第7話 影の生活と侍女たち
朝だと気づいたのは、窓辺のカーテン越しに、光がじわりと伸びてきたからでした。
影の身になっても、太陽の動きだけは、はっきり分かります。
窓の向こうから差し込んだ光が、床の上をゆっくりと移動して、青い絨毯の上に私の影をくっきりと浮かび上がらせました。
「おはようございます、公爵夫人」
やわらかな声がして、カーテンが両側に開きます。
朝の光が一気に部屋に流れ込み、白い壁と、青い絨毯と、暖炉の上の花瓶を明るく照らしました。
窓辺に立っているのは、侍女長のリーナさんです。
今日もきちんとまとめた栗色の髪に、清潔なエプロンドレス。
笑うと、目尻が少しだけ下がるところが、見ていて安心します。
「ぐっすりお休みになれましたか? ……とお伺いしても、影のお姿ではお返事が難しいですね」
そう言いながらも、リーナさんは床に落ちた私の影に、きちんと会釈してくれました。
私は、影の輪郭を小さく揺らします。
ええ、多分、と。
ちゃんと眠れたかは分からないけれど。
少なくとも、地下室とは比べものにならないくらい、静かで、あたたかい夜でした。
「ふふ。動きで気持ちが分かるの、少し慣れてきましたよ」
リーナさんは楽しそうに笑いました。
「本日から、正式に“公爵夫人付き侍女”を拝命いたしました。
これからは、朝晩こうしてお部屋に伺いますね」
夫人付き。
そんな立派な侍女が、自分のためだけに動いてくれるなんて。
胸の奥が、じわりと熱くなりました。
私はもう一度、頭を下げるように影を揺らしました。
「さっそくですが、公爵夫人。影でも、身支度は必要ですよね」
さらりと、とんでもないことを言われて、影が跳ねます。
身支度。
影のままの私に、いったい何ができるのでしょうか。
「ドレスやアクセサリーをお召しになることは、今は難しいですけれど……」
リーナさんは、部屋の隅に積まれた布の束を広げました。
青、白、銀、淡い藤色。
色とりどりの布が、朝の光を受けて柔らかく光ります。
「お部屋を飾るものを選ぶのはいかがでしょう。
絨毯やカーテン、クッションの色を揃えれば、それはもう“公爵夫人の趣味”です」
なるほど、と納得してしまいました。
たしかに、私がドレスを着られない代わりに。
床や窓を飾ることなら、今の私にもできます。
それに、この部屋は、これから一年を過ごす場所です。
少しでも、自分らしいものを散りばめることができたら。
私の影は、布の方へするりと伸びました。
「では、こちらの深い青と……こちらの淡い銀。
どちらがよろしいですか?」
二枚の布を持ち上げて、リーナさんが尋ねます。
深い青は、公爵様の瞳の色に似ていて、落ち着いた印象。
淡い銀は、月の光みたいで、少しだけ心細い夜でも明るく見えそうです。
私は少し悩んでから、淡い銀の布の下に、そっと影を差し込みました。
布の影が、私の影の上にふわりと重なります。
その一瞬だけ、身体を柔らかな光で包まれたような気がしました。
「月光のお色ですね。
公爵夫人のお好み、素敵です」
嬉しそうにうなずくリーナさんを見て、影がほんのりと濃くなった気がします。
それは、多分、照れているのだと思いました。
◇
廊下の方では、別の“準備”も始まっていました。
私は部屋の扉の隙間から影を伸ばし、その様子をそっと見守ります。
広いホールに、使用人たちが集められていました。
料理人、メイド、庭師、馬丁。
それぞれの制服の影が、床一面に重なっています。
その前に立っているのは、執事のガイルさんでした。
「静粛に」
落ち着いた一声で、ざわめきがすっと消えます。
ガイルさんは、片手に持った帳簿を閉じました。
「本日より、アークライト公爵家には新たな“公爵夫人”がおられる」
その言葉に、使用人たちの間にざわりとした波が起こりました。
「えっ、公爵様が……」
「後妻を? でも、そんな話は……」
ひそひそとした声が、あちこちから漏れてきます。
ガイルさんは、それを一睨みで鎮めました。
「お声が大きい。
この件は、城下でもいずれ噂になるだろう。
だからこそ、屋敷の中での態度は、最初から徹底しておく必要がある」
静かな声なのに、誰一人逆らえない迫力がありました。
「公爵夫人は、お姿こそ“影”だ。
だが、公爵様が正式に迎えられた御方であることに変わりはない」
使用人の中から、戸惑いがちの声が上がりました。
「し、失礼を承知でお伺いしますが……
本当に、その……姿のない方に、私たちはどう接すれば」
「簡単なことだ」
ガイルさんは、一拍置いて言いました。
「姿があろうとなかろうとな。
主が『妻』と呼ばれる方には、敬意を払え。
無礼は、この家の恥だ」
ぴん、と張りつめた空気の中で、使用人たちの背筋が一斉に伸びていきます。
「たとえ床に落ちる影であっても、だ。
影を踏みつけにするような者がいれば、私が見逃さん」
その言葉に、私の影はひゅっと縮こまりそうになりました。
そんなことまで気にしてもらえるなんて、思っていなかったからです。
けれど同時に、胸の奥がじんわりと温かくなります。
ここには、私を守ろうとしてくれる人がいる。
影のままでも、守ろうとしてくれるひとが。
「以上だ。各自、いつも通り業務に戻れ」
ガイルさんの号令とともに、使用人たちは動き始めました。
私の影は、廊下の隅からそっと離れます。
知らないうちに、足元が少し軽くなっていました。
◇
「では、公爵夫人。屋敷をご案内しますね」
朝の身支度ならぬ“部屋支度”がひと段落すると、リーナさんがそう言いました。
「ずっと床にいらっしゃるだけでは、退屈でしょう?
影は光さえあれば、どこにでも行けますもの」
その言葉に、私はわくわくしてしまいました。
公爵様の屋敷には、まだ知らない場所がたくさんあります。
影としてでも、その中を歩けるのだと思うと。
私の輪郭は、自然と扉の方へ伸びていました。
「ではまずは、台所からいきましょうか。
おいしい匂いは、きっと影のおなかにもよく効きますよ」
リーナさんに先導されて、私は廊下の光を辿ります。
廊下のランプ、絵画、窓辺の鉢植え。
そのひとつひとつに、ちゃんと影がありました。
他の誰かの影と混ざりそうになりながら、私は自分の輪郭を保つように気をつけます。
曲がり角をいくつか過ぎて、広い扉の向こうに、賑やかな声と、温かな匂いが広がっていました。
「おお、リーナ嬢。
公爵夫人もご一緒かね?」
ひげを生やした料理長が、豪快な声で迎えてくれました。
鍋の湯気が、天井近くまで立ちのぼっています。
床の上には、いくつもの影が忙しなく動いていました。
私は、その足元にそっと紛れ込みます。
「こちらが、公爵夫人です」
リーナさんが、床を指さしてくれました。
料理長は、目を細くして私の影を見つめます。
「ほう……なるほど。
影だが、確かに“いる”な」
そう言って、彼はおおらかに笑いました。
「影夫人、今度、新しいスープの味見をしていただきたいもんですな。
感想が聞けるかどうかは分かりませんが、喜んでいただけたかどうかは、影の揺れで分かるかもしれん」
冗談めかした言葉に、周りの料理人たちもくすくすと笑います。
笑い声には、からかいではなく、どこか親しみのようなものが混じっていました。
私は、ありがとうと伝えるように、影を小さく揺らしました。
それを見た料理長が、満足そうにうなずきます。
「よし。明日からは、公爵夫人の分のスープも鍋に入れておこう。
影にも香りぐらいは届くだろう?」
届きます、と心の中で答えながら、私はその場を後にしました。
◇
次に案内されたのは、屋敷の奥にある図書室です。
高い天井まで届きそうな本棚が、壁一面に並んでいました。
革の装丁、布張り、古びた背表紙。
陽の差さない静かな部屋で、本たちが静かに眠っています。
「ここは、公爵様のお気に入りの場所のひとつです。
お仕事の合間には、よくここで本を読んでいらっしゃいますよ」
リーナさんの説明を聞きながら、私は本棚の影に紛れました。
一冊一冊に、かすかな文字の影が宿っています。
棚の中ほどに、見慣れた紋章が目に留まりました。
それは、遠い昔に読んだことのある恋物語と、同じシリーズの印でした。
幼いころ、母がまだ生きていた頃。
眠る前に、こっそり読み聞かせてくれた物語。
私は、その本の下に影を伸ばしました。
背表紙に触れることも、ページをめくることもできないけれど。
そこに寄り添っているだけで、少しだけ心があたたかくなります。
「その本、お好きなのですね」
リーナさんが、私の影の位置を見て言いました。
「公爵様も、あの物語はよく読んでいらっしゃいますよ。
戦の話ばかりでは、心が疲れてしまうのだそうです」
意外な一面を知って、影が跳ねました。
氷の公爵が、恋物語を読む。
その姿を想像したら、少しだけくすぐったいような、嬉しいような気持ちになります。
「今度、お二人で同じ本のお話ができるといいですね」
リーナさんが、そう言って微笑みました。
そんな日が、本当に来るのかどうかは分からないけれど。
もし来たら、きっと、素敵だろうなと思いました。
◇
最後に案内されたのは、庭園でした。
中庭に出る扉の隙間から、私は影のまま外へ伸びます。
昼間の庭は、思っていた以上に眩しかったです。
白い石畳、よく手入れされた芝生、色とりどりの花々。
太陽の光が強すぎて、足元の影が少しだけ薄くなります。
私の輪郭も、ところどころが透けるように揺らぎました。
「昼間のお庭は、影のお客様には少し厳しいですね」
リーナさんが、冗談めかして言います。
「でも、夜になると、とても素敵なんですよ。
月と星の光だけで浮かび上がる庭は、影の公爵夫人が一番輝ける場所です」
夜の庭。
想像しただけで、胸が高鳴りました。
月明かりの下なら、私の影も、もう少しはっきりと存在できるのかもしれません。
公爵様と、そこでまた出会える日が来るのだろうか。
そんなことを思いながら、私は一度、芝生の上に影を伸ばしてみました。
柔らかな草の影が、私の影と混ざり合います。
それだけでも、少しだけ心地よくて。
ここで夜を迎える日を、ひそかに楽しみにしようと思いました。
◇
一日が終わるころ。
部屋の暖炉には再び火が入り、青い絨毯の上にオレンジ色の光が落ちていました。
「今日は、いかがでしたか、公爵夫人」
リーナさんが椅子に腰掛けて、床を見つめます。
私は、嬉しいときの動き方を覚え始めた影を、ふるふると揺らしました。
台所の匂い。
図書室の静けさ。
庭の眩しさ。
その全部が、胸の中に鮮やかに残っています。
「ふふ。楽しんでいただけたなら、何よりです」
リーナさんは、ほっとしたように笑いました。
「この屋敷の者たちは、みんな少し不器用ですけれど、根は悪くありませんから。
きっとすぐに、公爵夫人のことを“ここにいて当たり前のひと”だと思うようになりますよ」
ここにいて当たり前。
その言葉が、ゆっくりと胸にしみ込みます。
「……それに」
リーナさんは、少しだけ顔を寄せて、声を落としました。
「ここはもう、お嬢様のおうちですよ」
おうち。
その一言に、胸がぎゅっと掴まれました。
エルグレイン家の屋敷で、私は一度もそんなふうに呼んでもらえませんでした。
家は“父のもの”で、“継母と妹のための舞台”で。
私にとっては、ただ息を潜めている場所でしかなかったのに。
影になってしまった今、初めて「おうち」と呼ばれる場所ができた。
そう思うと、絨毯の上に落ちた私の影が、じんわりと広がります。
暖炉の炎が、その輪郭をやさしく縁取りました。
影にだって、居場所があっていいのだろうか。
そんな問いが、ふと胸をよぎります。
すぐには答えの出ない問い。
それでも、今この瞬間だけは。
ここが私のいるべき場所だと、信じていたいと思いました。
青い絨毯の上で、私はそっと輪郭を整えました。
この屋敷での“影の生活”が、ようやく始まったのだと実感しながら。




