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婚約破棄された“影だけの令嬢”は、氷の公爵に拾われ溺愛されています  作者: しげみちみり


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第5話 契約と一年の期限

 目を開けた瞬間、天井が見えました。


 粗い石の天井ではなく、白く塗られたなめらかな天井です。

 中央には、まだ灯りの入っていないシャンデリアが吊られていました。


 揺れる燭台の青白い炎も、湿った冷気もありません。


 地下室ではない。


 そこまで理解したところで、私はようやく、自分が「どこ」にいるのかを考え始めました。


 体を起こそうとして、動かないことに気づきます。


 腕も、足も、背中も。


 冷たい床に触れる感覚もない。


 あるのは、視線だけ。


 ゆっくりと、下を見るように意識を向けると、床に黒い影が落ちているのが見えました。


 ベッドの影でも、椅子の影でもありません。


 細い腕と、長い髪の輪郭を持った、女の人の影。


 それが、私でした。


「夢じゃ、ないんだ……」


 声にならない声が、胸の中でこぼれます。


 婚約破棄。

 地下室。

 黒い紋様。


 影になってしまった自分。


 全部、悪い夢ならよかったのに。


 そう願ったところで、床に貼りついた自分の輪郭は消えてくれません。


「目が覚めたか」


 落ち着いた低い声が、すぐ近くから聞こえました。


 視線を向けると、窓辺近くの椅子に、一人の男の人が腰掛けていました。


 黒い軍服のような上着。

 長い脚を組み、背もたれに軽くもたれて、こちらを見下ろしています。


 灰色の瞳。

 夜会のときに見た横顔と、路地で見下ろされたときの影。


 氷の公爵アークライト・ヴァレンティン公爵。


 彼の名を思い浮かべた瞬間、胸の奥がひゅっと縮みました。


 怖い、というよりは。


 あまりにも自分とは違う世界の人で、近づき方が分からない、という感覚でした。


「……反応はあるようだな」


 公爵様は、わずかに目を細めました。


 彼の視線が、床に落ちた私の影に向きます。


 私は、体を動かす代わりに、輪郭をふるふると震わせました。


 ここにいる、と伝えたくて。


 公爵様は、小さく息を吐きました。


「まずは、状況を整理しようか。ここは私の屋敷だ。君は今、その客間の床にいる」


 客間。


 確かに、視線を巡らせれば、壁には淡い色の壁紙が張られ、窓には繊細なレースのカーテンがかかっています。


 暖炉には火が入れられ、炎の赤い揺らめきが床の上に光と影を落としていました。


 その中に、私の影が紛れ込んでいます。


「地下に放っておくには、君は少々、気になる存在だったのでね」


 淡々とした口調。


 私のせいで、迷惑をかけているのだろうか。


 そんな不安が胸に浮かび、影が小さく縮こまりました。


「……怖がらせたいわけではない」


 公爵様は、少しだけ声の調子を和らげました。


「名は。君の名は何と言う」


 名。


 ルミナ、と答えようとして、気づきます。


 私はもう、声を出せないことを。


 それでも、心の中で、はっきりと自分の名前を呼びました。


 ルミナ・エルグレイン。


 石畳の上で何度も繰り返した、たったひとつの名前。


 床に落ちた影が、少しだけ伸びました。


 まるで、その名前に手を伸ばすみたいに。


 公爵様の指先の甲が、かすかに光った気がしました。


 右手に刻まれた雪の紋章が、弱く、銀色を帯びます。


「……ルミナ、か」


 その名を、彼は自然に口にしました。


 胸の奥が跳ねます。


 どうして分かったの、と問いかけたくても、言葉になりません。


 公爵様は、窓の外に一度視線を逸らし、すぐに戻しました。


「少々、変わった加護を持っていてね。影の“さざめき”くらいなら、読むことができる」


 さざめき。


 私の名前や、揺れた感情が、さざなみみたいに彼に届いているのだとしたら。


 恥ずかしくて、ありがたくて、泣きたくなりました。


「ルミナ。率直に言おう」


 公爵様は、組んでいた足をほどき、前屈みになりました。


 灰色の瞳が、炎に照らされて少しだけ柔らかく見えます。


「君は呪われている」


 静かな声で、残酷な事実を告げられました。


 胸の奥が、ひどく冷たくなります。


「このまま放置すれば、いずれ影ごと薄れ、消える。誰も君を思い出さなくなり、存在した痕跡さえ残らない」


 地下室で聞いた言葉。

 使用人たちの「そんな人、いたかしら」という声。


 全部が、ひとつにつながっていきました。


 私は床の上で、影の輪郭をぎゅっと縮めました。


「……だが、その呪いは、放っておくには惜しい」


 公爵様は、ほんのわずかだけ目元を細めました。


「影だけを切り離すなど、高度で、悪質な術だ。誰が、何のために、どこまで計算してかけたのか。調べる価値がある」


 興味、という言葉が、頭に浮かびました。


 それだけ聞くと、まるで私は、奇妙な標本みたいです。


 でも、公爵様は続けました。


「そしてなにより。路地に貼りついていた君は、まだ『消えたい』とは思っていなかった」


 路地。

 夕暮れ。


 ここで消えてしまうなら、それでもいいかもしれない、と一瞬思ったこと。


 でも本当は、怖くて、自分の名前を必死に握りしめていたこと。


 その全部を見透かされているようで、影が震えました。


「だから、拾った」


 それだけだ、と言うように、公爵様は肩をすくめました。


 拾った。


 物を拾うみたいな言い方なのに、不思議と嫌な響きではありません。


 路地に捨てられていた私に、わざわざ手を伸ばしてくれたのは、この人だけだから。


「そこで、提案がある」


 公爵様は、椅子の背にもたれ直しました。


「君と私で、契約を結ぶ」


 契約。


 その言葉に、影がぴん、と立つような感覚がしました。


「一年間だ」


 公爵様は、ためらいなく数字を口にしました。


「一年のあいだ、君はアークライト公爵家の後妻として振る舞う。影のままではあるが、呼び名も立場も“妻”だ」


 妻。


 あまりにも重い言葉に、思考が一瞬止まりました。


「もちろん、これは形だけのものだ。君の実体はここにはない。触れることもできない」


 公爵様は淡々と続けます。


「だが、周囲への体裁というものがある。私の屋敷に“訳ありの影”が住み着いていると知られれば、余計な詮索を呼ぶ」


 確かに、その通りです。


 影だけの存在になってしまった私を、ただ「拾った」と言い訳するのは難しいでしょう。


「だから、君は私の妻。戦で伴侶を失った公爵が、ひっそりと後妻を迎えた。そういうことにする」


 さも簡単な話のように言われて、眩暈がしそうになりました。


 氷の公爵の妻。


 婚約破棄されたばかりの、影の令嬢が。


「その一年のあいだに、私は君の呪いを調べる。原因を突き止め、解き方を探る」


 暖炉の炎が、ぱち、と音を立てました。


 公爵様の横顔に、赤い光が揺らめきます。


「もし一年のうちに呪いが解けたら、そのときは君に選ばせよう。正式に私の妻としてここに残るか、自由を受け取ってこの屋敷を去るか」


 選ぶ。


 さっき、「生きるか、消えるかを選べ」と言われたばかりなのに。


 今度は、「誰のそばにいるか」まで選べるのだと言われて。


 胸の奥が、ずきずきと痛くなりました。


「……そして」


 公爵様は、一瞬だけ視線を伏せました。


「もし一年のあいだに呪いが解けず、影が完全に消えてしまうなら」


 暖炉の炎が、少しだけ弱まります。


「そのときは、君が苦しまないように、できるかぎりの手を尽くす。呪いをかけた連中への“礼”も含めてな」


 「礼」という言葉に、底冷えのするような響きがありました。


 でも、それは私に向けられたものではありません。


 地下室で笑っていた継母や、私を「愚かな娘」と切り捨てた父。

 その姿が、頭に浮かびました。


 公爵様は、私を利用しようとしているのかもしれません。


 呪いに興味があるから。

 誰かの悪意を暴きたいから。


 そして、彼自身が背負っている何かと向き合うために。


 それでも。


 路地の石畳で、誰にも気づかれないまま消えていくよりは。

 一年でも、誰かのそばにいて、名前を呼んでもらえる方がいい。


 一年が、長いのか短いのか、今の私には分かりません。


 でも、その一年の中に、少しでも「自分の選んだ時間」を詰め込めるのなら。


 影の輪郭が、小さく揺れました。


 私は、受け入れます、と。


 そんな気持ちを込めて。


 公爵様は、その揺れをじっと見ていました。


「……承諾と、受け取っていいか」


 問いかけに、もう一度、大きく揺れます。


 影が、膝を折って頭を下げるような形に変わりました。


 公爵様の口元が、ほんの少しだけ和らぎます。


「契約成立だ。ルミナ」


 丁寧に、私の名を呼びました。


「今日から君は、アークライト公爵家の妻だ。一年限定の、契約だがな」


 妻。


 その響きが、何度も胸の中で反芻されました。


 侍女たちの声が、部屋の外から近づいてきます。


「アークライト様。お呼びでしょうか」


「入れ」


 公爵様が短く答えると、扉が開きました。


 数人の侍女と、執事らしき年配の男性が入ってきます。


 彼らの視線が、一斉に床の影に向きました。


 見えているのか、いないのか。


 息を詰める私に、公爵様は静かに言いました。


「紹介しよう。彼女はルミナ。今日からこの屋敷の女主人だ」


 あまりにもまっすぐな言い方に、侍女たちが目を丸くしました。


「お、お屋敷の……奥様、でいらっしゃいますか」


「ああ。形は少しばかり変わっているがな」


 公爵様は、わざと軽い調子を装うように肩をすくめました。


「覚えておけ。彼女は影だが、物ではない。無礼があれば、私が許さない」


 穏やかな口調なのに、有無を言わせない圧がありました。


 侍女たちは慌てて頭を下げます。


「は、はいっ。ルミナ様……よろしくお願いいたします」


 ルミナ様、と呼ばれて、影が思わず震えました。


 侯爵家では一度も呼ばれなかった、敬意を含んだ呼び方。


 ここでは、影であっても「様」をつけて呼んでもらえるのだと知って。


 胸の奥に、少しだけ暖かいものが灯りました。


「彼女の居場所を整えろ。床だからといって、粗末な石のままにしておくな。絨毯を敷き、陽当たりのいい場所を用意してやれ」


 公爵様の指示に、執事が静かに頷きました。


「かしこまりました。影でも快適に過ごせるよう、配慮いたします」


 影でも快適に。


 そんな言葉が出てくるなんて、想像もしていませんでした。


「ルミナ。君自身にも、選んでもらうことはいくつかある」


 侍女たちに向かっていた視線を、再び床に戻し、公爵様は続けます。


「暖炉のそばがいいのか、窓辺がいいのか。夜は月の光がよく入る場所もある。絨毯の柄も、君に似合うものを選べ」


 笑ってしまいそうになりました。


 私には、もう体がありません。

 ドレスを着ることも、アクセサリーを身につけることもできません。


 なのに、公爵様は、影の私に「居場所」と「似合う柄」を用意しようとしている。


 そんな発想をする人が、この世界にいるのだと知って。


 涙を流せるのなら、きっと泣いていたと思います。


「……いいか。ルミナ」


 公爵様は、少しだけ声を低くしました。


「ここでの君は、客人だ。私の妻であり、守るべき存在だ。二度と、自分を“処分される側”だと思うな」


 処分。


 父が使った言葉が、胸の奥によみがえります。


 あのときと、今。


 似たような重い言葉なのに、意味はまるで違いました。


 影が、暖炉の光に照らされて、ゆっくりと膨らみました。


 それは、私の中で何かが少しずつほどけていく音にも似ていました。


     ◇


 こうして私は、捨てられた家の「いらない影」ではなく。


 氷の公爵の屋敷で、一年だけ与えられた居場所を持つことになりました。


 彼の足元に寄り添う、ひとつの影として。


 そして一年後、私は本当に消えてしまうのか、それとも――。


 その答えは、まだ誰にも分かりません。


 けれどこのときの私は、未来のことを考える余裕などなくて。


 とにかく、今ここにある暖かさと、「ルミナ」と呼ばれた喜びだけを、必死に抱きしめていました。


 こうして私は、影のまま、彼の妻になった。

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