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35. これが善意の代償? たわけが!

 早朝というのは、不思議な時間だ。

 夜でも、かといって朝でもない気がする。

 どっちつかずの青灰色の光が窓から差し込んで、部屋の中の全てをぼんやりと均一に染め上げる。昨日の続きなのか今日の始まりなのかが曖昧な、あの宙ぶらりんな感じ。そういうのは嫌いじゃない。


 僕はヴィランたちのアジトに結局泊まったので、寝癖をいつものごとく木櫛で整えながら、食堂兼作業部屋に入る。漂う羊皮紙の匂いと、テーブルの上に広げられた名簿たち。ランプの芯がときどき細くなって、また戻る。

 台所の方から、焦がしかけたコーヒー豆の匂いがした。


 ……さっき自分でやったやつ!

 こういう失敗も含めて、普通っぽい朝だな、と思った。

 そういうのを噛みしめたくなる気分はまあ〜、ときどきあるね。


 それから僕はコーヒーを慌ただしく淹れた。あまり慣れてはいない。マグを二つ持って食堂に入ると、ウィリアムが名簿に向かっていた。


 羽根ペンがゆっくりと動いて、一行分の文字が紙の上に増える。書き終わるたびにペンをインク壺に戻して、名簿の端を指先で揃えてから、また次の行へ。その繰り返しがずっと続いている。


 整ったインクの列が、一行ずつ増えていく。

 片方のマグの縁がテーブルの角に当たって、カチン、と音が鳴った。


「ウィリアムさん、コーヒーです。たぶん飲めます。たぶん」


 ウィリアムはペンを止めないまま、横目でマグを一瞥した。


「……なんですか。飲んでいいのか不安になるじゃないですか」


 いつもの皮肉屋のトーンだ。でも早朝だからか、まだ全力じゃなくて少し声が丸っこい。


「いや、三回ちゃんと確かめましたよ。多分濃くはないです」

「〝多分〟も付いてますけど」


 でも飲んでる。

 ウィリアムがマグを引き寄せ湯気が上がって、すぐ静かになった。

 眼鏡の奥の目が少し細くなったのは、きっと……満足のやつだと思う。そうに決まってる。


 僕は向かいの椅子に腰を下ろして、ウィリアムの手元を見ていた。

 ……この人、元奴隷の名前だけを書いてるんじゃないんだろうな。

 一行書くごとに、ペンが一瞬だけ止まる。揃えて、次へ。揃えて、次へ。

 どんな状況だったかを全部ひとつひとつ思い浮かべているんじゃないか。

 ミナのために奴隷たちを開放したけれど、それでも一人ひとりへの想いは変わらないのだろう。

 この人は、ちゃんと全員のことを思いながら書いている。


 そこで、ウィリアムの手が止まった。

 窓の外の薄明かりを見て、眼鏡を押し上げる。その動作がほんの少しゆっくりだった。


「……レオンさん」


 声量が落ちた。呼びかけと独り言の、中間みたいな声だ。


「あなたが来なければ、あの子たちはまだ市場にいた。これからは、ミナと俺のように辛酸を味わうことも、比較的減るでしょう」


 僕は何も言わなかった。


 何か言えるわけがない。適当な言葉で割るのは違うから、黙ってウィリアムの横顔だけを見ていた。

 ウィリアムさんが名簿の端をそっと指で撫でた。書かれた名前の上を、ゆっくりと。


「……もしかしたら、この世界も捨てたものじゃないのかもしれない、と」


 最後だけ声が少し上がって、すぐ落ちた。


「まぁ、ミナも早く帰って来てほしい……と言いたいところですが。次の策を速やかに決めるまでは、弱音も吐いていられませんね」


 いつもの皮肉屋の笑い方じゃない。目の端がほんのり和らいで、口の端がひっそり持ち上がって――それだけの、幼い笑みを浮かべていた。

 僕はその笑い方を以前、一回だけ見たことがある。カイとセリーヌが無罪判決された瞬間、傍聴席で見せた笑顔。

 見とれてしまうくらいに、普段とは違う〝少年〟の笑み。


 でも、なんでかな、こんなときに。


 

 扉の向こうから石畳を打つ足音が、複数聞こえるんだけど―――


 

 規則正しくて重くて、金属が混ざった種類の音。それが遠くから響いて、真っ直ぐ近づいてくる。


 数秒後、食堂からダイニングに面するアジトの正面扉が蹴り開けられて、僕たちは振り返った。


「……え」


 衛兵たちが蹴り上げて壊れた扉の前でそれぞれ仁王立ちしている。

 紺色の制服に光る紋章――魔導監査院の衛兵だ。

 一回ちゃんと数えよう。五人……六、七。七人か。多い。多くない??

 二階から足音がした。階段を少し軋ませながら、その音がどんどん近くなる。

 カイが一階の廊下から姿を見せていた。アヅミが二段飛ばしで駆け下りてくる。

 僕たちの前に立ったカイは、腰の剣に手をかけた。


「……何の用?」


 低くて静かなカイの声が響く。

 ウィリアムは、数拍止まって立ち上がった。


「やめなさい。公務執行妨害になります」


 ウィリアムは二人の前に手を広げた。

 背中で二人を遮る形で、監査官たちを真正面に見る。


「でもっ」

「アヅミも。ここは俺に任せてください」


 カイが薄目で舌打ちしたけど、手は下がった。アヅミが唇を噛んで、握りしめた拳を脇に戻した。

 ウィリアムは怒鳴らない。

 体の一本一本をちゃんとコントロールしながら、場を整えていく。

 かっこいい……とか言ってる場合じゃないのは分かってる。でも承知の上で言わせてほしいくらいだ。

 先頭の衛兵が一歩前に出て、書類を広げた。官僚的な書体が整然と並んでいる。


「魔導監査院、令状の執行です。容疑者、ウィリアム。違法奴隷契約の主導、ならびに不法契約の再登録――」


 読み上げているだけの感情がない声だった。

 ん? 監査院の職員には僕のほうで連絡していて、奴隷市場の開放に一役買ってくれたはず……

 違法奴隷契約の主導……再登録……。衛兵が証拠書類を空中に展開した。魔法陣が開いて、ログが浮かぶ。

 契約管理ログ。

 担当者名の欄。

 僕の視線が、そのログの上で止まった。


『担当者:ウィリアム。


 再登録時、操作魔力波形:一致。』


 ……あ。


 「そういう、ことか」


 あの奴隷市場。

 魔法が苦手な僕の代わりに、ウィリアムさんが端末を操作してくれた。僕が頼んだ。


 「反応が少し遅いですね」って、あの時ウィリアムが言っていた。


 でも、これ………

 その善意を、誰かがそのまま罪状にしたんだ。


「は…―――!」


 はめられた。

 監査院は首謀者と一緒にグルになっている。

 ひとまず証拠は本物だ、それがわかるから余計息ができない。でっち上げだったらまだ良かった。本物の事実を捻じ曲げてある――それがいちばん(たち)が悪い。前世でもこういう相手に一番手を焼いた。


 ウィリアムは表情を変えない。眼鏡のレンズ越しに、ログを見ているが、一瞬だけ目の奥が揺れた。


「……待ってくださいっ。これは」


 踏み出した僕の前に、別の衛兵が出た。


「令状は正式発行です。審議は法廷にて」


 ……それがあったら、止められないよな。わかってる、ここで動いたら反逆罪になる。言葉を飲み込んだ拍子に、喉の奥がひりついた。

 衛兵に挟まれる形でアジトの門の前まで出ると、石畳が朝の冷気を含んでいた。まだちゃんとした朝になっていない。


 門の前でウィリアムが抵抗せずに、両手を前に差し出した。

 チャ――と、乾いた金属の音がよく響いた。手錠がかかる音だ。それだけの音だ。


 ウィリアムの眼鏡が少しだけ下がっていた。

 いつもならクイッと押し上げるところだけど、両手が繋がれている。ウィリアムはそれに気づいたのか、眼鏡が下がったままの顔で、僕を見た。


「……あ」


 眼鏡、押し上げられないじゃないですか。


 僕は笑えなかった。


「っ」


 口を開いた。

 言おうとした言葉がいくつか頭に浮かんで、全部消えた。


 「大丈夫」は嘘になる。


 「必ず助ける」は今この瞬間の根拠がない。

 じゃあ何が言える?


「くっ」


 早朝の時間帯は、絵の具を遠慮なく混ぜたみたいに濁った水平線が伸びている。

 ウィリアムが、笑った。

 その瞬間に風がなびいた。シルエットが濃く浮かび上がり、その両手が僕の手を取った。


「……信じてます、から」


 低くて、穏やかで。僕にだけ届く音量で。


 僕は、何も言えない代わりにこくりと頷いた。ウィリアムは、弁護人として僕を信じてくれたんだ。

 

 ウィリアムが監査官に連れられて、馬車に乗り込む。足音が遠ざかる。

 その場で、ヴィラン全員が揃っていた。最初に動いたのはカイだ。馬車が見えなくなった瞬間、気だるげに壁に背を向けた。そっぽを向くいつものやつ。でも肩がいつもより上がっている。

 ライラさんは静かなままだった。ただ、いつの間にか僕の隣に立って、何も言わずにそこにいた。

 アヅミの鼻がひくっと動いた。泣きそうな顔をしているのに、口だけが「ちくしょう」って形になっているけれど、声は出ていない。

 ゼオスさんが一度、深く息を吐いた。


「これが…っ…

 善意の代償…ってやつ……?」


 僕はうつむいて拳を握り、歯を食いしばった。






 もう良い。

 手加減はしない。


 風が頬を撫でた。冷たくて目が覚めるやつだ。

 僕は前世でも、冤罪を覆せなかったことは一度もない。それだけ思い出した。


 石畳が朝の光を冷たく受けている。風が吹いて止んで、遠くで鳥が鳴いた。

 通りの向こうで市場の開く音がした。木箱が石畳に降ろされる音。荷車の車輪。今日も街は通常通りに動きはじめる。

 当たり前だ。あの人が連れていかれても、世界は止まらない。

 それが一番、腹が立つ。


 僕はふたたび、ギリッと拳を握りしめた。



 そんな時遠くから、ウィリアムの護送車とは違う馬車の音がアジトに近づいてきていた。


 蹄の音がバラバラじゃない。四頭、あるいは六頭――間隔が揃っていて、訓練されたみたいだ。

 偉い人の馬車だけが持つ、あの律儀な足音。


 通りの端にいた人間が退いたのが、足音の変化で分かった。人が道を空けている。車輪の音と蹄の音が近づくにつれ、それまで低くざわついていた通りが、するりと静かになっていく。


 ……誰だろうか。


 僕は、門に向かって顔を上げた。


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