底から笑った。


「ね、それ壊したくならない?」


「……え」


 ウィリアムが、目を見開いた。


「だってそうでしょ?」


 あたしは椅子の背もたれに寄りかかった。


「まぶしいものって、壊したくならない?

 きれいなものって、汚したくならない?

 完璧なものって、くずしたくならない?」


 兄が何か言おうとして、口をつぐんだ。


「レオンさまは、正しすぎるの。――だから、壊れた方が、もっともーっときれいだとおもうのっ」


「……それは、違う」


 声が震えてた。


 怒りじゃない。別の何か。

 あたしは、さらにくすくす笑った。


「やっぱりおにいちゃん、レオンさまのこと」


「ミナ――」

「でも」


 笑うのをやめて、真顔になった。


「あのね、あたしも、」


 ドクンと一回、胸の中で心臓が強く跳ねた。


「レオンさまのこと……すごくだいじ」


 おにいちゃんの目が細くなった。


「……どういう、意味だ」


 あたしは、身を乗り出そうとして、やめた。


「あたしのこと、おにいちゃん以外で……初めて可愛いって……言ってくれた人、で」


 テーブルに置いた両手をゆっくりと組んでから、こてっと首を傾げる。


「だから」


 言葉が、喉の奥で引っかかった。

 灰色の壁が揺れた気がした。


 瞬きをする。一回。二回。視界が少しだけぼやけて、また戻った。


「なんでも、ない」


 ウィリアムは長い間、あたしを見ていた。

 それから、小さくため息をついた。


「ミナ。俺は、お前の兄だ」

「しってる」



 眼鏡を外して、テーブルに置く。

 裸眼の褐色の瞳が、まっすぐあたしを見た。

 声が、一段響いた。


「もし、おまえが自分を傷つけるようなことをするなら。俺は止める」


 あたしは何も言えなかった。

 兄は布で拭いてから眼鏡をかけ直して、立ち上がった。


「裁判まで、もう時間もない。……無茶はするな」

「……」


 返事をしようとしたけれど、声は出なかった。

 面会室を出ていく背中を、あたしはじっと見ていた。


 扉が閉まる音がした。がちゃり、という金属音が響いた。重くて、冷たくて、決定的な音。

 また、一人になった。

 衛兵に連れられ灰色の部屋に戻って、寝台に座る。



 小窓の外の空は、まだ青かった。あたしは両手で顔を覆った。


 光というのは、いつか儚く消えてしまうか、あたしを置いていってしまうか、どっちかだ。

 だったらあたしの手で、先に――


「……やだな」


 仰向けの体勢で上を仰いで、ふっと笑った。

 天井の染みを数える。一つ、二つ、三つ。


 明後日の法廷で、あの方の精神を壊す。


「レオンさまには、こわれて堕ちて、あたしと一緒のところに立って、同じ目線で―――」


 頭にそっと、


「よしよししてほしい、んです……」


 片手を置いた。


 ――こんなこと、言えるわけない。

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