第9話 月下の庭で
夜の庭に出てみませんか。
そう言ったのは、昼間のリーナさんでした。
「公爵様は、よく夜にお庭を歩かれます。
眠れないときなどは、とても落ち着くとおっしゃっていました」
窓を拭きながら、彼女は楽しそうに続けます。
「月の出ている夜などは、特に。
もしよろしければ、公爵夫人もご一緒にどうですか。
夜の庭園は、本当に綺麗なんですよ」
夜の庭。
その言葉に、私の影が、床の上でふわりと揺れました。
眠るという感覚は、影になってから薄れています。
目を閉じても、世界の輪郭は、どこかでずっと続いている。
それでも、昼と夜の違いは、はっきりと分かります。
昼は、光が強すぎて。
影の私は、かろうじて地面に貼りついているだけ。
けれど夜は。
ランプや月の光が作る影が、私をはっきりと形にしてくれるのです。
「公爵様、おひとりで歩かれることが多いのですが……
本当は、誰かと一緒の方が、きっと楽しいはずです」
そう言うと、リーナさんは、さりげなく窓の外に目を向けました。
そこには、まだ太陽が高く昇っています。
けれど、空の色には、少しだけ夕暮れの気配が混じっていました。
「夜になったら、カーテンを少しだけ開けておきますね。
公爵夫人が外に出たくなったとき、月明かりが道しるべになりますから」
私は、その言葉に、そっと影を頷かせました。
◇
そして、その夜。
屋敷の灯りが落ち、廊下にランプの光だけが揺れ始めたころ。
私は、窓辺から差し込む月の光を辿って、部屋の外へと影を伸ばしました。
厚い絨毯の上を、するすると滑るように進みます。
廊下に出ると、ランプの光が床に長い影を落としていました。
人の姿は、ありません。
けれど、影だけは、たくさん。
柱の影、観葉植物の影、飾られた絵画の額の影。
彼らの間をすり抜けるようにして、私は階段を降りていきました。
庭へ通じる大きな扉の前には、月明かりが広がっています。
その光を踏むようにして外へ出ると、ひんやりとした夜気が、目に見えない肌を撫でました。
視線を上げれば、そこには。
昼とはまるで違う顔をした庭園が、静かに息をしていました。
◇
月の光は、太陽よりもずっと柔らかくて。
けれど、影にとっては、十分な強さでした。
石畳の上に落ちる私の影は、驚くほどくっきりしています。
棕櫚の葉の影や、庭木の影、噴水の縁の影と並んでも。
自分が「私の形」をしていると、はっきり分かるぐらいに。
庭園には、白い花が多く植えられていました。
月明かりの下で、花びらがぼんやりと光っています。
リーナさんが言っていた、前の奥様が愛した花でしょうか。
昼間、窓越しに見たときよりも、ずっと幻想的で。
私は、思わず見入ってしまいました。
花の根元には、細い影がいくつも重なっています。
私は、その影たちの間に紛れ込むようにして、花壇のそばまで移動しました。
地面に貼りついた私の視点から見上げる夜空は、広くて。
星の光も、どこか冷たく澄んでいます。
昼の世界で、自分の居場所を失った身には。
この暗さが、少しだけ優しく感じられました。
◇
やがて、庭の奥から足音が聞こえてきました。
重くも規則正しい足取り。
私は、その影を探して、石畳に落ちる影の動きを追います。
黒い影がひとつ、ゆっくりと近づいてきました。
アークライト公爵様の姿が、月明かりの中に現れます。
昼間と同じ黒の軍服を着ているのに。
夜の光の中では、どこか少しだけ柔らかく見えました。
彼は、いつも決まった道順で庭を歩いているようでした。
噴水の周りを半周してから、小さな東屋のそばを通り、
白い花の咲き乱れる一角で、しばし足を止める。
その動きを、影の私は、花壇のそばからじっと見つめます。
彼の足元に落ちる影は、長く、まっすぐで。
私の影が、そっとその近くに寄ると。
彼の影の縁が、わずかに私を受け入れるように揺れました。
◇
公爵様は、月を見上げていました。
灰色の瞳に映る光は、いつもよりも少し淡くて。
その横顔には、昼間の会議や書類仕事をこなすときには見せない、静かな疲れが浮かんでいます。
「辺境の夜は、もっと騒がしい」
ふいに、彼が呟きました。
誰かに向けた言葉ではないのでしょう。
それでも私は、影をぴたりと止めて、その声に耳を澄ませました。
「風の音と、獣の遠吠えと。
焚き火のはぜる音。
そして……死んだ者たちの気配が、いつまでも消えない」
短く息を吐く音が聞こえます。
「雪が積もると、すべてが白くなる。
血の跡も、焼け焦げた地面も。
見えなくなれば、なかったことになると、人はよく言うが」
彼は、少し笑ったようでした。
笑いと呼ぶには、あまりにも苦い響きでしたけれど。
「それでも、目を閉じると残る。
声も、顔も。
自分が見捨てた者たちが、誰よりも鮮明に」
私は、そっと花壇の影からにじり出て、彼の足元の近くへと移動しました。
夜の庭で、公爵様は、きっとひとりでいるつもりだったのでしょう。
それでも今夜だけは。
彼が吐き出したその言葉を、私だけが聞いているような気がして。
胸が、きゅうっと締めつけられました。
この人は、自分を責め続けている。
亡くなった奥様のことも。
戦場で救えなかった人々のことも。
全部、自分の肩に背負い込んで。
誰にも見せない場所で、夜ごと噛みしめているのだと。
◇
沈黙が、庭を包みました。
噴水の水音と、夜風に揺れる葉のこすれる音。
その中で、公爵様は、ふと足元に視線を落としました。
月明かりに照らされた石畳には。
彼の影と、花の影と、そして私の影が、絡まり合うように落ちています。
しばらく、それを見つめていたあと。
彼は、ごく自然な調子で問いかけてきました。
「……君は、夜が好きか」
その一言に、私は思わず影を大きく揺らしてしまいました。
ここに来てから、誰かに“好きかどうか”を尋ねられたのは、初めてだったからです。
返事をしたくて仕方がないのに、声は喉どころか、体のどこにもありません。
だから私は。
月の光をめいっぱい飲み込むように、影をぐんと広げました。
花壇の影と一体になるほど、伸びて、揺れて。
それが、精一杯の「はい」のつもりでした。
公爵様の目が、わずかに見開かれました。
すぐに、短い息が漏れます。
「……そうか」
その口元が、ほんの少しだけ、緩んだように見えました。
普段の冷たい表情が、夜の光で和らいだのか。
それとも、本当に、微笑んだのか。
影の私には、確かめる術はありません。
けれど、その「そうか」は、とても優しく響きました。
「私も、今は夜のほうが楽だ」
公爵様は、花壇の縁に指先を乗せました。
白い花には触れないまま、その影だけを撫でるように。
「昼は、見たくないものまで見えすぎる。
人の顔も、思惑も、欲も。
どれもこれも、疲れるほど鮮明だ」
その言葉に、私は強く共感してしまいました。
昼の世界は、眩しくて。
そこに居るはずのない私は、いつも場違いで。
だから――
昼の光から零れ落ちた私たちは。
今、同じ夜の中に立っているのだと。
そんなふうに思えたのです。
◇
私は、彼の足元にそっと寄り添いました。
靴の影に重なるように、自分の影を重ねます。
花の影と、噴水の縁の影と。
いくつもの影が重なり合い、一枚の絵のように広がっていました。
夜の庭は静かで。
それでも、まったく寂しくはありませんでした。
公爵様は、それ以上多くを語りませんでした。
私も、当然ながら、何も言うことはできません。
ただ、同じ月を見上げて。
同じ夜気を、肌のない身体で感じて。
同じ場所に、同じ影を落としている。
それだけで十分だと、今は思えたのです。
彼の孤独に、少しだけ触れられた気がして。
私の孤独も、少しだけ和らいだ気がして。
月下の庭で、私たちは少しだけ、同じ夜を見ていました。




