第8話 亡妻の影
アークライト公爵家の屋敷には、私のまだ知らない場所が、いくつもあります。
毎日少しずつ、リーナさんに案内してもらっているのですが。
ある朝、彼女は、廊下の途中でふと足を止めました。
「ここから先は、掃除の必要はありません」
いつもなら、隅のほこりまで目ざとく見つけて布で拭うのに。
その日だけは、扉の手前でくるりと向きを変えたのです。
私は、床の上で首をかしげるように影を揺らしました。
廊下の先には、まだ見たことのない棟が伸びています。
窓は閉ざされ、カーテンも引かれたまま。
そこだけ、空気が少しだけ冷たく感じられました。
「……あちら側には、今はお部屋が使われておりませんで」
リーナさんは、少し言いよどみます。
それでも、私の影が気になっているのを感じたのでしょう。
小さく息を吸ってから、静かに続けました。
「前の奥様のお部屋があるのです」
前の奥様。
その言葉に、影がぴたりと止まりました。
公爵様の“亡くなられた奥様”のことは、契約のときに少しだけ聞きました。
けれど、それはあくまで言葉だけの話で。
この屋敷のどこかに、その人が暮らしていた部屋が、今も残っているのだと。
そう考えたのは、このときが初めてでした。
「公爵様のご意向で、当時のままにしてあります。
使用人は、許可なく近づかないように言いつけられていて」
リーナさんは、少しだけ寂しそうに笑います。
「だから、こちら側の廊下は、あまり人が通らないのです」
私は、扉の方へ伸びかけていた影を、そっと引き戻しました。
興味はあるけれど。
踏み込んではいけない場所が、この屋敷にもあるのだと知って。
胸の奥が、少しだけひやりとしました。
◇
それから数日後。
台所の隅で、私は偶然、亡き奥様の話を耳にしました。
影の姿になってから、音に耳を澄ませるのが上手くなった気がします。
床を掃くメイドたちの影の間を縫うようにして、私は壁際に寄り添っていました。
「前の奥様、本当にお優しい方だったんですってね」
「ええ。私が入った頃にはもう亡くなられていましたけれど……
昔から仕えている方の話を聞くと、そう思わずにはいられません」
メイド同士の小さな声が、湯気の向こうから届きます。
「公爵様が今でも指輪を外されないのも、納得ですわ。
氷の公爵と呼ばれる前は、もっとよく笑っていらしたそうですし」
「戦から戻られて、奥様を亡くされてから、すっかり……って」
「でも、あの優しさは変わっていないんでしょうね。
影のお姿の公爵夫人を迎えるくらいですもの」
そこで、私の影に視線を投げかける気配がしました。
ぎゅっと胸が縮まります。
「……しっ。聞こえますよ」
「ごめんなさい。でも、悪口じゃありませんから」
メイドたちは慌てて笑って、また仕事に戻りました。
私は、そっとその場を離れます。
彼らの言葉の一つひとつが、胸の中で重なっていきました。
優しい方だった、前の奥様。
今でも指輪を外さない、公爵様。
笑わなくなった、氷の公爵。
そして今、その人を失ったあとで迎えられた、「影の妻」の私。
それらをどう結びつければいいのか、まだ分かりませんでした。
ただ、何か大切なものに触れてしまいそうで。
影が、落ち着かずに揺れました。
◇
その日の午後。
私はひとりで、あの「使われていない棟」へと影を伸ばしました。
行ってはいけないと、誰かに言われたわけではありません。
でも、リーナさんの言葉の端々から、そこが“特別な場所”なのだということは、なんとなく伝わっていました。
廊下の窓から差し込む光を辿って、少しずつ進んでいきます。
人気のない廊下は、音がよく響きました。
遠くの方で、時計の刻む音が聞こえます。
私の影の他には、誰の気配もありません。
やがて、例の扉の前に辿り着きました。
重厚な木の扉。
取っ手には、ほこりひとつありません。
リーナさんが「掃除の必要はありません」と言ったわりには、驚くほど綺麗でした。
扉の下には、薄い影が一筋、伸びています。
廊下を照らす光が作る、当たり前の影。
なのに、私はそこに、もうひとつ別の気配を感じました。
扉の下の影が、どこか“二重”になっているように見えるのです。
私の影が近づくと、その影が、ごくごくわずかに揺れました。
風は吹いていません。
外の光も、特に変化はありません。
それでも、扉の向こう側から、誰かが小さく息を吐いたような気配がして。
私の影も、つられるように震えました。
扉一枚を隔てて、影と影が触れ合っている。
そんな、不思議な感覚。
もしかして、これが――
そこまで考えたところで、私は自分の影を引き戻しました。
これ以上、踏み込んではいけない気がしたからです。
見てはいけないものを、覗き込んでしまいそうで。
私は廊下の角まで下がり、壁の影に紛れました。
扉の前に残した感覚だけが、じんわりと胸に残ります。
◇
その日の夜。
廊下のランプが灯るころ、私は再び、あの棟へと影を伸ばしました。
昼間とは違い、光は柔らかく、影は濃くなります。
人の気配は、相変わらずありません。
ただ、ひとつだけ。
ゆっくりと近づいてくる、重い足音を除いて。
アークライト公爵様の影が、廊下の向こうから伸びてきました。
彼は、誰にも気づかれることなく、ひとりでその棟へ向かっていました。
私の影は、柱の影に身を潜めます。
覗き見るつもりなど、なかったはずなのに。
気づけば、視線を逸らせなくなっていました。
公爵様は、扉の前で立ち止まりました。
背筋は、いつも通りまっすぐです。
黒い軍服の肩が、ランプの光を受けて静かに光っていました。
彼はしばらく無言で、扉を見つめていました。
やがて、ゆっくりと手を伸ばします。
扉の表面に触れた指先は、普段、剣や書類に触れているときとはまったく別のものに見えました。
もっと慎重で、もっと弱くて。
壊してしまうことを、ひどく恐れている人の手。
「……すまない」
低い声が、静かな廊下に落ちました。
誰に向けられた言葉なのか、説明されなくても分かります。
扉の向こう側にいる、誰かに。
もうこの世にはいないはずの人に。
謝っているのだと。
その瞬間。
扉の下の影が、かすかに揺れました。
私の影も、それに共鳴するように震えます。
触れてはいけない場所に触れてしまったような。
それでも、目を閉じることができないような。
複雑な感情が、胸の奥で絡まり合いました。
公爵様は、しばらくの間、何も言わずに扉に手を置いていました。
その横顔は、いつもの冷静さに満ちたものと同じはずなのに。
ランプの影が作る陰影のせいでしょうか。
どこか、とても寂しそうに見えました。
「……まだ、もう少しだけ時間をくれ」
誰にともなく、そうつぶやきます。
その言葉の意味を、私はうまく理解できませんでした。
ただ、胸の奥が、きゅっと痛くなったのを覚えています。
公爵様にとって、本当に大切なひとは。
やはり、この扉の向こう側なのだと。
そう思ってしまったから。
◇
公爵様が去ったあとも、私はしばらく、その場から動けませんでした。
扉の下には、やはり二重の影が落ちています。
廊下の光が作る影と。
扉の向こうから、かすかににじみ出てくる「何か」の影。
私の影が近づくと、その「何か」は、そっと寄り添ってくるように感じられました。
冷たさと、あたたかさが入り混じった、不思議な感触。
まるで、誰かの手が「大丈夫」と言ってくれているようで。
けれど同時に、「ここから先には入ってこないで」とも言っているようで。
私は、影をその場に残したまま、心の中で問いかけました。
あなたは、公爵様の“奥様”なのですか。
私をここに導いたのは、あなたなのですか。
それとも、私はただの代わりに過ぎなくて。
あなたが守れなかったものを、埋め合わせるための駒に過ぎないのですか。
もちろん、答えが返ってくるはずはありません。
影同士が触れ合うだけで、言葉はどこにもありません。
それでも、扉の向こうの影は、私の影にそっと寄り添いました。
慰めにも、拒絶にも、どちらとも取れるその仕草が。
かえって、私の不安を掻き立てました。
私は、誰かの代わりなのだろうか。
呪いを調べるための“影”であって。
本当に愛されることなど、許されない存在なのではないか。
そんな考えが、胸の奥でゆっくりと膨らんでいきます。
でも、別の考えも、生まれ始めていました。
もし、この扉の向こうの影が、本当に奥様の「守護」なら。
彼女が最後に残した魔術が、私をここへ導いたのだとしたら。
私が公爵様の階段を支えたとき、背中を押してくれたのも。
もしかしたら、この人なのだとしたら。
私と公爵様の縁は、“代わり”なんかじゃないのかもしれません。
誰かが願って、繋いでくれたものなのかもしれない。
不安と、かすかな希望が、ぐるぐると頭の中を回ります。
影の輪郭も、それに合わせて複雑に揺れました。
◇
やがて、廊下のランプが少し暗くなり、夜も更けてきました。
私は、名残惜しさと恐ろしさの両方を抱えながら、扉の前から離れます。
青い絨毯の敷かれた自分の部屋へ戻る途中、何度も振り返りたくなりました。
けれど、それをぐっとこらえて、影を細く伸ばしました。
振り返ってしまったら、きっとあの扉に縛られてしまう気がしたからです。
自分の部屋の暖炉の火が見えたとき、ようやく少し息が楽になりました。
でも、胸の奥のざわめきは、まだ収まりません。
私は影のまま、窓辺まで伸びました。
外には、丸い月が浮かんでいます。
庭園の上に落ちる影が、静かに揺れていました。
この屋敷には、いくつもの影があります。
私の影。
公爵様の影。
使用人たちの影。
そして、扉の向こうに、まだ名前さえ知らない誰かの影。
影は、もうひとつの影を見つめていました。
届かない場所から、そっと手を伸ばすように。




