第4話 氷の公爵アークライト
あとになってから聞いた話だけれど、あのとき公爵様は、王城での長い会議を終えた帰りだったらしい。
貴族たちの駆け引きと、辺境で続く小さな戦の報告。
誰かの犠牲の上に成り立つ、きれいごとだけの和平案。
そういうものに、ひどくうんざりしていたのだと。
「二度と誰も、背負わない」
そんなことを、心の中で繰り返しながら、馬車の中で目を閉じていたのだと、公爵様はあとで静かに教えてくれました。
けれど、そのときの私は、それを知りません。
ただ、路地の石畳に貼りついた黒い影として、世界を見上げているだけでした。
◇
ひづめの音が、近づいてきます。
石畳を踏む重い音と、車輪のきしむ音。
さっきまで静かだった路地に、ふたたび世界の気配が流れ込みました。
夕陽が作る長い影の中を、黒い馬車がゆっくりと進んできます。
その影が、わたしの上に重なりかけた瞬間。
馬が、ぴたりと足を止めました。
「どうした」
低く落ち着いた声が、馬車の中から聞こえます。
氷に覆われた湖面みたいな、冷たい響き。
けれど、不思議と耳に心地よい声でした。
「も、申し訳ありません、公爵様。急に足を止めまして……何かを怖がっているようで」
御者の慌てた声。
馬のひづめが、わたしの影の手前で地面をかき、落ち着きなく揺れます。
まるで、「ここから先には踏み込んではいけない」と言っているみたいに。
「……公爵様」
「待て」
短い言葉で、全てを制するような声でした。
やがて、馬車の扉が軋む音がします。
黒いマントの裾が揺れ、長い影が石畳の上に伸びました。
その影が、わたしの影とぴたりと向かい合って止まります。
目線を上げると、そこに一人の男の人が立っていました。
高い背丈。
夜の闇みたいな黒髪。
夕陽を受けた横顔は、整っているのにどこか冷たくて、近づきがたい雰囲気をまとっています。
灰色の瞳が、まっすぐに地面を見下ろしていました。
その視線の先にいるのが、わたしだと気づいた瞬間、胸が強く波打ちます。
誰も気づかなかったのに。
誰も見てくれなかったのに。
この人だけが、わたしを見ている。
「……人の形をした影、か」
小さくつぶやくような声。
その言葉で、わたしは初めて、自分の輪郭を意識しました。
石畳の上に貼りついた影は、確かに人の形をしていました。
両腕を落とし、うずくまるような姿勢で。
それが、今のわたしの姿です。
男の人は、しばらく黙ってわたしを見つめていました。
冷たい灰色の瞳なのに、その奥に、薄い疲労と、言葉にしにくい優しさのようなものが宿っています。
胸の奥で、何か懐かしいものに触れられたような気がしました。
「やはり、見えるのは私だけか」
誰にともなく、彼はつぶやきました。
「守りが、また騒いでいる」
守り、と言うとき、彼はほんの少しだけ顔をしかめました。
その言葉の意味は分かりません。
でも、彼の右手の甲が、淡く光ったのは見えました。
雪の結晶みたいな、小さな紋章。
それが、一瞬だけ銀色にきらめいて、すぐに消えます。
「公爵様?」
御者が、おそるおそる声をかけました。
公爵様――その呼び名に、わたしの胸がまた跳ねます。
この人が、噂に聞く「氷の公爵」なのだと、すぐに察しました。
辺境の戦場をいくつも渡り歩き、冷徹な采配で敵味方を震え上がらせる男。
けれど民の前では、決して無意味な流血は許さないとも聞きます。
恐れられ、同時に敬われる人。
遠い噂話でしか知らなかったその人が、今、わたしを見下ろしている。
「少し待て。すぐに済む」
公爵様は御者にそう告げると、ゆっくりと片膝をつきました。
黒いマントが、石畳の上に広がります。
淡い香木の匂いが、わずかに鼻をくすぐりました。
彼の手が、わたしの影の上にかざされます。
大きくて、節のある手。
戦場で剣を握ってきた人の手だと、一目で分かりました。
なのに、その動きは驚くほど静かで、丁寧でした。
「ここで、消えるつもりなのか」
問いかける声は、冷たくも優しくもなく、ただ淡々としていました。
それでも、不思議と胸に響きます。
答えたい。
わたしは、影のまま、必死に輪郭を震わせました。
ここで消えたいと、思った瞬間も確かにありました。
でも、本当は、まだ怖い。
名前も、記憶も、誰かとの約束も、全部なくしてしまうのが。
影が、小さく、震えます。
公爵様の灰色の瞳が、それをじっと見つめました。
「……そうか」
短い吐息とともに、彼はわずかに目を細めました。
「まだ、消えるには早すぎる」
その言葉に、胸がきゅっとなります。
早すぎる。
そんなふうに言ってもらえたのは、生まれて初めてでした。
これまでのわたしは、いつも「遅すぎる」「足りない」「もう間に合わない」と叱られてばかりで。
公爵様は、ゆっくりと息を吸い込みました。
「行き先ぐらい、自分で選ぶといい」
そう言って、手のひらをわたしの影に近づけます。
その瞬間、冷たい何かが、わたしの輪郭に触れました。
氷水に指先を入れたときのような、ひやりとした感覚。
なのに、その奥に、微かな温もりも感じます。
公爵様の影が、ゆっくりと動きました。
彼の足元に落ちた影が、わたしの影と重なり、その境目が溶けるように滲んでいきます。
「……っ」
世界が、少しだけ傾きました。
石畳に貼りついていたはずのわたしが、ゆっくりと引き上げられていく感覚。
冷たい水の底から、光の差す方へと浮かび上がるような。
怖いのに。
同時に、どうしようもなくほっとしている自分もいました。
影と影が重なり合い、やがて、境目が見えなくなります。
公爵様の右手の紋章が、ふたたび淡く光りました。
雪のような銀色の光が、わたしの周りを一瞬だけ包みます。
その光の中で、誰かの気配を感じました。
優しくて、少し寂しそうで。
どこか、懐かしい気配。
「あなたが……導いているのか」
公爵様が、小さく誰かに問いかける声。
けれど、その問いに答える声は聞こえません。
光が消えると、わたしはもう、石畳の上にはいませんでした。
代わりに、公爵様の足元に落ちる影の中に、溶け込んでいました。
御者が、おそるおそる声をかけます。
「公爵様……いかがなさいましたか」
「拾い物だ」
公爵様は立ち上がり、マントの裾を払いました。
「拾い物、でございますか」
「そうだ。捨てた側には、後で相応の礼をしてやらねばな」
その言葉には、氷よりも冷たい響きがありました。
怒鳴り声ではなく、感情を押し殺した静かな声なのに。
聞いているだけで、背筋がひやりとします。
エルグレイン家の名が、頭の中に浮かびました。
でも、不思議と、怖いだけではありません。
あの家にされたことを思い出したときに胸を締め付けた苦しさが、少しだけほどけていく気がしました。
「行き先を変更する。公爵邸へ戻る」
「かしこまりました」
御者が手綱を引くと、馬は先ほどの怯えが嘘のように、大人しく従いました。
馬車の扉が開き、公爵様が中に乗り込みます。
その影の中に、わたしも一緒に連れて行かれました。
◇
暗闇の中に、わたしは浮かんでいました。
目を閉じているのか、開いているのかさえ分からない世界。
それでも、さっきまでの冷たい石畳よりは、ずっと柔らかく感じます。
しばらくして、かすかな揺れとともに、馬車が走り出しました。
車輪の音が、遠くで響きます。
その音の向こうから、低い声がしました。
「聞こえるか」
氷の公爵様の声でした。
暗闇の中で、その声だけがはっきりと届きます。
「名は」
問いかけられて、わたしは慌てて自分の名前を探しました。
さっき路地で必死に繰り返した名前。
全部忘れてしまわないようにと、ぎゅっと握りしめていた、たったひとつの言葉。
「……ルミナ」
声になったのかどうかは分かりません。
それでも、公爵様は小さく息を吐きました。
「ルミナ」
その名を、丁寧に繰り返します。
「いい名だ」
その一言だけで、胸の奥が熱くなりました。
誰かに、自分の名前を肯定してもらったことなど、今まで一度もなかったのに。
「君はもう一度、選び直せばいい」
落ち着いた声が続きます。
「消えるか、生きるかを」
暗闇の中で、その言葉だけが、光みたいに明るく響きました。
消えるか。
生きるか。
選べるのだと、初めて知りました。
今までは、誰かに決められた道をただ歩くだけで。
嫌でも、怖くても、従うしかないと思っていたのに。
心のどこかで、小さな声がしました。
生きたい。
まだ世界は怖いけれど。
誰かにまた裏切られるかもしれないけれど。
それでも、「もう一度」をくれたこの人の言葉に、応えたいと思いました。
だから、胸の奥で、はっきりと答えます。
生きたい、と。
その瞬間、暗闇がほんの少しだけ明るくなった気がしました。
馬車は、氷の公爵の屋敷へ向かって、静かに走り続けます。
わたしの知らない、新しい世界へと。




