30. それって、うん闇落ちだよ
「おお」
足音が次第に地鳴りのような力強い響きへと変わり、市場全体を揺るがしていく。すごいな、この光景。
「おい、そっちを塞げ!」
「駄目だ、数が多すぎる!」
まずは物理的な鍵だけでひらく天幕から、グルムに開けてもらった。魔法の金具で拘束されている者たちを解放するには、管理室で大元の契約を解除する必要があるからだ。
怒号を上げる兵士たちが、押し寄せる人の波に為す術もなく飲み込まれていく。
グルムが外から引いてくれた奴隷たちが、商会兵たちの足元に雪崩れ込んでいく。混乱が混乱を呼び、剣を持った兵士たちが互いに衝突し始めた。
ミナが家出中にここに捕らえられたと仮定するなら、脱出している群衆の中にいる可能性はゼロじゃない。
奴隷たちの保護はゼオスさんに連絡して、このあと派遣してもらった部隊と合流する計画だ。
グルムにミナのことをイーゼルハイムで話すと、少し心当たりがあるように頷いてたな。
僕とウィリアムは物陰に並んで立ち、様相を静かに見守っていた。
これは……想像以上だ。
あまりの状況に、キャパシティが超えちゃうよ。
僕は「へへっ」と疲れ気味に笑って、冷めた視線を群衆に送っていたウィリアムと顔を見合わせた。
人の波をサーフィンのように掻き分けているグルムは、埃だらけの状態でぶんぶん手を振ってきたものなので、二人して呆れた視線を送った。
その後、市場の最奥部。
契約室の扉の前に僕たちは立った。
グルムが補助鍵でさっさと開ける。立て続けにやるべきことが多くて、すこし息が切れるね。
中に入ると、部屋の大半を占めるほど巨大な板が、薄暗いホールに鎮座していた。縦横二メートルはあろうか。
透き通った水晶で出来ていて、内部に複雑な魔法陣が組み込まれている。表面は淡い青みがかった光を放っていて、無数の細い線が網目状に走っていた。
魔導管理盤。
この盤を通じて、市場全体の奴隷契約がぜんぶ管理されている。
グルムが鍵でケースを開けようとして、分厚い術式の壁に阻まれてぎっと眉を寄せた。
「これは、魔法か」
「僕ムリです。魔法からっきしなもんで」
即答した。今度はグルムが苦笑する。
ウィリアムがこちらを見て、眉が一瞬だけ上がった。呆れと納得が同時に顔に出ている。それがまた絶妙な組み合わせで、なんとも言えない表情になっている。
「……毎度のことながら」
ウィリアムはゆっくりと管理盤に歩み寄りながら、言った。
「弁護士としての資質とその落差が、信じがたいですね」
「っここは、ミナのお兄ちゃんであるウィリアムさんに……」
「はいはい。仰せのままに」
苦笑いをしながら、ウィリアムが管理盤の正面に立つ。
指の動きには一切の迷いがない。袖をすっと折り返して、両手のひらを盤面に向けた。
細く白い指が、空中で複雑な印を結ぶ。盤面の青い光がじわりと強まり、内部の魔法陣が活性化して、網目状の線が輝き始めた。
魔法を使うことにためらいがなく、その技術さえ見る者を魅了するのは、さすがミナの兄というだけある。
しかし、ウィリアムが解除コードを流し込んだその時、水晶板の光が一瞬だけ赤黒く濁った。
ブウン……という低い音がして、グルムが顔を上げる。
「ん、大丈夫か」
「反応が少し遅いですね。回路が劣化しているんでしょうか?」
ウィリアムはもう一度、手のひらを盤面に当てた。
再び解除コードが流れる。今度は水晶板が応えるように、青白い光で静かに満ちた。
「解除、完了しました」
グルムが「ならいい」と短く返した。ウィリアムは管理盤から手を離した。それから、ほんの一瞬だけ自分の手のひらを見た。それからすぐ、いつもの涼しい顔に戻って「行きましょう」と踵を返す。
光が赤黒く濁るなんて、正常な解除プロセスじゃない。
まるで、何者かが先にデータを弄った『細工』の痕跡みたく思えた。……気のせいならいいんだけど。
そう思いつつ、僕は無言でウィリアムの後を追った。
管理盤の解除と同時に、市場全体の奴隷たちを金具で縛る拘束魔法が、連鎖するように解けていった。ガチャン、ガチャン、ガチャンと各所の錠前が立て続けに外れていく音がした。
天幕の出入り口が開くたびに、小さな声が上がった。泣き声もあれば、言葉にならない呻き声もあった。
次々と人が外に飛び出していく。その流れの中で、グルムが足を止めた。
壁際の小さな天幕。
青い髪が特徴的な女の子のヴィランが、入口が開いても、その場から動けずにいた。
足が震えていた。長いあいだ、狭い場所に押し込められていたのだろう。立ち上がろうとしているのに、膝が言うことを聞いていないのかもしれない。
ウィリアムがその子の前に、さりげなく立ち止まった。しゃがんで、眼鏡を少しだけ上げる。
「立てますか?」
声音が違うな。穏やかだ。
女の子は怯えながらも、差し伸べられた手に、自分の小さな手を乗せた。ウィリアムはゆっくりとその子を立たせる。それだけで何も言わない。
「……ありがとう」
女の子が、掠れた声でそう言って、走り去っていく。ウィリアムは立ち上がって、その背中を見送った。
その横顔に、何が浮かんでいるかは分からなかった。しかし、眼鏡の奥の目が、わずかに細くなった。
……妹を、こうやって支えてきたんだろうな。
どれだけ長い間、ずっと。
市場全体が、どよめきから静けさへと変わっていく中で、僕はひとり、開け放たれた檻の列を眺めた。次々と鎖が解け、泣きながら飛び出していく人々の顔。震える唇から漏れる「ありがとう」の声。
その光景を見ていたら、頭の片隅にずっと残っていた、とある言葉が浮かんだ。
『――あなたなら、世界を変えられる―――』
いやまだ、全然変えられていないと思う。
というか今回、僕は元々奴隷解放じゃなくて、ミナの捜索が目的でこんなことをしているだけだ。
セリーヌ。こんな僕を許して。
いつか、かならず変えてみせるから。
感傷に浸っている間にも、市場中を三人で手分けして、ミナを探した。ヴィランの奴隷は全員外に出た。子供も、老人も、傷を負った者でさえも仲間に担がれて。ただ、一人だけいない。アッシュグレーの髪の、小柄な女の子が。
壁際でウィリアムが立ち止まっていた。彼の視線の先には、空になった檻の格子があるだけだ。
「いませんね」
声が乾いていた。ただ事実が空気に落ちた。グルムが腕を組む。
「……最初からいなかった……のかね」
「足取りが、どこかで途切れているということですね」
ウィリアムはそれだけ言って黙った。その沈黙の重さを僕は受け止める。
「……いや、可能性自体はあるはずです」
可能性といっても、最悪な可能性だ。
ミナが、既に買われているという……―――
信じたくもないけど、市場の隅にゆっくりと目を向けた。ウィリアムとグルムも釣られるように視線をそちらへ流す。
そこにまだ一人だけ残っていた。
黒髪ヴィランの男の子。六歳か七歳くらいだろうか。天幕からは既に出ていて、商人たちが元々いた陣幕に身をもたれさせている。
こちらをじっと見ながら物珍しそうに伺って、観察しているのだろうか。
僕はゆっくりと歩み寄った。
急がないように。怯えさせないように。
「ねえ、君」
その子の目の高さに合わせて、膝をついてしゃがみ込む。
「アッシュグレーの髪の、ワンピースを着た小柄な女の子……見なかった?」
男の子の唇がおずおずと開く。
「その子って……背中ぐらいに伸ばした髪の子、でしょ? ならすぐ近くの天幕に、いたよ」
はにかみながら答えた。
「本当か!?」
グルムが男の子に向かって叫ぶ。男の子はちょっと怯えながらも、ポソポソと告げた。
「うん。すごく綺麗な金髪の、王子様みたいな衣装の人が迎えに来てた。『特別なお客様』だからって、連れてかれた」
「………は?」
「金髪の人、つめたくって綺麗な目で、すごく優しく笑ってた。その子も、お人形みたいに頷いてた……そのまま、買われたんだ」
金髪の王子様。
氷のように綺麗な目。
そして、優しげな顔の裏に隠された、底知れない悪意。
「まさか」
僕の知っている中で、その条件に当てはまる『王子』はこの世界に一人しかいない。
嘘だ。
自分から、あのサディストの手を取ったっていうの?
「……」
僕たちは男の子の言葉を聞いて、礼を言ってからずうっと黙り込んだままだ。
軋む足を引きずるようにして、なんとか市場の外に出た。
倉庫街の反対側に、奴隷たちの保護を任せたゼオスさんの部隊が待っている。すぐ、行かなければ。
赤い納屋の前に三人で立って見上げた空は、吐き気がするほど澄み渡った青空だった。
太陽が眩しくて港はさぞ景色がいいだろう、でも空を見上げたきり、瞳には映せなかった。
『だからあなたは、あたしとちがう……――』
アジトの屋上で見た、真っ黒な瞳を思い出す。
それは、〝自分はそちら側にはいけない〟という失望なのか。
ミナは英雄族側につき、僕たちと敵対しにかかってる―――
君が何を考えてあいつの手を取ったのか分からない。だけどそれ、僕のいた世界でなんて言うか知ってる?
「いやいやいや、まぎれもない闇堕ちだってぇ!! もー勘弁してよミナぁぁ!!!」
港の中心で頭を両手で抱え、僕はわあっと叫んだ。
続きの更新は明後日になります。
次回、レオンたちはゼオスとカイがいる部隊に合流し、そこでなにかが起こります!




