45. あいつには笑っていてほしいから アヅミ視点
朝の城下町は、英雄族もヴィランも関係なく、なんとなく全員が同じ顔をしている。
眠そうで、ちょっと寒そうで、とりあえず今日を始めようとしている顔だ。
荷車を押す商人とすれ違い、開店準備中の露店の前を抜ける。
俺とレオンは外套を被って歩いていた。ちなみにレオンは丸眼鏡をかけてハンディング帽子をかぶっている。パパラッチ予防らしい。
「法務院って何するとこなんだ」
「アヅミ知らないの? 王家の法令の写しを閲覧できる施設だよ。各地の図書館よりそれだけに特化してる。監査院の系列にあって、資格があれば申請して入れるよっ」
レオンの裾が、すれ違う人の肩に何度かぶつかりそうになっていた。本人は気づいていない。メモから目を離さないまま、ぎりぎりで人混みをかわしていく。革靴の底が石畳を叩く音が、俺より半歩分だけ前にある。歩幅が短い分、刻む回数が多い。
「何でそんなとこ行くんだよ」
「……認証鍵の件だね。王家直系か、それに準ずる権限がないと使えない――そのあたりの条文をもう一度、超こまかく確認したい。次に似たような手を使われた時に、もっと早く崩せるように」
レオンは歩きながらそう言って、手元のメモに何か書き足した。細かい字だ。昨晩のうちから考えていたんだろうな、と思う。
当たり前みたいに次のことを考えてるこいつが、なんか、少しムカつく。
眩しいほうに引っ張られそうになるのが、なお腹立つ。
「危なくはないんだろうなっ」
「公的施設だよ」
「分かった。でも一人で行くなよっ」
「アヅミは武具屋に用事があるんじゃないの」
「武具屋は後でいいのっ」
レオンがこちらを見て、少しだけ目を細めた。何か言いたそうな顔をして、やめた。
「……ありがと」
「礼なんて結構!」
その後、法務院の入り口で、俺たちは別れる段取りを決めた。
「武具屋は反対の西通りだ。終わったら噴水広場で合流しよ。だいたい昼過ぎにはね」
「迷子になるなよ」
「なるわけないでしょ。アヅミこそ」
「なるかっ」
レオンが「じゃっ!」と言いながら北の方に歩き出した。人混みに入ってすぐ、小さい体がかき消えるように見えなくなった。
俺は西通りに向かって歩き出す。魔力触媒の補充と刃の研ぎ直し。どっちも簡単な用事だ。さっさと済ませて、あとはレオンが出てくるまで適当に時間を潰す。
そのはずだった。
◆◇◆
通りに入って少し行ったところで、子どもが声をかけてきた。
「アヅミさんってお名前の方ですか」
振り返ると、外套を被った七つか八つくらいのヴィランの男児が立っていた。見たことのない顔だ。片手に、折りたたまれた小さな紙を持っている。
「……そうだけど?」
「お届け物です」
男児は紙と、布に包まれた細長い何かを俺に差し出して、足早に駆け去った。仕事を終えた、という顔だった。
布の中身を確認する前に、まず紙を開く。
字が少ない。
『金縁の馬車が動いてる。行き先だけ見ておいてくれない? ついでのついでで構わないから』
……ライラさんか。
差出人の名前はないけど、この頼み方に覚えがありすぎる。「ついでのついで」って何だよ、全然ついでじゃないだろ。
布の中身を確かめると、小さな魔道具が出てきた。手のひらに収まる、見たことのない形をしている。何に使うものかは分からない。分からないまま、とりあえずポケットに入れた。
……武具屋は後でいいか。
俺は踵を返した。
金縁の馬車なら、城下町に入るルートは決まっている。王城から城下に降りてくる大通りを押さえれば、見逃さない。
馬車は、大通りをしばらく走った後、商業地区から外れた区画に入っていった。
倉庫と石壁が続く通りだ。昼間なのに人通りが少ない。荷車の轍だけが石畳に残っている。
俺は距離を保ちながら尾行した。足音を殺す。外套の裾が石壁に当たらないよう体を斜めにして、角を曲がるたびに息を一度浅くする。頭より先に、体がそうしていた。
馬車が止まった。
壁の陰に体を押し込む。
人影が降りてくる。一人、二人。
アレクシス王子だった。それから側近——プラチナシルバーの短髪。書紀のエルドだ。続いてフィンが降りて、最後に馬車の脇にジオが立った。
……全員いる。
俺の心臓が、少しうるさくなった。
四人は建物の脇の、人目のない空間に入った。壁一枚挟んだ向こうで声が始まる。届く距離だ。
壁越しに、声が届く。全部じゃない。石壁が吸う分がある。でも、いくつかははっきりと届いた。
「国王に目をつけられないように、書類の最終確認はこの区画でする――それが僕の方針だ」
金髪の王子が言う。
ポケットの中の魔道具が手に当たった。
何のためのものかも分からないまま、会話が聞こえてきた瞬間に、なんとなく手が動いた。
小さなスイッチが、かすかに沈んだ。なんだろうか、でも今はそれを考えている場合じゃない。
「……市場管理の上書きは、王家印がないと動かない。あの検察官は見落としていましたね」
低い、感情のない声。王子の側近――書記のエルドだ。あの書類にサインをした男の声を、俺は法廷の傍聴席で一度聞いたことがある。
「じゃ〜、次の段階に入る……ってことでいいよねぇ~」
軽薄なトーンが返ってくる。もう一人の側近の声だろう。確認の速さが違う。仕事の声だった。
一拍、間があった。
「……あのミナは、保険として使うことになったんですよねぇ、殿下?」
俺は壁に背を当てた。
指が震えた。心臓がうるさい。
ずっと、俺らのもとにいた、少女。
ウィリアムの妹は、俺から見たらかわい子ぶりっ子で打算的な一面もあったけど、どちらにしろウィリアムよりもずっと闇を抱えていることは察していた。
そんな、底知れないあの少女が、保険?
「使う」って、どういう意味だ?
頭が、次の言葉を拒んだ。でも分かってる。分かってるから、余計に息ができない。
「っ」
声にならなかった。それだけだった。
これ、レオンに言わないといけないやつだ。
黙ってアイコンタクトを終えた四人が、馬車に戻る気配がした。
俺は音を立てずに離れた。石壁の角を抜けて、一本通りを変えて、それから大通りに出る。
世界が、さっきより少しだけ、うるさかった。
昼の光が戻ってきた。荷車の音、露天の客引き、子どもの走る足音。何も変わっていない。俺が壁の向こうで聞いたことなんて、この人混みには何の関係もなかった。
それがなんか、やだ。
俺は噴水広場の方向へ歩き出した。レオンに言わなきゃいけない。でも「レオンに言う」という行為の重さが、まだうまく体の中に収まっていない。
武具屋には行っていない。手ぶらで合流することになる。
噴水広場に着いたのは、昼を少し回ったころだった。
レオンはまだ来ていない。
俺は噴水の縁に腰を下ろした。石が冷たい。さっきから冷たいものばかりに触れている気がする。
ポケットの中の魔道具をもう一度確かめた。スイッチを押した、それだけだ。何が記録されているかも、使い方も、俺にはまだ分からない。
……レオンに、言わないといけない。
どう言う。
ミナが保険として使われる、とだけ言えば、レオンは分かる。理解が速い人間だから。
その後は、どんな顔をするんだ。
ウィリアムが逮捕された朝、レオンはうつむいて拳を握って、歯を食いしばっていた。そんなとき、慰めを飲み込んで、黙って次の手を考え始める人なんだ。
その顔をまた見ることになる。
それは、良いのか悪いのか。
噴水の水音だけが続いている。広場の端を子どもが走っていった。パン屋の焼けるにおいがした。今日は普通の昼だ。何も知らない人間にとっては。
地面が、午後の光で白く飛んでいた。目を細めないと正面が見られない。レオンはこの光の中でも平気な顔をしているんだろうな、と思った。根拠はない。
ウィリアムの裁判で俺が泣いた時、レオンは俺を見て、静かに笑った。大げさじゃない、ほとんど息みたいな笑いだった。
あの瞬間、堕ちた。
いや、もともと堕ちてたけど。
とにかくあの笑顔が見たい。また見たい、と思う。
「……あいつには、あんなふうに笑っていてほしいのに」
声に出したら、少しだけ恥ずかしかった。
でも、それだけだ。
だから言わなきゃいけない。
……それだけだ。
噴水の縁の石が冷気を伝えてくる。立てばいい。でも立つタイミングが分からなかった。
そこで、ポケットの魔道具が、かすかに熱くなった。
え。
手のひらで包むと、また冷たくなっていた。気のせいか。気のせいじゃないか。聞く方法も、俺にはまだない。
だけどあの方の性格を考えて、はたと気づいた。
まさか。
「これ、もしかして録音器具か」




