26. 届かなかった手
執務室から出た僕は、アジトの屋上へと続く重たい鉄の扉を押し開けた。
「な、なんでこんなことになるのっ……」
僕は膝に手を置いて、乱れた呼吸を整える。
冷たい風が頬を撫でる。そこは黒い塔の頂上付近に設けられた、空に一番近いバルコニーだった。
ただ円満に契約終了のハンコをもらって、「またね!」と爽やかに去る予定だったのに。
書類は燃やされそうになるわ、カイとウィリアムはバチバチしてるわ、アヅミには慰められるわ。
あんなの、ただのファンには荷が重すぎるって!
「推しって尊いけど、距離感間違えると劇薬だよね……」
手すりにもたれかかり、僕は黄昏時の空を仰いだ。
空は茜色と群青色が混ざり合い、美しいグラデーションを描いてる。眼下にはノクス領の街並みが広がり、ぽつぽつと魔導ランタンの明かりが灯り始めていた。
平和だ。
裁判が終わって、彼らの無実が証明されて、こうして街に活気が戻りつつある。
僕がやりたかったことは、ちゃんと達成できたはずなんだけど。
ん、なんだろう、胸の奥でチクリとした感覚が消えない。えーっとこれは、よく言う燃え尽きとかってやつ? バーンアウト症候群?
でもそれは、違和感にも似ている気がするけど。
「……あ」
バルコニーの先端で、空に突き出したような細い手すりの上に、誰かが座っているのが見えた。
見間違いかと思って、目を細めてみる。風が吹くたびに髪が流れて、蜃気楼みたいだ。
風に煽られてふわふわと舞う、アッシュグレイの長い髪。
小柄な背中に、見覚えのあるワンピース。
「ミナっ?」
僕は声をかけた。
彼女は僕の有能で可愛らしい助手。こんなところで夕涼み……??
「……レオンさま」
僕の声に、ミナはゆっくりと振り返った。
逆光で表情はよく見えないけれど、その声はいつものように鈴が転がるような明るさがなく、どこか平坦だ。同じ声域で、同じ口調なのに、響き方がちがう。
「どしたの、そんな危ないところで。新しい魔法の練習とか?」
いや危ないけど。ミナなら使える術が多いし、仮に落ちても自力でなんとか出来る可能性が高い。
うーん、でも、やっぱり放っておくのは違うかな。そう思って僕は彼女に歩み寄った。
ミナは手すりに座ったまま、ぶらぶらと足を揺らす。
「レオンさまは、すごいですね」
唐突に、ミナが言った。
「え?」
「あの裁判で、誰もがあきらめてたことを覆して……。カイ様も、おにーちゃんも、ライラさんもアヅミさんも……みんな、レオンさまを必要としてます」
その言葉に僕は頭をかいた。
「そんなことないって。今回だって、ミナの解析魔法がなかったら証拠なんて見つからなかったし。恥ずかしながら僕一人じゃあ、何もできなかったと思うよ」
この少女がいなかったら、あの『捏造された証拠』を見破ることは不可能だった。
「ミナは、僕に釣り合わないくらいに、最強の補佐で、さいっこうの相棒だから! これからも頼りにしてるっ」
その瞬間。
揺れていた足がぴたりと止まった。静止した足首が、橙色に染まっている。ミナのワンピースが、音もなくはためく。
「………相棒、ですかあ」
風が強く吹いて、空の茜色がみるみる群青に侵食されていく。夕暮れが夜に変わるこの瞬間はいつも少しだけ、息が止まりそうになる。
「……あたしは、レオンさまが羨ましいですよっ」
「ええ、なんで?」
「みんなに、必要とされてて……」
ミナがゆっくりと、手すりの上に立ち上がった。両腕が、自然にバランスを取るように左右に広げられた。大きな動作じゃない。だけどあまりに迷いがない。
風がまた吹いて、アッシュグレーの髪が空へ向かって流れる。地面までの距離を、僕は一瞬だけ目測した。足の裏が手すりの幅に収まりきらないほど小さい。それでもミナは、揺れなかった。風がまた吹いて、髪が大きく流れた。重力に逆らうように、上へ、空へと。
細い体躯が、夕暮れの空に黒いシルエットとなって浮かび上がる。
―――危ない。
僕の勘か、あるいは生物としての本能か。背筋がぞくりと凍りついた。
「ミナ、降りておいでっ。話なら、聞くから……」
一歩、足を踏み出す。けれどミナは、僕の方を向いたままかぶりを振った。
夕日が彼女の顔を照らす。そこで改めて、僕は彼女の表情を見た。
笑っていた。
今まで見たどの笑顔よりも美しく、聖女のように穏やかで。
けど、その瞳だけが底のない闇のように、光を吸い込んでいた。
「………レオンさまは、素晴らしいひと……。光そのものみたいなひと……」
ミナは胸の前で手を組み、陶酔したように呟く。
「だからあなたは、あたしとちがう……――」
「え、ミナ……?」
彼女の言葉の意味を理解するよりも早く。
ミナの体が、ふわりと後ろに傾いた。重力が彼女の髪を上へと引く。足が手すりから離れる。
「……さよ、なら」
その唇が動いたのを、僕は見た。
「ミナッ!?」
僕は大きく叫んだ。
思考など吹き飛んだ。ただ、目の前で落ちていく小さな体を掴まなければという一心で、僕は手すりに向かって全力で飛び込む。
手を伸ばす。肩の関節が軋み、手すりの角が腹に食い込む。それでも足りない。あと十センチ、あと五センチ。距離が縮まらない。時間だけが、異様に引き伸ばされていく。
届いてくれ、頼むから……掴んで。
すかっ。
僕の指先は、ミナの髪にかすることもなく、虚しく空を切った。
勢いのまま手すりに腹を打ち付け、僕は身を乗り出して下を見る。
落下していくミナの体。
その背中が地面に激突する、その寸前。
ボッ―――。
黒い霧のようなものが彼女の体を包み込んだかと思うと、ミナの姿は掻き消えるように消失した。霧は広がらなかった。生まれると同時に、内側へと収縮した。残ったのは夕暮れの石畳と、ただ何もない空気だけだった。
僕は手すりを掴んだまま、呆然と下を見下ろしていた。
「え」
地面に誰もいない。血も悲鳴もなく、ただ乾いた石畳が広がってる。
落ちたんじゃない……消えた?
――あの黒い霧は、そうか、転移魔法だ。
頭が追いつかない。心臓だけ早鐘を打って、指先が震えている。しばらくそのまま、誰もいない地面を見下ろし続けた。
ただ、あの子が自分の意志でどこかに行ってしまったことだけは分かった。
空が完全に群青に変わっていた。魔導ランタンの明かりが、遠くにいくつも灯っている。時間は確かに動いていて、僕だけ止まっていた。
そんな中、背後の鉄扉が音を立てて開かれた。
「レオンさん。さきほど、ミナの身体が落ちる様子が、窓から見えたような!」
駆け込んできたのは、ウィリアムだった。
いつもの冷静な彼らしくもなく、肩で息をしてこちらを見ている。
僕はゆっくりと、軋む首を回して彼を見た。うまく言葉が出てこない。
伸ばしたままの右手が、行き場をなくして震えている。
「ウィリアム、さん」
喉が張り付いて、掠れた声しか出ない。
「ミナが……」
「ミナが、どうしたんですか?」
ウィリアムが詰め寄ってくる。
僕は、誰もいない空間を指差したまま、事実を口にした。
「……手が、届きません、でした」
その言葉が風にさらわれた瞬間、ウィリアムの顔から色が失われていく。眼鏡の奥の目が、ゆっくりと見開かれた。普段は何があっても揺れないあの目が――それを見た瞬間、僕の胸が締め付けられた。その表情の意味を、もう知ってるからだ。
伸ばしたままだった右手を、ゆっくり下ろす。
ミナ、僕の、……ミナ…―――
……あの子を、連れ戻さなきゃ。
右手の指を一本ずつ折り畳む。風がちょうど止んでいた。
「―――探しましょ。今すぐに」
僕はうつむきがちに、目線だけを上げた。
シリアスになってきましたね。続きは明日更新です。




