第3話 捨てられた影の令嬢
どれくらい眠っていたのか、分かりません。
目を開けたとき、最初に見えたのは、石の床の模様でした。
ひび割れた灰色の線が、蜘蛛の巣みたいに広がっています。
顔を上げようとして、そこでようやく思い出しました。
わたしには、もう顔も、体もないのだと。
あるのは、冷たい床に貼りついた黒い影だけ。
それが、今のわたしの全てでした。
それでも「見る」ということだけは、どうにか残されているらしくて。
床に張り付いた視点のまま、ゆっくりと周囲を見回します。
青白い炎の灯った燭台。
壁にかかった、古びた棚。
昨夜見た地下室と、変わらないはずの景色。
けれど、その中に「わたし」はどこにもいません。
代わりに、魔法陣の中央あたりに、濃く落ちた黒い形が揺れていました。
それが、わたし。
「…………」
声を出そうとして、出ないことに気づきます。
喉が動く感覚も、唇を開く感覚もありません。
ただ、胸の奥に言葉が生まれては、どこかへ溶けていくばかりです。
どのくらい、そうしていたのでしょう。
しばらくして、上の方から足音が聞こえてきました。
こつ、こつ、と二人分。
地下室の扉が開くと、明かりが差し込み、床に新しい影が伸びてきます。
「おかしいわねえ。昨日、この部屋使ったかしら」
「奥様たちが何かしてたって、台所では聞きましたよ」
聞き慣れた使用人たちの声でした。
足元に近づいてくる靴の裏が、やけに大きく見えます。
「まあ、床が汚れてるわ。インクでもこぼしたのかしら」
女中の一人がそう言って、わたしの影を見下ろしました。
インク。
わたしは、インクではありません。
そう言いたくても、声が出ません。
「地下なんて誰も見ないんだから、適当でいいわよ。ほら、モップ貸して」
別の女中が笑いながら、長い柄のついたモップを肩に担ぎました。
次の瞬間。
「っ……!」
わたしの上を、ざり、と粗い感触が通り抜けました。
本当は、痛みなんてないのかもしれません。
でも、床に押し付けられた影がぐしゃりと歪んだ瞬間、胸の奥が強く抉られたような気がしました。
「なかなか落ちないわね。古いシミかしら」
「もうちょっと強くこすっておきなさいな。どうせ誰も見ないんだから」
ごし、ごし、とモップが影の上を行き来します。
踏みにじられているのは、床の汚れではなくて。
わたしの名前や、記憶や、この家で過ごした年月そのもののように感じられました。
それでも、女中たちには何も見えていません。
「ねえ、そういえばさ」
一人が、モップを動かしながら言いました。
「侯爵家の長女って、もうすぐ嫁いで行くんじゃなかったっけ」
「長女? ああ……セレス様のこと?」
「違うわよ。もっと地味な、ほら、誰だっけ」
「そんな人、いたかしら」
その会話に、胸がひゅうっと冷えていきます。
昨日まで、ここに確かにいたはずのわたしが。
もう、彼女たちの記憶の中からぼやけ始めている。
魔術師が言っていた「記憶も薄れる」という言葉を、思い出しました。
モップが遠ざかり、足音が階段へ向かいます。
「まあいいわ。セレス様がいらっしゃるなら、それで十分じゃない。あの方こそ、本当にお姫様みたいだもの」
「そうねえ。侯爵家の“お嬢様”って言ったら、やっぱりセレス様よね」
扉が閉まり、足音が消えました。
地下室には、また静けさが戻ってきます。
わたしは、床に貼りついたまま、ゆっくりと、自分の影を見ました。
さっきよりも、少しだけ薄くなっているような気がします。
このままここにいたら、本当に消えてしまうのかもしれない。
そう思うと、急に怖くなりました。
でも、どうやってここから出ればいいのかも分かりません。
体は動かない。
手足もない。
あるのは、光と闇の境目に広がる、この黒い輪郭だけ。
そのとき、ふと気づきました。
地下室の壁の上の方に、小さな窓があります。
外から差し込む細い光が、床に一本の道を描いていました。
わたしの影の端が、その光の線に少しだけ重なっています。
もし、この光を伝っていけたら。
そう考えた瞬間、影が、するりと伸びました。
「え……」
驚きで、胸の奥が大きく波打ちます。
わたしは意識を集中して、窓から差し込む光の筋を見つめました。
床に落ちた光。
その先で、壁に登っていく光。
そこへ向かって、影の端をそっと伸ばしていきます。
するり、と。
影が、壁に沿って細く伸びました。
まるで、光の道を辿るように。
石の壁の凹凸を、ぬるりと滑るような感覚がします。
怖い。
でも、それ以上に、ここから出たい。
その一心で、わたしは光の方へと伸び続けました。
やがて、小さな窓枠のところまで辿り着きます。
そこから外へと伸びる陽の光。
眩しい白さが、久しぶりに目に飛び込んできました。
影が、外気に触れる感覚。
冷たくて、少しだけ暖かい。
矛盾したような風が、ゆっくりと頬を撫でる――気がしました。
気づけば、わたしは、屋敷の外壁に沿って長く伸びていました。
地上の石畳に、木の影や、人の影と混ざり合うように、わたしの黒が落ちています。
屋敷の窓のひとつに、見慣れた姿が映りました。
レースのカーテンの向こうで、セレスが新しいドレスの仮縫いをしています。
明るい水色の生地。
鏡の前でくるりと回ると、侍女たちが一斉に拍手をしました。
窓辺に、継母が寄り添います。
何かを言っているのが、口の動きで分かりました。
「これでやっと、家にふさわしい娘だけが残ったわね」
声は聞こえません。
けれど、そう言ったのだと直感しました。
セレスは嬉しそうに笑って、鏡の中の自分を抱きしめるみたいに両腕を回します。
あの場所に、わたしが立つことは、もうないのでしょう。
この家で、わたしが「長女」と呼ばれることは、二度と。
最初から、いらない駒だったのだと。
ようやくはっきりと理解しました。
外壁に沿って滑るように移動しながら、わたしは屋敷から離れていきました。
光のある方へ、ある方へ。
石畳の道には、大勢の足が行き来しています。
人々の影が、わたしの上を容赦なく通り過ぎていきました。
「きゃっ、ごめんなさい」
誰かがつまずいたような声を上げ、すぐに笑い声が続きます。
その足元で、わたしの影が一瞬、大きく揺れました。
踏まれたところで、体が壊れるわけではありません。
だけど、「そこにいるのに、誰も気づかない」という事実が、じわじわと心を削っていきます。
昼の王都は、思ったよりも明るくて、ざわざわしていて。
行商人の呼び声や、馬車の車輪の音、子どもたちの笑い声。
その全部の足元に、影がありました。
黒い形が、いくつも重なり合い、伸びたり縮んだりしながら、街を埋め尽くしています。
わたしの影も、その一部でした。
誰かの影と混ざりそうになるたび、わたしの輪郭が少しだけにじみます。
驚くと、影がぴくりと震えました。
落ち込むと、細く長く伸びていく。
笑うことがもしできるなら、少しだけ面白いと思えたかもしれません。
でも今は、そんな余裕もありませんでした。
どこへ行けばいいのか分からないまま、わたしはひたすら、陽の当たる方へと流されていきました。
やがて、教会の鐘の音が聞こえてきました。
石造りの小さな教会の前で、子どもたちが遊んでいます。
ぼろぼろの服を着て、裸足のまま走り回る孤児たち。
その中の一人の少年が、ふと立ち止まりました。
「……あれ?」
少年は、地面をじっと見つめました。
そこには、教会の影と、街路樹の影と、その間に挟まれるようにして、わたしの影が伸びていました。
彼は小さく首をかしげ、そっとその場所に手を伸ばします。
「なんか、ここだけ冷たい」
小さな指先が、影の輪郭に触れました。
その瞬間。
胸の奥に、じんわりと温かさが広がりました。
誰かの手に、初めて触れたような。
ひどく懐かしい感覚。
わたしの方からも、手を伸ばしたくなりました。
でも、影には手がありません。
ただ、輪郭がふるふると震えるばかりです。
少年は驚いたように身を引きました。
「……気のせいかな」
そうつぶやき、すぐに他の子どもたちの輪の中へ戻っていきます。
温もりは、一瞬で消えてしまいました。
けれど確かに、さっきの瞬間、わたしは「触れられた」と感じたのです。
誰かが、わたしの存在に、ほんの少しでも近づいた。
それだけで、泣きたくなるほど嬉しくて。
同時に、余計に寂しくなりました。
太陽が傾き始めると、影は長く伸びていきます。
街の喧騒が、少しずつ静かになっていきました。
人通りの少ない路地に流れ着いたところで、わたしは動くのをやめました。
石畳の上に、細長く伸びた自分の影。
その輪郭が、風に吹かれた砂に削られるみたいに、じわじわと薄くなっていく気がしました。
このまま、世界から零れ落ちてしまうのかもしれない。
いっそ、その方が楽なのかもしれない。
そんな考えが、一瞬、胸をよぎります。
でもすぐに、頭のどこかで、小さな声がしました。
嫌だ。
怖い。
わたしはまだ、自分の名前を覚えています。
ルミナ・エルグレイン。
父にとっては愚かな娘で。
王家にとっては禍を呼ぶ影で。
でも、わたしにとっては、たったひとつの名前です。
それさえ消えてしまうのは、どうしても嫌でした。
涙も出せないのに、泣いているような気分になりながら、心の中で自分の名前を何度も繰り返しました。
ルミナ。ルミナ。
そのとき、重い蹄の音が聞こえてきました。
こつん、こつん、と石畳を踏みしめる音。
ゆっくりと近づいてくる車輪のきしみ。
路地の入口から、黒い馬車の影が伸びてきました。
その大きな影が、わたしの影の上を通り過ぎようとした瞬間。
どん、と、何かにぶつかったような違和感が走りました。
影同士が、ぶつかるはずなんてないのに。
馬車の動きが、かすかに止まります。
わたしは、路地の入口の方へ視線を向けました。
馬車の扉が開きます。
冷たい風の中で揺れる黒いマント。
高い背丈の男が、ゆっくりと石畳に降り立ちました。
路地に差し込む夕陽の中で、彼の影が長く伸びます。
その視線が、まっすぐに、地面に貼りついたわたしの影の上で止まりました。
もう、誰の手も届かないはずのわたしに。
ただ一人だけ、手を伸ばそうとする人が現れた瞬間でした。




