第6話 影のままの初夜
アークライト公爵家の屋敷は、思っていたよりも静かな場所でした。
重厚な扉が閉まるたび、空気が少しだけ揺れます。
けれど、怒鳴り声も、足音の洪水もない。
エルグレイン家とは、まるで別の世界でした。
◇
「リーナ、ガイル」
客間での契約のあと、公爵様は執事と侍女長を呼びました。
扉の外に控えていた二人が、すぐに姿を見せます。
銀色混じりの髪をきちんと撫でつけた執事と、柔らかな栗色の髪をまとめた侍女。
どちらも、きりっとした目をしていました。
「ご用でしょうか、公爵様」
「お呼びいただきありがとうございます」
彼らの視線が、自然と公爵様に向きます。
床の上の私には、一瞬も向きません。
見えていないのか。
見てはいけないと思っているのか。
小さな不安が胸をよぎったとき、公爵様が口を開きました。
「紹介する。彼女が、新しい公爵夫人だ」
椅子から立ち上がり、すっと手を伸ばします。
その指先が示した先は、床に落ちた私の影でした。
リーナさんと呼ばれた侍女長が、ぱちりと大きく瞬きをしました。
ガイルと呼ばれた執事も、わずかに眉を上げます。
驚くのは当然です。
そこにいるのは、ただの黒い影なのですから。
しん、とした空気の中で、私は影のまま、そっと揺れました。
ここにいます、と。
しばらくの沈黙のあと、一番最初に動いたのはリーナさんでした。
彼女はスカートの裾を上品に摘み、床に向かって丁寧にお辞儀をしました。
「侍女長のリーナと申します、公爵夫人。
至らぬところも多いかと存じますが、どうぞよろしくお願いいたします」
夫人。
はっきりとそう呼ばれて、胸が強く波打ちました。
影が、反射的にぴくりと跳ねます。
その揺れを見て、リーナさんはほっとしたように微笑みました。
ガイルさんも、静かに胸に手を当てて会釈します。
「執事のガイルでございます。
お姿のありようがいかに特別でも、公爵様が“公爵夫人”とお呼びになる方。
私どもは、心を尽くしてお仕えいたします」
ひとつひとつ、言葉を選ぶような口調でした。
拒絶も、嫌悪も、そこにはありません。
影のままの私に向けられた、まっすぐな敬意。
それが嬉しくて、同時に、申し訳なさで胸がいっぱいになりました。
私は影を細くし、頭を下げたつもりで、床の上で揺れました。
「……理解が早くて助かる」
公爵様は小さく頷きました。
「事情は追って説明する。ひとまず、彼女の居場所を整えてやれ。
影のままではあるが、客人であり、私の妻だ」
その言い方が、あまりにも自然で。
まるで、これまで何度もこうして誰かを迎えてきたような声で、公爵様は言いました。
実際には、きっと初めてなのでしょうけれど。
◇
その日のうちに、私用の部屋が用意されました。
窓が大きく、昼間は陽がよく入る、明るい一室。
壁は淡いクリーム色で、床には厚手の絨毯が敷かれています。
「本当は、ふかふかのベッドをご用意したのですが……」
リーナさんが、少し困ったように笑いました。
ベッドの上には、真新しいシーツと、ふわりとした掛け布団。
けれど、そこに横たわることのできる体は、もうありません。
「すみません、公爵夫人。
“眠る”ということが必要かどうかも、まだ分からなくて」
申し訳なさそうな声に、私の影は慌てて首を振るように揺れました。
謝るのは、きっと私の方です。
せっかく用意してもらったのに、何ひとつ使えないなんて。
そんな私の揺れを見て、リーナさんの表情が少し和らぎました。
「でも、床が冷たいのは良くありませんね。
公爵様がおっしゃっていた通り、絨毯はもっと厚手のものに替えましょう」
「必要ない」
思わず否定しかけたところで、低い声が割り込みました。
部屋の入口に、公爵様が立っていました。
「薄いものを使い回すな、という意味だ。
ここは、彼女の部屋だ。足元は柔らかい方がいい」
足元。
影に足があるのかどうかもよく分かりませんが、その心配が嬉しくてたまりません。
ガイルさんが静かに頷きます。
「では、奥の倉から冬用の厚手のものを運ばせましょう。
色合いは、公爵夫人のお好みに合わせて」
好みと言われても、今の私は、自分の輪郭さえままならないのに。
戸惑っていると、公爵様の視線が床をなぞりました。
「ルミナ。君は青と白、どちらが好きだ」
突然の問いかけに、影がびくりと跳ねます。
青と白。
夜会で着るはずだったドレスの色が、頭に浮かびました。
本当は、淡い青がいいと、こっそり思っていたのです。
でも継母は、「あなたには似合わない」と言って、くすんだ色ばかりを選びました。
私は、青の方を思い浮かべます。
すると、影が窓際へ、するりと伸びました。
レースのカーテン越しに見える空の色に、触れたくて。
公爵様は、その動きを見て、わずかに口元を緩めました。
「青だな。ならば青系統の絨毯にしろ。
白は、もう雪で見飽きている」
「承知いたしました」
ガイルさんが静かに返事をし、足早に部屋を出ていきます。
リーナさんも続こうとして、振り返りました。
「公爵夫人。何か必要なものがありましたら、いつでもお呼びくださいね。
影のお姿でも、お声が出なくても、きっと方法は見つけますから」
その心強い言葉に、私は影を小さく揺らしました。
ありがとう、と。
リーナさんは、それをちゃんと「感謝」として受け取ってくれたようでした。
◇
夜になると、屋敷の雰囲気はさらに静かになります。
廊下に灯ったランプが、床に細い光の帯を落としました。
私の部屋の暖炉には火がくべられ、絨毯の上には柔らかな明かりが揺れています。
厚手の青い絨毯。
さっき運び込まれたばかりのそれは、足元に落ちる影を少しだけ淡くしました。
絨毯の上にいると、地下の石よりも、街路の石畳よりも、ずっと安心できます。
影にとって「眠る」という感覚は、まだよく分かりません。
でも、意識を少しだけ手放して、揺れをおさめると。
世界の音が、ゆっくりと遠のいていきます。
それを「休む」と呼んでもいいのだとしたら。
私は今、ようやく休み方を覚え始めたところでした。
◇
その夜、どれくらい時間が経ったころでしょうか。
扉の隙間から、細い光が差し込みました。
廊下のランプが、丁寧に灯されている気配。
足音は、とても静かでした。
私は、無意識のうちに、影を扉の方へ伸ばしていました。
床の上の光を辿り、隙間から廊下へ。
夜の廊下は、昼間とはまた違った顔を見せます。
高い天井。
絵画の影。
窓の外には、まあるい月。
ランプの下を通り過ぎていく黒い影が、一つ。
アークライト公爵様の影でした。
彼は、ゆっくりと廊下を歩いていました。
寝間着ではなく、昼間と同じ黒い服。
手には何も持たず、ただ、屋敷の中を見回るように歩いています。
夜の見回り。
誰かに命じられたわけではなく、ただ自分の癖として、毎晩こうしているのだとしたら。
少しだけ、胸が締め付けられました。
眠れない夜を、いくつも越えてきた人の歩き方でした。
私は、廊下のランプの下で、そっと影を広げました。
彼の影と重なりたくて。
ランプの真下で、二つの影がぴたりと重なります。
その瞬間。
胸の奥に、微かな重さが生まれました。
誰かの隣に並んだときの、あの感覚。
ひとりではない、と告げられるような、温度。
影なのに。
体の輪郭なんてないのに。
確かに、そこに「誰か」がいると、全身で感じました。
「……君か」
足元を見下ろしながら、公爵様が小さくつぶやきました。
影を通して、彼の声が近くに響きます。
それだけで、鼓動が早くなるのを感じました。
彼は立ち止まり、少しだけ足を開いて、バランスを確かめるような仕草をしました。
「影のままでも、落ち着かない夜というのはあるか」
独り言のような問いかけ。
私は、影をふるふると揺らして答えました。
あります、と。
だって、今日からの生活が不安で。
嬉しくて。
怖くて。
いろいろな気持ちが、胸の中で暴れているのです。
公爵様は、小さく笑ったように見えました。
「そうか。ならば、歩き回る癖も、そのうち似てくるかもしれないな」
そんな冗談めいたことを言って、再び歩き出そうとしたそのときでした。
◇
廊下の先に、緩やかな階段があります。
公爵様が踵を返し、階段を降りようと足を向けた瞬間。
かすかな軋みとともに、彼の足元がわずかに滑りました。
疲れと、少しの油断。
ほんの一歩、踏み外しかけただけ。
けれど、その一歩が大きな怪我につながることを、戦場を知らない私でも直感しました。
考えるより先に、影が動いていました。
私は、階段の先へ、飛び出すように伸びました。
公爵様の影の前へ回り込み、両手を広げるように形を変えます。
影が重なり合った瞬間。
ご、と、何かが押し返されるような手応えがありました。
現実には、私は何もしていないのかもしれません。
それでも、公爵様の体が前のめりになるのをやめ、足元が持ち直したのが分かりました。
一段踏み外すはずだった足が、ぎりぎりのところで段差を捕まえます。
彼の影の背中のあたりに、私の影が重なりました。
まるで、背中に手を添えるように。
公爵様は、息を吐きました。
「……危ないところだった」
ゆっくりと姿勢を立て直し、足元を見下ろします。
階段の角に、わずかに削れた石。
その上に、揺れ合う二つの影。
「今のは」
公爵様の灰色の瞳が、影を見つめました。
しばらく黙っていたあと、小さく首を振ります。
「いや。気のせい、ではないな」
彼は、階段から一歩離れました。
そして、誰にも聞こえないくらいの声で言いました。
「確かに今、君が私を押し戻した」
その言葉に、影が大きく揺れました。
偶然かもしれないのに。
私のせいでふらついたのかもしれないのに。
それでも、公爵様は「助けられた」と受け取ってくれたのです。
「……助かった」
短い、けれどはっきりとした感謝の言葉。
その二文字が、胸の奥にしみ込んでいきました。
影が、どうしようもなく震えます。
公爵様は、その揺れを見て、ほんの少しだけ唇の端を上げました。
「礼を言われて喜ぶのは、影でも同じらしい」
淡々とした声。
けれど、そこにはかすかなあたたかさがありました。
「もう遅い。君も、できるだけ休め。
ここは君の部屋で、君の屋敷だ。遠慮は要らない」
そう言って、公爵様は再び廊下を歩き出しました。
今度は足取りも安定していて、階段を安全に下りていきます。
私は、青い絨毯の上へと影を引き戻しました。
胸の奥が、まだどきどきしています。
さっきの感覚を、何度も思い出しました。
誰かの背中を支えた感覚。
滑り落ちそうな足を押し戻した感覚。
今の私は、影です。
触れることも、掴むことも、抱きしめることもできません。
それでも、確かに一瞬、私は誰かの役に立てたのだと。
そう思わせてくれる出来事でした。
◇
影になってから、ずっと「守られる側」としてしか生きられないのだと、どこかで思っていました。
手も、足も、声もない。
できることなんて、何ひとつないのだと。
けれど、あの階段の角で。
ほんの少しだけ、「支える側」になれた気がしました。
初めて、誰かを支えられた気がした。
その事実だけが、長い夜の間じゅう、私の影を静かに温めてくれていました。




