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44. 結末を知っている男

 ウィリアム・ロス=アルナスの無罪判決後の夜。


 蝋燭の火は揺れなかった。

 風が入らないのか、それともこの空間ごと何か押さえつけられているのか。橙色の光が、石床と二人分の影だけを世界に残した。


 王都外縁部にある廃教会。かつて礼拝に使われていたはずの石造りの内部は、何十年も手が入っていない。壁の染みが黒く広がり、窓を塞いだ板の隙間からも、外の音は一切入ってこない。空気が止まっている。生きていない空気だった。


 アレクシスは扉を引いた。


 人影があった。


 入ってきたのではない。最初からそこにいたように、自然に、部屋に溶けていた。


 アレクシスは扉を背に立ち、眉ひとつ動かさなかった。


 人影はストロベリーブロンドの髪をしていた。フィンとエルドの補佐をしている男である。そのはずだ。

 柔らかくて丸い印象の顔が、蝋燭の光の中では別の顔に見えた。いつも下ろしているボブの髪を無造作に結いていた。


「ハァ……王太子であるこの僕に言うことを聞かせて、何がしたいの。……そもそもお前は、いつも気張ってる良い子のノアルじゃないクセに」


「――おれは〝正しい結末〟を知っているだけです」


 人影がクツクツと笑って言った。

 その声は、廃教会の石壁に吸われて消えた。響かなかった。この空間には残響がない。声が出た瞬間に消える。言葉が積み重ならない場所だった。

 それがアレクシスには奇妙に心地よかった。ここでは何も残らない。記録されない。だからこそこの男は、わざわざここを選んだのかもしれない。


「うーん……そうですねぇ。いい加減、お前呼ばわりは嫌だから……」


 顎に手を添えて、視線が虚空を彷徨った。


「ふふ。おれのことは『D』とでも呼んでください」


「……なぜ」


「そんなこと、どうでも良いじゃないですかぁ?」


 Dはそう言いながら、蝋燭の光の中で微かに首を傾けた。影が石壁を滑った。

 アレクシスは気づいた。この男は、自分の名前を教えることに何の感情も乗せていない。脅しでも取引でも親愛でもなく、会話を続けるための語彙を一つ提供しただけだった。

 Dは答えを重要だと思っていない。正体を隠す人間ではなく、正体を開示することに価値を感じていない人間――その差がこの男の怖さの質感だった。


「それより聞いてくださいよ、おれの話を。あの出しゃばり……かつてのライバルのせいで、あなたとの幸せな結末が消え失せた。だったら、あなたと一緒にその復讐をしたい……ヴィランを貶めたい……っ」


 語尾だけが、わずかに濃くなった。


「あいつは、ヴィランたちが『オシ』だから。……あぁ、どんな顔するかな。前は冷徹なだけだったのに、急に熱くなって――ふふっ」


 アレクシスは答えない。ただ、その男を観察していた。


「それで。少年弁護士が台無しにした計画のことですが。

 このままだと殿下が容疑者扱いです。おれとしても、それは避けたい。あなたとは、まだ一緒に居たいですしぃ……そこで。

 ミナという娘。使わせていただきます。あなたは最初から、あの眼鏡のヴィランが駄目だった時の保険で利用するつもりだったんでしょう……いいよね、ね?」


「っ、そう、だな……でも」


 アレクシスは一瞬だけ、目を伏せた。

 ミナ。

 黒い目をした、感情の見えない少女。あの目をするようになった理由を、アレクシスは何となく知っていた。知っていた、というより――()()()()()気がした。


「でも……なんです?」


 アレクシスの伏せた目を見て、Dが何かを読んだように、唇の端が少しだけ上がった。笑いではない。計算が一つ完了した時の顔だった。


「なるほどぉ」


 それだけ言って、次に進んだ。感傷を確認し終えた人間の声だった。


「ねぇ殿下。あなたは今、何が一番怖いですか?」


 答えを待たずに、Dは話題を切り替えた。答えを求めていない。相手が既に答えを知っていることを確認するための問いだった。


 Dは上着の内側から、一枚の写真を取り出した。魔法写真だ。それをひらひらと指の間で揺らした。

 魔法写真の中では、光が止まっていた。魔力暴走を起こしたヴィランの奴隷少年の頭が、王子の腕の中にあった。王子が泣いていた。少年は、もう動いていなかった。


 アレクシスの手が止まった。呼吸が、わずかに浅くなった。石床の冷たさが、靴底から膝の裏まで届いてきた気がした。そんなことはないのに。


「………聞く。だから、その写真は、」


「はい。大切に保管しておきますね」


 Dは写真を懐に戻した。業務連絡のトーンだった。


「補佐の娘に加えて、フィンとエルド、ジオは使えるなぁ。今のところ、『ノアル』に恋心を抱いているようだし、ね」


 それからDは軽く首を傾けた。


 アレクシスはDの表情を読もうとして、やめた。この人間を前にすると、アレクシス自身が「反応している側」であることを、いやでも思い知らされる。



「次にお会いする時は、もう少し事が進んでいると思います。……楽しみにしていてください、王太子殿下」


 Dが動いた。その一瞬だけ、蝋燭の火が揺れた。


 気づいたら扉の前にいて、次の瞬間には居なかった。消えるシーンを見せなかった。ただ、いなくなっていた。

 アレクシスは動かなかった。

 風もない。空気の乱れもない。廃教会は、Dがいた時といなくなった後で、全く変わっていなかった。アレクシスは、その炎をしばらく見つめた。

 写真は、まだあいつの手の中にあった。

 アレクシスは目を閉じた。それ以上考えることを、静かにやめた。



 ◆◇◆



 その後、路地の暗がりの中で人影が立ち止まった。


 ノアルは両手のひらを見つめた。左手の小指の関節に、かすかな違和感がある。自分では動かした覚えのない場所が、少しだけ疲れていた。


「あれ。――オレ、何をしていたんだ?」


 声が、少し違う。

 さっきまでより、少し低くて重かった。自分の声なのに、遠くから聞いている感じがした。


「あ〜……またオマエか、〝D〟」


 ため息をひとつついて、前髪をくしゃりと掻いた。


「ホント困るよ……オレはみんなに迷惑かけたくないのに、オマエのせいで」


 呟きは誰にも聞こえなかった。

 夜の王都が、静かに続いていた。

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