33. 夜の時間は少し甘い?
路地を抜けた先で、遠くに灯台の橙色が揺れている。どこかで野良猫が鳴いた。遠い声だ。
ゼオスさんと部下が先を歩き、僕たちはその後を続く。足音が複数重なって、石畳に低く跳ね返ってくる。カイが一番後ろ、僕のすぐ前。ライラさんはカイの斜め左にいた。
「……まだ気配が残ってるかもしれねー」
カイが低く言った。振り返らず、周囲の空気を読むように、少しだけ目を細めた。街灯の光がカイの黒髪をなぞる。後れ毛が一本、頬に張り付いている。
「今夜は散るな」
その言葉に、ゼオスさんが頷く。
僕はその間一度だけ北の方角を見た。夜の王都。重なり合う屋根の向こうに、灯りのついた窓がいくつか見える。
弟たちが家の見張り番をして、夕飯を作っているはずの時間だ。
今日は帰っちゃいけない。諜報員が後ろについている今、家に向かったら――僕の家族まで刺客に狙われる可能性が高い。それだけは絶対に駄目だ。
「今夜は、皆とアジトに残ります」
言ってから、少し間を置いて。
「……その前に、少しっ」
カイが目だけでこちらを見る。続けろ、という目だ。
僕はポケットから折りたたんだ紙を出して、素早く携帯している万年筆で書きこんでから、ゼオスさんの部下の一人に差し出す。
「すみません。この住所に届けていただけますか。弟宛てです」
部下の人は少し目を丸くしてから、受け取ってくれた。
――シェン、イリク。今夜は頼んだよ。アランはまだ小さいから、二人で母さんと一緒にしっかり面倒を見て。
伝書にはそう書かれてある。
僕はもう一度、北の方角を見てから正面を向いた。
◆◇◆
アジトの扉をくぐったとき、アヅミが壁にもたれながら「あーもう足が死んでる」とぼやく。
ライラさんが「お疲れ」と呟いた。ウィリアムとカイは廊下の角を曲がって見えなくなった。
僕はゼオスさん率いる部下の案内で、宛がわれた部屋に入った。
ランプの芯が小さく揺れている。僕はアジトの条約書類の束を広げた。ヴィランのことを把握するために、みんなからは閲覧を許可されているのだ。
文字が並んでいて、インクの匂いがする。
ポタっと、書類が滲んだような気がした。
目が疲れているだけだろう。そういうことにしたい。
また、届かなかったな。
カチ、と音がした。ランプの芯が揺れる。扉が開いた。足音がない。
「……」
入ってくる気配が先にあって、目を上げるとカイだった。
陶器のカップを二つ持っている。
一つを僕の机に置いた。湯気が立っていて、茶葉の香りがふわっと鼻に届く。
カイが温かいものを持ってきた……? 信じられない、これは夢かな……?
壁に背を預け、カイは腕を組んだ。自分のカップを片手で持ったまま、こちらを見ている。何も言わない。
僕も、何も言わなかった。
ランプの芯がまた揺れる。
「……えーっと、お茶、ありがとうございます」
先に耐えきれなくなったのは僕のほうだ。カイは少しだけ視線を逸らす。それから、耳の先を指で掻いた。
「……お前、好きなもんとかねぇの」
「え?」
唐突すぎて、書類を落としそうになった。
「……無理してんのわかるから。気晴らし探してやろうかと思って」
カイがぼそっと続ける。
「……別に。心配してるわけじゃねぇけど」
……ええええ!?
心配してくれてる? こりゃ心肺停止だ、なんつって。さっむ……落ち着け、まず質問に答えなきゃ。うーん好きなものか。ちょっと考えよ。
本当のことを言うのが一番早い。
「強いて言えば……あなたですけど」
カイが止まった。カップを持つ手が、かた、と微妙にぶれた。
三秒、五秒、十秒と沈黙が長くなっていく。
「……は?」
カイは首まで真っ赤に染め上げて、頬を手首で拭うような仕草だ。なんでそんなに驚いてるの? 珍しいなあ。
「好きなもの、ですよね?」
僕は首を傾げた。
変なこと言ったつもりはないんだけど。
「お前、意味わかって言ってんのか」
「はい?」
あなたの狂信者、という事実なんですが……。
カイは突然、僕の横方向にある机に手をついた。
「……好き、って」
低い声が近い。灰色の瞳がこちらを見ている。僕はぽかんとしてしまった。
「……ファンとしてですよっ? カイさんが元気そうにしてくれてたら、僕それだけで頑張れます」
にこっと僕は笑う。カイがゆっくりと目を細めた。何か言いかけた口が、閉じられた。
「……そういうの、さらっと言うな」
「さらっと?」
何がさらっとなのか、よくわからん。本当のこと言っただけ!
「…………」
カイが顔を逸らす。でも机から離れない。距離はまだ近い。僕は何となく動けなかったけど、カイをとりあえず覗き込んだその拍子に、上体が少し傾いて。
こつん、っと額が当たった。
「……?」
「……」
動きが止まった。自分の心臓の音がはっきりと聞こえて、他の音が全部消えたような錯覚にさえ陥る。
カイがするりと先に離れていく。
「……もう寝ろ」
ポスっと僕の頭の上にカイの手が乗った。掌の体温が、頭のてっぺんから染み込んでくるみたいだ……。
「無理すんな」
「はっ、はい……」
どうしよ。推しの手がめちゃくちゃあったかいんだけど。さっきから至れり尽くせりだな……?
そこで再び、扉が開いた。
「おー、まだ起きてる……って」
ライラさんが顔を出して動作を止めた。
髪で隠れていない方の片目だけで、僕の頭の上に乗ったままの手を数秒見つめる。
「……俺、邪魔?」
ライラさんの口の端が上がってる。静かな声だけど、笑ってるのがバレバレだ。
「邪魔じゃない」
カイが即答し、手が離れた。
「入れよ」
ライラさんは「はいはい」と言いながら部屋に入ってきた。くすくす笑っている。
「顔、赤いよカイ様」
「赤くねぇ」
「赤いって絶対。鏡見る?」
「見ねぇ」
「見た方がいいと思うけど」
「うるせぇ」
ライラさんがこちらを見た。紫の瞳が、面白そうに光っている。
「レオン、何言ったの?」
えーっと。
「好きなものを聞かれたので、カイさんと答えましたっ」
ライラさんは一拍止まってから、ぷっと吹き出した。
「ははははっ!」
「ライラ笑うな!」
「そんなっ、笑うなって無理だって」
目に涙が浮かんでいる。カイはライラさんを睨みながら腕を組んで、明後日の方向を向いた。
ひとしきり笑ったライラさんが、こちらに歩いてくる。
「レオン、きみ自覚ないの? それ爆弾だよ」
「爆弾?」
「心臓に直接くるやつ。ドカン……って」
弾薬の話をしているわけじゃないのは分かる。でも肝心の何が。
「……ふむ、聞かれたから、答えただけなんですけどねぇ……」
「へえ?」
ライラさんが腰を屈めて、人差し指ですい、と僕の顎を持ち上げた。紫の目が十センチ先にある。
「レオン。俺のことは?」
ここで躊躇したら、推しへの礼儀に反するのかも?
「好きですよ?」
僕は即答した。ライラさんが止まって、カイの舌打ちが小さく聞こえる。ありゃ、なんで怒ってんだろ。
「皆さんのこと大好きです。ファンなので」
それでも僕は続けた。
ライラさんがゆっくりと直立し指が離れ、顎の先に温度だけが残る。
「……困った子だね」
笑っているが、目が少し違う色だ。小さい声で独り言みたいな言い方だった。
ライラさんは羽織っていたコートを脱いで、こちらの肩にかけた。
「風邪ひくよ。薄着だから」
「あ、ありがとうございます」
コートが厚くて、僕の肩が重くなる。
カイが動いた。
「俺がやる」
音もなく近づいて、コートを引き直して、ずれていた衿をさっと整える。
「はいはい」
ライラさんが両手を上げた。降参の形だけど、にやにやしてる。
部屋の中に、三人分の気配が満ちた。
こういう夜が好きだなあ。
肩の上のコートをそっと握った拍子に、窓の外で風が一度だけ強く鳴った。
その方向へ僕は顔を向けた。
理由はわからない。音が怖かったわけでもない。ただ、何処かで、なにか起こっているかのような。
きっと気のせい。疲れているんだろーな。目も痛いし、そろそろ限界かもしれない。
窓の外は、もう静かだった。
不穏な気配がしますね。
次回、英雄族の『蒼き誓約と王子の夜明け』攻略対象者サイドになります。




