表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された“影だけの令嬢”は、氷の公爵に拾われ溺愛されています  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/20

第9話 月下の庭で

 夜の庭に出てみませんか。


 そう言ったのは、昼間のリーナさんでした。


「公爵様は、よく夜にお庭を歩かれます。

 眠れないときなどは、とても落ち着くとおっしゃっていました」


 窓を拭きながら、彼女は楽しそうに続けます。


「月の出ている夜などは、特に。

 もしよろしければ、公爵夫人もご一緒にどうですか。

 夜の庭園は、本当に綺麗なんですよ」


 夜の庭。


 その言葉に、私の影が、床の上でふわりと揺れました。


 眠るという感覚は、影になってから薄れています。

 目を閉じても、世界の輪郭は、どこかでずっと続いている。


 それでも、昼と夜の違いは、はっきりと分かります。


 昼は、光が強すぎて。

 影の私は、かろうじて地面に貼りついているだけ。


 けれど夜は。


 ランプや月の光が作る影が、私をはっきりと形にしてくれるのです。


「公爵様、おひとりで歩かれることが多いのですが……

 本当は、誰かと一緒の方が、きっと楽しいはずです」


 そう言うと、リーナさんは、さりげなく窓の外に目を向けました。


 そこには、まだ太陽が高く昇っています。

 けれど、空の色には、少しだけ夕暮れの気配が混じっていました。


「夜になったら、カーテンを少しだけ開けておきますね。

 公爵夫人が外に出たくなったとき、月明かりが道しるべになりますから」


 私は、その言葉に、そっと影を頷かせました。


     ◇


 そして、その夜。


 屋敷の灯りが落ち、廊下にランプの光だけが揺れ始めたころ。


 私は、窓辺から差し込む月の光を辿って、部屋の外へと影を伸ばしました。


 厚い絨毯の上を、するすると滑るように進みます。


 廊下に出ると、ランプの光が床に長い影を落としていました。


 人の姿は、ありません。


 けれど、影だけは、たくさん。


 柱の影、観葉植物の影、飾られた絵画の額の影。


 彼らの間をすり抜けるようにして、私は階段を降りていきました。


 庭へ通じる大きな扉の前には、月明かりが広がっています。


 その光を踏むようにして外へ出ると、ひんやりとした夜気が、目に見えない肌を撫でました。


 視線を上げれば、そこには。


 昼とはまるで違う顔をした庭園が、静かに息をしていました。


     ◇


 月の光は、太陽よりもずっと柔らかくて。


 けれど、影にとっては、十分な強さでした。


 石畳の上に落ちる私の影は、驚くほどくっきりしています。


 棕櫚の葉の影や、庭木の影、噴水の縁の影と並んでも。

 自分が「私の形」をしていると、はっきり分かるぐらいに。


 庭園には、白い花が多く植えられていました。


 月明かりの下で、花びらがぼんやりと光っています。


 リーナさんが言っていた、前の奥様が愛した花でしょうか。


 昼間、窓越しに見たときよりも、ずっと幻想的で。


 私は、思わず見入ってしまいました。


 花の根元には、細い影がいくつも重なっています。


 私は、その影たちの間に紛れ込むようにして、花壇のそばまで移動しました。


 地面に貼りついた私の視点から見上げる夜空は、広くて。


 星の光も、どこか冷たく澄んでいます。


 昼の世界で、自分の居場所を失った身には。


 この暗さが、少しだけ優しく感じられました。


     ◇


 やがて、庭の奥から足音が聞こえてきました。


 重くも規則正しい足取り。


 私は、その影を探して、石畳に落ちる影の動きを追います。


 黒い影がひとつ、ゆっくりと近づいてきました。


 アークライト公爵様の姿が、月明かりの中に現れます。


 昼間と同じ黒の軍服を着ているのに。

 夜の光の中では、どこか少しだけ柔らかく見えました。


 彼は、いつも決まった道順で庭を歩いているようでした。


 噴水の周りを半周してから、小さな東屋のそばを通り、

 白い花の咲き乱れる一角で、しばし足を止める。


 その動きを、影の私は、花壇のそばからじっと見つめます。


 彼の足元に落ちる影は、長く、まっすぐで。


 私の影が、そっとその近くに寄ると。


 彼の影の縁が、わずかに私を受け入れるように揺れました。


     ◇


 公爵様は、月を見上げていました。


 灰色の瞳に映る光は、いつもよりも少し淡くて。


 その横顔には、昼間の会議や書類仕事をこなすときには見せない、静かな疲れが浮かんでいます。


「辺境の夜は、もっと騒がしい」


 ふいに、彼が呟きました。


 誰かに向けた言葉ではないのでしょう。


 それでも私は、影をぴたりと止めて、その声に耳を澄ませました。


「風の音と、獣の遠吠えと。

 焚き火のはぜる音。

 そして……死んだ者たちの気配が、いつまでも消えない」


 短く息を吐く音が聞こえます。


「雪が積もると、すべてが白くなる。

 血の跡も、焼け焦げた地面も。

 見えなくなれば、なかったことになると、人はよく言うが」


 彼は、少し笑ったようでした。


 笑いと呼ぶには、あまりにも苦い響きでしたけれど。


「それでも、目を閉じると残る。

 声も、顔も。

 自分が見捨てた者たちが、誰よりも鮮明に」


 私は、そっと花壇の影からにじり出て、彼の足元の近くへと移動しました。


 夜の庭で、公爵様は、きっとひとりでいるつもりだったのでしょう。


 それでも今夜だけは。


 彼が吐き出したその言葉を、私だけが聞いているような気がして。


 胸が、きゅうっと締めつけられました。


 この人は、自分を責め続けている。


 亡くなった奥様のことも。

 戦場で救えなかった人々のことも。


 全部、自分の肩に背負い込んで。

 誰にも見せない場所で、夜ごと噛みしめているのだと。


     ◇


 沈黙が、庭を包みました。


 噴水の水音と、夜風に揺れる葉のこすれる音。


 その中で、公爵様は、ふと足元に視線を落としました。


 月明かりに照らされた石畳には。


 彼の影と、花の影と、そして私の影が、絡まり合うように落ちています。


 しばらく、それを見つめていたあと。


 彼は、ごく自然な調子で問いかけてきました。


「……君は、夜が好きか」


 その一言に、私は思わず影を大きく揺らしてしまいました。


 ここに来てから、誰かに“好きかどうか”を尋ねられたのは、初めてだったからです。


 返事をしたくて仕方がないのに、声は喉どころか、体のどこにもありません。


 だから私は。


 月の光をめいっぱい飲み込むように、影をぐんと広げました。


 花壇の影と一体になるほど、伸びて、揺れて。


 それが、精一杯の「はい」のつもりでした。


 公爵様の目が、わずかに見開かれました。


 すぐに、短い息が漏れます。


「……そうか」


 その口元が、ほんの少しだけ、緩んだように見えました。


 普段の冷たい表情が、夜の光で和らいだのか。


 それとも、本当に、微笑んだのか。


 影の私には、確かめる術はありません。


 けれど、その「そうか」は、とても優しく響きました。


「私も、今は夜のほうが楽だ」


 公爵様は、花壇の縁に指先を乗せました。


 白い花には触れないまま、その影だけを撫でるように。


「昼は、見たくないものまで見えすぎる。

 人の顔も、思惑も、欲も。

 どれもこれも、疲れるほど鮮明だ」


 その言葉に、私は強く共感してしまいました。


 昼の世界は、眩しくて。

 そこに居るはずのない私は、いつも場違いで。


 だから――


 昼の光から零れ落ちた私たちは。


 今、同じ夜の中に立っているのだと。


 そんなふうに思えたのです。


     ◇


 私は、彼の足元にそっと寄り添いました。


 靴の影に重なるように、自分の影を重ねます。


 花の影と、噴水の縁の影と。


 いくつもの影が重なり合い、一枚の絵のように広がっていました。


 夜の庭は静かで。


 それでも、まったく寂しくはありませんでした。


 公爵様は、それ以上多くを語りませんでした。


 私も、当然ながら、何も言うことはできません。


 ただ、同じ月を見上げて。


 同じ夜気を、肌のない身体で感じて。


 同じ場所に、同じ影を落としている。


 それだけで十分だと、今は思えたのです。


 彼の孤独に、少しだけ触れられた気がして。


 私の孤独も、少しだけ和らいだ気がして。


 月下の庭で、私たちは少しだけ、同じ夜を見ていました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ