22. 夜の法律事務所とな 『?』視点
銀座にある法律事務所にて、蛍光灯が低く唸りをあげる中、判例集を閉じる音が静寂を破った。
窓の外は雨で、ガラスに滲む街灯がぼんやりと揺れている。
オフィス中央の席にて僕はデスクを片付け、鞄の中を整理した。
さて。明日の準備は整ったことだし、帰るか。
ガチャン、というタイムカードの打刻音が無機質に響き渡る。それは一日の終わりを告げる合図であり、僕が社会という巨大な歯車の一部であることを証明する音でもあった。
ロッカーのスマホを漁っていると、ふとドアの蝶番が軋んだ。
「よう! 残業は終わりか? 差し入れ持ってきたぞ」
黒いコート姿の同僚が、片手に紙袋を提げて立っていた。
ふわりと鼻先を掠めるのは、湿った雨の匂いと、彼がいつも愛飲している甘ったるいカフェオレの香りだ。
「……ありがとうございます」
手渡されたテイクアウトコーヒーからは、白い湯気が立ち上っていた。その香ばしい香りが鼻孔をくすぐり、一口啜ると、苦味の中にほんのりとした酸味が広がる。僕のために、ブラックにしてくれたみたいだ。
「それと……あとはこれだ」
同僚が机に落としたパッケージには、蛍光灯の光を反射して、きらびやかな男性キャラたちのイラストとタイトルロゴが映った。
タイトルは『蒼き誓約と王子の夜明け』。
……なんだ? このイケメンの集合体は。
「これは、ゲーム?」
「お前、休日に何してんだよ? 仕事以外で」
「あぁ。読書、映画とかですね」
「オタクかい!」
同僚は僕に手刀を切った。
「いたっ。チョップは余計ですよ…」
「思ってたとおりだ。じゃあこれ、やってみろ。BLゲームで恋愛シーンもあるんだけど、それも含めて中々面白いんだぞ!」
「ほう…」
同僚は説明しながら、デスクチェアに腰掛けた。
「舞台は二つの種族が対立する世界。
プレイヤーは好きなキャラが居る方のどちらかに所属する。選んだ方で見る世界が変わるってのが面白いんだよな。それにな、プレイヤーの一つの選択で、全員の運命が決まっちまう」
同僚は身を乗り出し、身振り手振りを交える。その瞳は少年みたく輝き、普段の仕事疲れなど微塵も感じさせない。彼の言葉に合わせて揺れる黒髪が、蛍光灯の光を受けて艶やかに光る。
僕はそんな彼を一歩引いた視点から観察していた。彼の熱量に圧倒されつつも、どこか冷めた自分がいるのを感じる。熱帯魚の水槽を外から眺めているような、そんな感覚だった。
「へえ……。そういう世界観のゲームなんですね。あなたが好きなキャラとか、いたりするんですか?」
「おう!」
元気よく言って同僚はごそごそと鞄をあさり、もう一つのパッケージを取り出した。
「って何個ソフト持ってんですか」
「数個買っとくだけでだいぶ違うんだぞ」
これが、実践用と保存用、観賞用で分けて買うオタク伝説か……。
僕が一人ふむふむと感心していると同僚はパッケージの表面中央を指さした。
「おれの推しはこのキャラ! ゲームのメインヒーローだよ。この表情がたまんねえんだよな」
そこには冷ややかな微笑を浮かべる金髪青年が描かれていた。服装からして王子だろうか。氷のように冷たい瞳で微笑んでいる。その唇の端がわずかに歪み、見る者を嘲笑うかのような表情は、確かに一部の層には強烈な魅力を放つのだろう。
「へぇ、あなたこういうの好きなの」
「そ。少し腹黒でSなくらいがちょうど良いんだわ」
「もしかして……」
「ちがうっ。言っとくけどおれは冷笑に興奮するマゾじゃないからな」
この反応、絶対そうだな。同僚の耳は、心なしか赤くなっているように見えた。視線を泳がせ、早口でまくし立てる様子は、図星を指された時の典型的な反応だ。僕はすこしだけ同僚から距離を取ると、同僚は「なっ」とショックを受けた顔になる。
「……冗談ですよ」
「そうか、なら良いけどっ」
同僚はほっと息をつく。それから、パッケージに印刷された王子の顔を愛おしそうな目で見つめた。
「……アレクシス王子のルートに入るのは、ちょっとばかしムズくてだな。ヴィラン族の犯罪をきっかけに戦争が勃発する展開にルート分岐させてから、ミニゲームでヴィランの軍人が仕掛けてくる攻撃を生き残らなきゃいけねーんだよ」
僕はほう、と頷いた。
「……ま、おれも全部のルートをやってるわけじゃないけど、ネタバレし過ぎるとよくねーからな。詳しくは自分でやってみろ。それで、おれはメインルートに絞ってやってるわけ。おまえのいつも見てる本の嗜好的に、ヴィラン側とか好きそうだから……きっとそのルートしかやんないだろ」
「……多分そうだと思いますけど。うーん、あなたがやったのなら……メインもプレイしようかな」
僕が言葉を紡ぐと同僚は「はは」と笑った。
「そこは意識するんだな!」
「? 冷徹って言いたいんですか」
「っあ、待て待てそんなつもりじゃ!」
焦った顔で両手をぱっと前に出して、同僚は心配した様子で僕を覗き込んだ。
僕はしばし、その顔を見つめた。
「………うん、あなたみたいになりたいな」
「は?」
「世話を焼き過ぎて裏目に出るほどの優しさって、ほんとに……貴重だと思いますよ」
僕が軽口を叩くと、同僚はむう、と頬をリスみたいに膨らませた。
「おまえ……それ褒めてるのか」
同僚は呆れた顔をした。雨音が残る室内で、僕は微笑んだ。
次第にその声が遠くなり、意識の底へと沈んでいく。
これは、二度と戻れない日々の残滓―――
視界が白く霞み、重力から解き放たれるような浮遊感が僕を包み込む。
「―――にいちゃん! 起きて! 起きてってばぁ!」
ふと小さい弟の声が聞こえた。
はて。いまのは何の夢だったか―――




