29. あなた人のこと言えません
怒らせてはいけない人間というものが、この世には確かに存在するんだ。
鎖の音とため息が染み付いたこの場所で、僕は目の前に並ぶ強欲な商人たちを見据えた。
ミナのトラウマを作ったとされるこの場所。
それを放置しておくほど僕は、物分かり良くないよ?
「……あなたがたがやっていることは、非認可の売買ごっこです。お遊びの時間はもう、終わりですよ」
伏せ目がちに笑って静かに言うと、先程までふんぞり返っていた恰幅の良い商人が、額にじわりと脂汗を浮かべ、隣の同業者とひきつった視線を交わした。
この国の監査院は奴隷や犯罪を取り締まり、規制する役目がある。基本、英雄族が所属する組織で、これはあまり知られていないけど、なんと条約を管理しているのも監査院だ。
もう既に、この奴隷市場の不正をその監査院に通告している。
院の者たちから逃がす猶予は持たせない。容赦は、しない。
「それで、あなたがたが使っている帳簿ですが、こちらでアクセスして、情報屋とともに分析したところ……」
僕の言葉に、商人たちがびくつく。兵士は剣を構えた。
「二重売買や虚偽の登録が山ほどあるでしょ? 一件でもその不正が見つかれば、その契約は即時、失効ですっ。
つまり。
ここにいる全員の奴隷所有権は、法の上で『存在しない』んです」
あたりが騒がしい。天幕の中でも、声が上がり始めた。
「本当か」
「それって……出れるってこと……!?」
奥からすがりつくような声色の奴隷たちが、僕の背中を見つめているのを感じた。
その時、青筋を立てていた商会兵が剣の柄を抜く。
呼吸がふうふうと荒く乱れているのが聞こえた。シャァンッと空気を裂くような鋭い金属音が鼓膜を打つ。
「……っ畜生!」
剣先が近づく。
「んえ」
その先は僕の頭上だ。
「おっ、とッ?」
!? 待って、いや、ちょっと!
ヤケクソにならないでよ!
心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴が粟立つ。喉の奥がカラカラに乾いて、悲鳴すら声にならない。
僕は、とっさに剣を手でガードしようと構えた。
時間が遅くなった気がした。ランタンの鈍い光を反射した剣の切っ先が、僕の眉間めがけて、吸い込まれるように迫ってくる。
これ、本気でやばくない―――? つまり今この場で、商会兵に消される……?
刃が放つ冷たい風圧が、前髪をふわりと揺らした、その時だった。
「……少し、補足していいでしょうか」
しずかな声が、後ろから割り込んだ。
声音は穏やかなのに、重さがある。騒々しい地下空間の熱を、一瞬で凍りつかせるような絶対零度の声。
振り下ろされようとしていた剣がピタリと止まり、兵士が振り返った。
その隙だけで十分だ。
僕は即座にばっ、と後ずさり、兵士から二メートルほど距離を取る。
声の主は続けた。
「論理に対して感情で返す習慣は、悪手ですよ。覚えておくと、いつか役に立つかもしれません」
眼鏡のレンズが、ランタンの光を反射した。
気がつけば、僕は兵士の視界から完全に隠れるように、ウィリアムの広い背中の後ろにすっぽりと収まっていた。
彼は僕をかばったまま、長身をわずかに屈め、レンズ越しに射抜くような視線を兵士へと投げかけている。
周囲がざわめき混乱している隙に、僕の手首を、細いけれど力強い指先がスッと掴んで、一旦兵士の目につかない所に手を引かれ誘導した。
ひんやりとした体温が伝わってきた……。
冷静になって! と自分に言い聞かせてみるけど、こういう時に限って脳内が祭り状態になるのはなんでだ。
僕は口をパクパク動かす。
さっき確かに死にかけた。でも今、僕の頭の中を占拠しているのはその恐怖じゃない……ごめんなさい、脳内の優先順位終わってるかも。
「あ、あ」
ウィリアムは相変わらず、感情を顔に出さない。そんなふうに全部遮断してしまえるのが、ずるいくらい愛おしい。
「呆れますよねぇ、レオンさん。こちらが気をそらせば油断する程度の殺意なんて」
ウィリアムは眼鏡を二本指で押し上げた。
その、仕草すら。
「かっ」
「? レオンさん、どうしたんです」
「かああっっこいいい!!!」
「!?」
推しが、僕をかばってくれただとぉ……!?!?
もう僕の瞳はキラッキラになっていることだろう。
「ふむふむ、わかりました。これは、法廷に立った僕への正当な特典ですね」
「……何を言ってるんです……かっこいい、って」
ウィリアムはポカンとした後、そっぽを向いて眼鏡を上げる。横顔が、ランタンの橙色に照らされてわずかに赤い気がしたのは、きっと光の加減だろう。
「あなた、人のこと言えませんから……」
ウィリアムが小さく呟いた気がしたが、なんだろう。
しかし、時間が刻一刻と迫っている。
よし。
僕はふうっと深く息を吐き、頬を両手でパシンと叩いてスイッチを切り替える。深呼吸を一回、それからもう一回。まだ心臓はうるさいけど、手は震えてない!
その場に立ったまま、辺りを見渡す。
それから僕は手を下げた状態で、ピースサインをして口を動かした。
「……さ、今ですよっ。―――グルムさん」
◆◇◆
「はいよ。弁護士サマ」
グルムはレオンの合図に気付いた。
影から影へと音もなく移動する。
上着の内ポケットから、二つのものを取り出した。
ひとつは六角形の黒い小さな鍵……契約管理室への補助鍵のスペア。
グルムにとって、鍵を手に入れることは造作もないことだった。足音を立てないように気を付けながら、さりげなく契約管理室の鍵穴に蝋を流し込む。そこからモデルを作り、素材を使って成形していく。三日ほど時間は要するが、これ以上ないくらい簡単だ、と鼻を鳴らした。
彼にとって、情報屋は天職でもあるが、同時に犯罪の方面にも才能があることは、わずかに本人も気づいている。
取り出したもうひとつは、細長い鉄の棒。先端が微妙にカーブした、使い込まれたピッキングツールだ。
鍵は後で使う。錠前には、こっちの手作業。グルムは迷わず指でくるりと一回転させた。
レオンたちからすこし離れた場所に、グルムは居た。奴隷たちが閉じ込められた天幕の前に、おもむろにしゃがみ込む。
「……?」
網の向こうで怯えて後ずさる奴隷たちに向かって、グルムはにっと笑った。
「立ちな。あんたたちはもう自由だぜ?」
「!?」
天幕に掛けられた十五センチほどの錠前を鉄の棒でいじる。使い込まれたツールが錆びついた錠前の内部を探り当て、カチャリと小さな音を鳴らした。その瞬間、グルムは口の端だけで笑った。この感触は、何年経っても気持ちいいと思った。
「って言っても、自由になって最初が逃げ足ってのは皮肉な話だな。……ほら、出れるぞ」
解除し、出入り口を開けた。奴隷たちの目に光が灯る。
目を見開き、やがて大粒の涙をボロボロとこぼしながら床に崩れ落ちる者もいた。
「………ッ…―――ありがとう」
それぞれしゃくりあげながら、外へ向かって、全力で走っていく。
感傷的な気分にはあんまりなれない性分だが、今日くらいはいいかと思った。
これも、少年弁護士のせいということにしておこう。
誤魔化すように、くくっといつも通りの笑みを浮かべた。




