表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された“影だけの令嬢”は、氷の公爵に拾われ溺愛されています  作者: しげみちみり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/20

第4話 氷の公爵アークライト

 あとになってから聞いた話だけれど、あのとき公爵様は、王城での長い会議を終えた帰りだったらしい。


 貴族たちの駆け引きと、辺境で続く小さな戦の報告。

 誰かの犠牲の上に成り立つ、きれいごとだけの和平案。


 そういうものに、ひどくうんざりしていたのだと。


「二度と誰も、背負わない」


 そんなことを、心の中で繰り返しながら、馬車の中で目を閉じていたのだと、公爵様はあとで静かに教えてくれました。


 けれど、そのときの私は、それを知りません。


 ただ、路地の石畳に貼りついた黒い影として、世界を見上げているだけでした。


     ◇


 ひづめの音が、近づいてきます。


 石畳を踏む重い音と、車輪のきしむ音。

 さっきまで静かだった路地に、ふたたび世界の気配が流れ込みました。


 夕陽が作る長い影の中を、黒い馬車がゆっくりと進んできます。


 その影が、わたしの上に重なりかけた瞬間。


 馬が、ぴたりと足を止めました。


「どうした」


 低く落ち着いた声が、馬車の中から聞こえます。


 氷に覆われた湖面みたいな、冷たい響き。

 けれど、不思議と耳に心地よい声でした。


「も、申し訳ありません、公爵様。急に足を止めまして……何かを怖がっているようで」


 御者の慌てた声。


 馬のひづめが、わたしの影の手前で地面をかき、落ち着きなく揺れます。


 まるで、「ここから先には踏み込んではいけない」と言っているみたいに。


「……公爵様」


「待て」


 短い言葉で、全てを制するような声でした。


 やがて、馬車の扉が軋む音がします。


 黒いマントの裾が揺れ、長い影が石畳の上に伸びました。


 その影が、わたしの影とぴたりと向かい合って止まります。


 目線を上げると、そこに一人の男の人が立っていました。


 高い背丈。

 夜の闇みたいな黒髪。


 夕陽を受けた横顔は、整っているのにどこか冷たくて、近づきがたい雰囲気をまとっています。


 灰色の瞳が、まっすぐに地面を見下ろしていました。


 その視線の先にいるのが、わたしだと気づいた瞬間、胸が強く波打ちます。


 誰も気づかなかったのに。

 誰も見てくれなかったのに。


 この人だけが、わたしを見ている。


「……人の形をした影、か」


 小さくつぶやくような声。


 その言葉で、わたしは初めて、自分の輪郭を意識しました。


 石畳の上に貼りついた影は、確かに人の形をしていました。

 両腕を落とし、うずくまるような姿勢で。


 それが、今のわたしの姿です。


 男の人は、しばらく黙ってわたしを見つめていました。


 冷たい灰色の瞳なのに、その奥に、薄い疲労と、言葉にしにくい優しさのようなものが宿っています。


 胸の奥で、何か懐かしいものに触れられたような気がしました。


「やはり、見えるのは私だけか」


 誰にともなく、彼はつぶやきました。


「守りが、また騒いでいる」


 守り、と言うとき、彼はほんの少しだけ顔をしかめました。


 その言葉の意味は分かりません。

 でも、彼の右手の甲が、淡く光ったのは見えました。


 雪の結晶みたいな、小さな紋章。


 それが、一瞬だけ銀色にきらめいて、すぐに消えます。


「公爵様?」


 御者が、おそるおそる声をかけました。


 公爵様――その呼び名に、わたしの胸がまた跳ねます。


 この人が、噂に聞く「氷の公爵」なのだと、すぐに察しました。


 辺境の戦場をいくつも渡り歩き、冷徹な采配で敵味方を震え上がらせる男。

 けれど民の前では、決して無意味な流血は許さないとも聞きます。


 恐れられ、同時に敬われる人。


 遠い噂話でしか知らなかったその人が、今、わたしを見下ろしている。


「少し待て。すぐに済む」


 公爵様は御者にそう告げると、ゆっくりと片膝をつきました。


 黒いマントが、石畳の上に広がります。

 淡い香木の匂いが、わずかに鼻をくすぐりました。


 彼の手が、わたしの影の上にかざされます。


 大きくて、節のある手。

 戦場で剣を握ってきた人の手だと、一目で分かりました。


 なのに、その動きは驚くほど静かで、丁寧でした。


「ここで、消えるつもりなのか」


 問いかける声は、冷たくも優しくもなく、ただ淡々としていました。


 それでも、不思議と胸に響きます。


 答えたい。


 わたしは、影のまま、必死に輪郭を震わせました。


 ここで消えたいと、思った瞬間も確かにありました。

 でも、本当は、まだ怖い。


 名前も、記憶も、誰かとの約束も、全部なくしてしまうのが。


 影が、小さく、震えます。


 公爵様の灰色の瞳が、それをじっと見つめました。


「……そうか」


 短い吐息とともに、彼はわずかに目を細めました。


「まだ、消えるには早すぎる」


 その言葉に、胸がきゅっとなります。


 早すぎる。


 そんなふうに言ってもらえたのは、生まれて初めてでした。


 これまでのわたしは、いつも「遅すぎる」「足りない」「もう間に合わない」と叱られてばかりで。


 公爵様は、ゆっくりと息を吸い込みました。


「行き先ぐらい、自分で選ぶといい」


 そう言って、手のひらをわたしの影に近づけます。


 その瞬間、冷たい何かが、わたしの輪郭に触れました。


 氷水に指先を入れたときのような、ひやりとした感覚。

 なのに、その奥に、微かな温もりも感じます。


 公爵様の影が、ゆっくりと動きました。


 彼の足元に落ちた影が、わたしの影と重なり、その境目が溶けるように滲んでいきます。


「……っ」


 世界が、少しだけ傾きました。


 石畳に貼りついていたはずのわたしが、ゆっくりと引き上げられていく感覚。


 冷たい水の底から、光の差す方へと浮かび上がるような。


 怖いのに。

 同時に、どうしようもなくほっとしている自分もいました。


 影と影が重なり合い、やがて、境目が見えなくなります。


 公爵様の右手の紋章が、ふたたび淡く光りました。


 雪のような銀色の光が、わたしの周りを一瞬だけ包みます。


 その光の中で、誰かの気配を感じました。


 優しくて、少し寂しそうで。

 どこか、懐かしい気配。


「あなたが……導いているのか」


 公爵様が、小さく誰かに問いかける声。


 けれど、その問いに答える声は聞こえません。


 光が消えると、わたしはもう、石畳の上にはいませんでした。


 代わりに、公爵様の足元に落ちる影の中に、溶け込んでいました。


 御者が、おそるおそる声をかけます。


「公爵様……いかがなさいましたか」


「拾い物だ」


 公爵様は立ち上がり、マントの裾を払いました。


「拾い物、でございますか」


「そうだ。捨てた側には、後で相応の礼をしてやらねばな」


 その言葉には、氷よりも冷たい響きがありました。


 怒鳴り声ではなく、感情を押し殺した静かな声なのに。

 聞いているだけで、背筋がひやりとします。


 エルグレイン家の名が、頭の中に浮かびました。


 でも、不思議と、怖いだけではありません。


 あの家にされたことを思い出したときに胸を締め付けた苦しさが、少しだけほどけていく気がしました。


「行き先を変更する。公爵邸へ戻る」


「かしこまりました」


 御者が手綱を引くと、馬は先ほどの怯えが嘘のように、大人しく従いました。


 馬車の扉が開き、公爵様が中に乗り込みます。


 その影の中に、わたしも一緒に連れて行かれました。


     ◇


 暗闇の中に、わたしは浮かんでいました。


 目を閉じているのか、開いているのかさえ分からない世界。

 それでも、さっきまでの冷たい石畳よりは、ずっと柔らかく感じます。


 しばらくして、かすかな揺れとともに、馬車が走り出しました。


 車輪の音が、遠くで響きます。


 その音の向こうから、低い声がしました。


「聞こえるか」


 氷の公爵様の声でした。


 暗闇の中で、その声だけがはっきりと届きます。


「名は」


 問いかけられて、わたしは慌てて自分の名前を探しました。


 さっき路地で必死に繰り返した名前。


 全部忘れてしまわないようにと、ぎゅっと握りしめていた、たったひとつの言葉。


「……ルミナ」


 声になったのかどうかは分かりません。


 それでも、公爵様は小さく息を吐きました。


「ルミナ」


 その名を、丁寧に繰り返します。


「いい名だ」


 その一言だけで、胸の奥が熱くなりました。


 誰かに、自分の名前を肯定してもらったことなど、今まで一度もなかったのに。


「君はもう一度、選び直せばいい」


 落ち着いた声が続きます。


「消えるか、生きるかを」


 暗闇の中で、その言葉だけが、光みたいに明るく響きました。


 消えるか。


 生きるか。


 選べるのだと、初めて知りました。


 今までは、誰かに決められた道をただ歩くだけで。

 嫌でも、怖くても、従うしかないと思っていたのに。


 心のどこかで、小さな声がしました。


 生きたい。


 まだ世界は怖いけれど。

 誰かにまた裏切られるかもしれないけれど。


 それでも、「もう一度」をくれたこの人の言葉に、応えたいと思いました。


 だから、胸の奥で、はっきりと答えます。


 生きたい、と。


 その瞬間、暗闇がほんの少しだけ明るくなった気がしました。


 馬車は、氷の公爵の屋敷へ向かって、静かに走り続けます。

 わたしの知らない、新しい世界へと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ