38. 妹と奇々怪々な弁護士について ウィリアム視点
眼鏡を外すと、世界がぼやける。
当たり前の話だ。近眼なのだから。
しかしこれが思いの外、いつも軽い驚きを伴う。
石壁がただの灰色の滲みになって、月明かりがひとかたまりの白い染みになって、世界全体が輪郭を失う。見えているのに、何も分からない。
なるほど、比喩として使いたくなる気持ちは理解できる。『眼鏡を外したら何も見えない』。そういう台詞を好む人間の心理が、今ならわかる気がした。
俺は王城拘置所の独房に一人いた。
看守が見回りを終えて、足音が廊下の奥へ消えるのを確認してから、眼鏡を外した。二本の指で持ちながら、俺は石壁に背を預けたまま天井を仰いだ。
裁判は明日だ。
壁に後頭部をつけて、目を閉じた。眠れるわけがないのに眠ろうとする人間の姿勢をとるのは、まあ、せめてもの体裁というやつだ。
布で、レンズを拭く。汚れていないが、拭く。
こういう時に手を動かさないでいると、ろくなことを考えないから。
たとえば、俺にかけられた冤罪のこと。
二つ目、ミナのこれから。
三つ目、二の腕の古傷のこと。
古傷については、一人になると袖をまくって確認する癖がどうしても抜けない。
焼痕はいつもそこに在る。触れると冷たくて、焼いた時の熱さとは何の関係もないただの皮膚の凹凸だ。それがどういうわけか夜は更に冷たく感じる。
屋敷にいたあの頃からずっと、どこへ行っても消えないものの一覧に、それは入っている。消えろと思ったことは、正直なところ数えるのが馬鹿らしくなるくらいある。
生まれた時から愛されれば。大切にしてくれる人が、最初からいたのなら。
そうすれば、奴隷にもならずに済んだ。そういう言葉を、誰かの前では絶対に口にしない。口にしてどうにかなる問題でないことは分かっているし、口にしたところで俺が俺でなくなるわけでもない。
だから言わない。
それができたのは、同じ場所に立ってくれた妹がいたから、ということに気づいたのはわりと最近のことだ。
気づくのが遅すぎる、と言われれば返す言葉がない。
俺は今年で二十歳になってしまった。
ミナが四歳の頃の話だ。
移送中の馬車は古くて、石畳の継ぎ目を通るたびにひどく揺れた。俺たちは膝を抱えて向かい合って座っていた。俺が十五で、ミナが四つ。誰がどう見ても子供が二人、膝を抱えて揺られていた。そういうことだ。
馬車の幌が風に叩かれて、ばたん、と鳴った。
ミナがわずかに肩を縮めた。それから縮めたことに気づいたようにまた戻す。そういう動作を、俺は横目で見ていた。
「指、出して」
俺が言うと、ミナは少しの間、俺の顔を見た。何かを確かめるような目だった。それから小さい手を膝の上に置いて、指を揃えた。
「右手から、五つ折る」
ミナが親指から順に、一本ずつ折った。丁寧に、一本ずつ。
「そこから二つ足したら、いくつ」
しばらく、沈黙があった。
ミナは折った指を見つめていた。馬車が揺れるたびに、体ごと揺れた。それでも視線は指から離さなかった。
「……よん」
「違う」
「……むっつ」
「違う」
俺は怒らなかった。急かしても意味がないことくらい、十六の俺にも分かった。ただ同じことを、同じ声量で言い続ける。
「もう一回。右手から五つ折って、そこから二つ足したら」
ミナが今度は左手も出して、指を二つ慎重に折る。それから右手と左手の二本を、交互に見比べた。唇が少しだけ動いていた。声には出さずに数えていた。
「……はち」
「違う。左手をよく見て」
ミナは左手を顔の前まで持ち上げた。折れた指を、一本ずつ確かめるように、もう一度数え直した。
「……なな?」
「そう!」
ミナが顔を上げた。
ぱっと、顔が変わった。それだけの答えが出ただけなのに、子供らしい、ただ嬉しそうな顔になった。俺は「次」と言って、次の問題に移った。
俺がミナに計算を教えたのは、感傷からではない。
生き延びるには数を知っている必要があると判断したからだ。大人に騙されないために。契約の数字を自分で読めるように。少なくとも、指を折って十まで数えられなければ話にならない。それだけのことだった。
あの時から何年も、俺はミナの前で「もう一回言うけど」と小言を繰り返してきた。
しかしいつからか、ミナは正解しても笑わなくなった。
どこで間違えたのかを、俺はいまだに特定できていない。間違えたのが俺なのか、ミナなのか、それとも俺たちを取り巻く状況そのものなのか。結論が出ないままミナは今、王子の補佐になってしまった。
布で、もう一度レンズを拭いた。
あの少年弁護士が何をするつもりなのか。
証拠は全部本物だ。崩せない。魔力波形も、ログも、管理記録も。あれを三週間でどうにかする方法を俺には思いつけていない。論理的に考えれば、負ける可能性の方が高い。だから信じる根拠を整理しようとした。
――整理できない。
こういう時に出てくる記憶が、どういうわけか小さいことだ。頭の中の引き出しが、よりによってそこを開ける。
一つ目の引き出し。早朝のコーヒー。「たぶん濃くはないです」という顔で差し出してきた。三回確かめたと言っていた。馬鹿らしい、と思った。飲んだら悪くなかった。
二つ目の引き出し。手錠がかかった状態の俺は「信じてますから」と言った。その時レオンは無駄なことを何一つとして言わなかった。頷いただけだった。
俺は長い間、根拠のない慰めが嫌いだった。大丈夫、きっとうまくいく、信じている――そういう言葉は全部、言う側が楽になるための言葉だと思っていた。言葉を渡して、責任だけこちらに押しつける。そういう代物だと。
だから、あの方が何も言わなかった時に。
なぜか息ができた気がした。
信じる根拠が、どうしても「論理」の形にまとまらない。思い当たることがあるとすれば、あの早朝のコーヒーの、たぶん濃くはないですという顔だ。
……俺らしくない。
夜が明け始めた。
石壁の色が、じわりと変わっていく。灰から青へ、青から白へ。眠らなかった。眠れなかったというより、眠る気がしなかった。
ミナ。
お前が今どんな顔をしているか、俺には分からない。あの四回目に正解した顔をもう一度だけ見たいと思うのは、まだ、許されるだろうか。お前が「役に立てればそれでいい」と言うのなら、俺はもう一回「次」と言い続けることしかできない。それしか知らない。
あの少年は今頃、何をしているんだろう。
寝ていないだろうな、とは思う。あの量の書類を前にして、熟睡できる神経の持ち主では絶対にない。目の下に隈を作って、眉間に皺を寄せながら、それでも妙に呑気な顔をして書類をめくっているんだろう、たぶん。
――根拠はないが、そう思う。
「根拠はないが」という言葉なんて、少し前まで使わなかった語だ。変な感じがする。
看守が扉の外に来る足音がした。迎えが来たのだろう。
腰を上げる前に、またあの少年弁護士の顔が脳裏を掠めた。
簡単な魔法を使わせれば天井を黒焦げにし、ちょっとしたことで派手に鼻血を出すような、呆れるほど危なっかしい人。
見ず知らずのヴィランのために、王家という巨大な権力にまで平気で喧嘩を売ってみせる。本当に、常識で測ろうとするだけ無駄な存在だ。
英雄族なのに英雄族側に立たず。
剣も魔法も使えなくて。
身体は誰よりも小さくて、それでも、
言うことだけは格好いいんだから、困らせないでくれよ。
あの方が何をするのかを、俺は見たい。
敵を恐れているわけでも、あの方に縋っているわけでもない。ただ見たいだけだ。奇々怪々な弁護士が、勝ち目のない法廷でどう動くのかを。
俺は立ち上がる。
剣を持った英雄族の衛兵たちが、檻の扉を開けた。
上着の衿を整えて、眼鏡をかけ直す。
レンズの向こうで、世界の輪郭が戻った。




