49. 深夜の恐怖体験…?
俺は、それじゃ足りない。
どんな意味だろうね。あの時のカイの顔を思い出そうとすると、なぜか逆光の印象しか出てこない。
もう少しヒントが欲しかった。
廃城でカイと話したあの夜から、四日が経つ。
王都の新聞に大きく記事が載った。
見出しは『ヴィランの少女、王子を誘惑か』。
内容は予想通り酷かったけれど、それよりも僕の目を引いたのは、記事の中のとある一文だった。
『あの黒い目を見ればわかる。あれは奴隷の目じゃない。王子に媚びて生き延びた、ヴィランの目だ』
この言い回しは法的根拠をまったく無視している。感情を煽るためだけの言葉だ。そして、それが一番効く。
案の定、その日の夕方には市場で『黒い瞳の悪女』という噂が広がっていた。僕が通りかかった時、野菜売りの老婆が隣の客に話しているのが聞こえた。
「王子様を騙すなんてねえ。あんな小娘が」
「ヴィランの奴隷の分際で、図々しいったらありゃしない」
僕は足を止めずに通り過ぎた。
……言い返したところで何も変わらない。むしろ僕が弁護人だと知られたら、火に油を注ぐだけ。
翌々日、ウィリアムから連絡があった。彼が法務局で聞いた話では、ミナの公判期日がもう確定しているとのこと。
弁護人登録から三日で期日が出るなんて異常だ、とウィリアムは眼鏡を押し上げながら言った。
「つまり最初から、全部決まっていたんでしょうね」
ウィリアムの声は、いつもの皮肉が少しだけ薄かった。代わりに、心配が滲んでいた。
「レオンさん、無理はしないでください」
「大丈夫です。ウィリアムさんこそ」
「……そうですね」
通信魔道具の向こうで、ため息が聞こえた。
アヅミからも連絡があった。
「なんかあったらすぐ呼べよな!」と強い口調で言ってから、「……マジで、無茶すんなよな」と小さく付け加えた。
カイからは、連絡がなかった。
いや、正確には『直接の連絡』はなかった。
三日目の夕方、家に帰ると玄関先に置き手紙があった。文字は乱雑で、でもちゃんと読める。
『飲み物買っといた』
署名はない。でも筆跡ですぐに分かった。カイだ。
冷蔵庫を開けると、見慣れない瓶入りの果実水が三本並んでいた。僕が好きな種類じゃないけれど、疲労回復に効くやつだ。多分、カイが適当に選んだんだろう。
その日の夜、一本開けて半分だけ弟たちと飲んだ。少し酸っぱかった。でも、なんだか少しだけ、肩の力が抜けた。
机の上には、相変わらず書類が積まれている。罪状の写し、公判期日の通知、参考資料。何度も目を通した。
でも、足りない。
ミナが何を考えているのか、まだ読めていない。自分が捕まることを織り込んでいたとしたら、この裁判そのものが、彼女にとって何かの意味を持っている。
考えれば考えるほど、答えが遠のいていく気がした。
そして今夜だ。
四日間ほとんど眠れていない。書類に向き合う時間が増えれば増えるほど、不安も一緒に大きくなっていく。
窓の外は静かだった。
深夜になっても、二階にある僕の部屋はテーブルランプの灯りが落ちていない。
母と弟たちはとっくに眠っているだろう。
机の上には二枚の書類が重なっている。一つは三日前に届いた、ミナの公判期日の通知。もう一枚は、罪状の写しだ。
目を通すのは、今日で何度目か。
令状の日付が六日前だったことを思えば当然だけど、実際に通知が届いた瞬間、ちょっとだけ笑ってしまった。向こうの設計が、丁寧すぎて逆に清々しかったので。
問題は罪状の中身だ。
二点とも、証拠は本物だろう。ウィリアムの裁判と同じ構造だ。捏造せず、解釈だけを捻じ曲げる。今回はさらに、法的な精密さより民衆感情を優先した設計になっている。
一点目の『王族不正行為への教唆』は、ミナがアレクシス王子と行動を共にしていた記録を使うつもりだろう。事実だ。崩せない。
二点目の『奴隷市場における不正契約の隠蔽』は、ミナの奴隷契約書が根拠になる。被害者のはずの人物が自ら解放を求めなかった、その一点を突いてくる。これも事実だ。
だから崩すのは、捻じ曲げられた解釈の方だ。
どうせ寝れない。なら書類に向き合う方がいい。
そう思って机に向き直った時だった。
「やっほ、レオン」
声が聞こえた。
「寝ないの?」
窓の方から。
「……んえ?」
僕はゆっくりと振り返った。
カーテンを開けると、窓の向こうの枝に、人が座っていた。
片目を黒髪で隠した男が、夜の木の枝に腰かけたまま、ひらひらと手を振っている。
「ええっ、ライラさんっ!?」
椅子ごと後ろに下がって、机の角に腰をしたたかに打った。いた、いたたた。
「心臓に悪い……!」
「ふふ、ごめんごめん」
ライラさんが笑った。少しも悪そうじゃない。
そのまま彼は、ひらりと豹のような身軽さで室内に侵入した。着地音がほとんどしない。
そして、僕の椅子にすっと座った。
「……ライラさん、それ、僕のっ」
「知ってる。ちょっと借りるね」
既に深く腰かけている。足を組んでいる。完全に自分の椅子みたいな顔をしている。
あの。ここ、僕の家なんですけど。二階なんですが。深夜なんですが。
三つほど言いたいことがあったけれど、全部飲み込んだ。なぜなら今、目の前にいるのが推しだったので。
いかん。
「ご、ご用件は……」
声が上ずった。
ライラさんは机の上の書類を一瞥してから、こちらを見た。夜の窓から差し込む月明かりが、片目だけ見える紫の瞳を柔らかく照らしている。
「ミナちゃんのこと」
声が、静かになった。
「あの子の裁判、どこまで考えてる?」
僕は机の前にある本棚の端を指先で押さえた。椅子を取られたので、立ったままになっている。
「……僕が考えるに、あの子は自分が捕まることも、公判になることも、全部織り込んでいるなら、計算通りにやっても意味がない、と思います」
ライラさんは組んだ足のつま先を、ゆっくりと左右に揺らしながら聞いている。
「計算通りじゃない方向から攻める、ということ?」
「はい。ミナが望む結果を、一回全部崩すような動き方をしたいとは思ってるんです。でもそれが何なのか……」
間があった。
ライラさんの口の端が、いつもの形に動いた。
「……もしかして、レオンが目的かもしれないね」
「え」
「ミナちゃんは、きみの弁護が計算通りだと仮定すると、最初からそこに目的があった。俺はそう思う」
僕は眉を寄せた。
「と、いうと」
「ミナちゃんは、レオンを検察じゃない、逆側の立場で追い詰めたい……とかね」
ライラさんは事実を並べるような声で言った。
しばらく黙って、頭の中で言葉を転がした。
逆側の立場。
つまりミナは、僕を窮地に追いやることだけを――
ぽん、と手を打った。
「……ああ、だとすると。はい、わかりました」
ライラさんが目を丸くした。
「なにが」
「被告人からも冤罪が成立できないよう、弁護側が追い詰められるとして。
たとえばあえてミナが怪しまれるような証言をするだとか、そういう手段を取ってきたら――」
一拍。
「僕の論理は、まったく使えませんね」
軽く口元をゆるめて、さりげなく僕は笑ってみせた。
ライラさんは一瞬だけ黙ってから、「……ええ?」と困惑した顔になった。
「じゃあ、どうするの」
「そういう時は」
首をかしげて人差し指を顎に添える。
「論理が駄目なら、感情で勝負、なんですよ」
ちょっと気障かもしれないこの言葉に、ライラさんは何か言おうとして止める。
それから首を振って、頬に手を添えながら眉を下げて笑った。
「……きみは」
声が、一段低くなった。
「俺たちの目の届かないところで、なんでもしてしまうから怖いよ」
笑顔のままだ。
でも、見えている方の目はやっぱり笑っていなかった。
いつもあの目は感情を遅れて映す。笑顔の奥で何かを測っているような色だ。今夜はその色が少しだけ違った。笑い飛ばせないという重さが、ちゃんとある。
もしや心配してるの?
「……えーっと」
つられて、こちらも少しだけ目を伏せた。
「怖いです、僕も」
ああ、本当のことを言ってしまった。
紫の目の優男が微かに目を細める。
「……きみは何が」
僕は具体的には何が怖いのか。
頭の中で言葉を探す。
裁判が怖いわけじゃない。証拠が崩せないかもしれないことも、まあ避けたいけど、それじゃない。
ここのところ、言葉にできないことが増えた気がする。
ヴィランたちをファンとして見ていたはずなのに、どこかの段階から少しずつ形を変えているような感覚がある。
あの夜、廃城でカイが言ったことも。ライラさんが今夜、僕を心配してるのも。それを受け取ることが、できなくて。
「……うまく言えないんですよね」
僕は正直に言った。
「でも、怖いのはほんとです」
ライラさんはしばらく、何も言わなかった。
それから、ふっと息を吐いて。
「きみが正直に言ってくれると、安心するな」
呟きに近かった。
僕は顔を上げて、ライラさんを見た。
彼はもう視線を窓の方に向けていて、夜の外を見ていた。月明かりの中で、黒髪が静かに揺れている。見えている紫の瞳が、窓の外でひとつだけ光を映していた。
「……あのお」
「ん?」
「その椅子、返してくださいっ」
ライラさんが振り返って、声も泣く一回だけ笑った。
「はいはい」
立ち上がりながら、肩をすくめる。それから窓枠に手をかけて、来た時と同じように身軽に外に出た。
「じゃあねレオン。ちゃんと寝ること」
「寝れたら、寝ます」
◆◇◆
外套のフードで頭を隠した『男』は、路地の角から片目隠しのヴィランが消えるのを見届けた。
ストロベリーブロンド特有の、薄く赤みがあるさらさらとしたボブの髪。
少年弁護士のホワイトブロンドと同じように、目立つ色だ。
懐には、今夜の報告書がある。
ヴィランの動向、少年弁護士の動向。王子の側近たちに言われた通りのことを、言われた通りに書いた。
住所を突き止めたのは諜報部隊だ。
――オレはただ、ここまで足を運んだだけ。そのはずなのに、なんでもう一回来てるんだろうな。
「……少年弁護士はオマエがこだわっていた相手だったよね。なんであの人がそんなに気になるの?」
首を掻きながら独り言のように呟いても、脳内に居るDからの返事は来ない。
今日はあいつ、静かなんだな。
それが心地よい。
時折自分がわからなくなる。
でも一つ分かるのは、Dは決してオレじゃない、ということだ。
「少女の公判なんて知ったことか。Dも少年弁護士だって、オレはどうでもいいよ。ただ」
息を吸った。
「あの人がいくら光であろうと、すべてを救えるはずがない。だから、オレは希望にすがらないことだけを考えたいんだ」
男は上を仰いでから、外套の襟を立てて歩き出した。
――これからの裁判で、少年弁護士が、どうなろうが……
知ったことか。




