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婚約破棄された“影だけの令嬢”は、氷の公爵に拾われ溺愛されています  作者: しげみちみり


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20/20

第21話 「鎖の音がする夢」

 その夜、私はいつになく、

 自分の影が重たくなっているのを感じていました。


 散歩を終えた夜の庭園から部屋へ戻る廊下で、

 床に伸びた私の形は、ゆらりと揺れては、

 じわじわと薄く、広がっていきます。


 月明かりに照らされているはずなのに、

 輪郭がどこか、ぼやけて見えるのです。


(……少し、疲れたのかな)


 影のまぶた、というものがあるのなら、

 今の私は、それを何度も瞬かせているのでしょう。


 公爵様の部屋の前を通りかかったとき、

 扉の隙間から、微かな灯りがこぼれていました。


 中で、彼がまだ書類と向き合っていることは、

 影越しでも分かります。


 本当は、足元まで行って、

 お疲れさまです、と頭を下げたかった。


 けれど今夜ばかりは、

 そこまで長く形を保てる自信がありませんでした。


 私はその場で一度だけ揺れてから、

 そっと自室へと戻ります。


◇◇◇


 床に落ちた自分の影が、

 じわり、と薄く広がっていきました。


 いつもなら、窓から差し込む月の光に、

 はっきりと黒い輪郭が浮かび上がるのに。


 今夜は、石床の色と溶け合うようにして、

 どこからどこまでが自分なのか、少し曖昧です。


(影でも……眠ることが、あるのかな)


 そんなことを思った瞬間、

 意識の底が、ふっと抜けました。


 足元から真っ暗な水面に落ちるような感覚。


 音も、光も、全部が遠ざかっていく中で、

 最後に聞いたのは、どこかで揺れる鎖の音でした。


◇◇◇


 次に目を開けたとき、

 私は、床の冷たさではなく、

 布の感触を指先に感じていました。


 驚いて、自分の手を見る。


 そこには、骨ばってはいるけれど、

 ちゃんと肉のついた、人間の手がありました。


 指を握れば、その通りに動きます。


 影ではなく、生身の、自分の手。


 嬉しさに息を飲み込んだのも束の間、

 手首に絡みついた冷たいものが、

 じゃら、と音を立てました。


 鉄の鎖。


 太く重い鎖が、手首と足首に巻きついて、

 床に打ち込まれた金具へと繋がっています。


 何度か引いてみても、

 鎖は微動だにしません。


 ただ、じりじりと皮膚に食い込んで、

 痛みを伝えてくるだけでした。


 見上げれば、低い天井。


 粗く積まれた石壁には、

 しみこんだ水がところどころ黒い跡を作っています。


 湿った空気と、冷たい床。


 それはよく知っている匂いでした。


 ――実家の、地下室。


 かつて、私が閉じ込められていた場所に、

 とてもよく似ていました。


 けれど、ひとつだけ違うものがある。


 視線を奥へと向けると、

 そこに見慣れぬ祭壇がありました。


 石で組まれた台の上。


 乾いた血のように赤い線が、

 床一面に魔法陣を描いて広がっています。


 円の中心には、

 何かが横たわっているように見えましたが、

 霧がかかったように輪郭がぼやけていて、

 はっきりとは分かりません。


(ここは……本当に、あの地下室?

 それとも、別の……)


 頭の中にざらりと砂が流れ込むような違和感が走り、

 私は思わず目を閉じました。


 そのときです。


「ごめんなさい」


 どこからともなく、声がしました。


 若い女の人の、少し掠れた、

 それでも柔らかい響きの声。


「守れなくて、ごめんなさい」


 私ではない誰かに向けられた謝罪のようであり、

 それでいて、まっすぐに私の胸に突き刺さってきます。


 ゆっくりと顔を上げると、

 祭壇の奥、石壁の前に、誰かが立っていました。


 白いドレスの裾が、静かに揺れています。


 腰まで届きそうな長い髪。


 柔らかな布地の肩。


 でも、顔だけが、どうしても見えません。


 光が強すぎるのか、

 それとも、最初から描かれていないのか。


 まるで絵から削り取られたみたいに、

 ぼやけていました。


 それでも、そこに宿っている気配は、

 不思議なほど懐かしく、やさしいものでした。


「あなたはまだ、全部を知らない」


 白い人は、静かにそう言いました。


 鎖が、私の手首で軋みます。


「地下に降りて行った血の道も、

 誰の願いで魔法陣が描かれたのかも。


 あなたの影を繋ぎとめている鎖が、

 どこから伸びているのかも」


 足元を見ると、

 私の影からも黒い線が伸びていました。


 形を持つ身体の足元に、

 べったりと張り付いた影。


 そこから這い出した細い影の糸が、

 床の赤い線と絡まり合い、

 やがて祭壇の下へと続いています。


 ぞくり、と背筋が震えました。


「私の……影も、鎖で繋がれているの?」


 問いかけようとした瞬間、

 鎖が一斉に鳴りました。


 がちゃん、がちゃんと、

 耳を塞ぎたくなるほどの金属音。


 床が揺れ、

 赤い魔法陣の線がまるで生き物のように波打ちます。


 祭壇の上の“何か”が、

 もぞりと動いたような気がしました。


 白いドレスの人が、

 こちらに歩み寄ってきます。


 顔はやはり見えないまま。


 けれど、その気配の近さに、

 私は息を詰めました。


「怖がらないで。


 ――あなたはひとりじゃない。


 でも、時間は、あまりないの」


 胸の奥が締めつけられるように痛みます。


 そのとき、不意に。


 白い人の輪郭の一部が、

 ほんの少しだけ、はっきりしました。


 薬指に光る指輪。


 公爵様がいつも外さない、

 あの銀の指輪と、よく似た形。


「あなたはまだ、全部を知らない。

 でも、必ず辿り着けるわ」


 白い人が、そう言った瞬間。


 足元の影が、

 真っ二つに引き裂かれるような感覚が走りました。


 世界が、まっ黒に裏返る。


 鎖の音だけが、最後まで耳に残っていました。


◇◇◇


「……っ」


 気づけば私は、

 公爵邸の自室の床に戻っていました。


 冷たい石。


 窓から差し込む、夜明け前の青白い光。


 そこに伸びているのは、

 見慣れた「影の私」の形です。


 震えている。


 床に貼りつくように伸びた輪郭が、

 小刻みに揺れているのが、自分でも分かりました。


 耳の奥にはまだ、

 鎖のこすれる音が残っています。


 さっきまで握られていたはずの鎖の感触が、

 手首のあたりに鈍く残っているような気がして、

 私は思わず、影の手を抱きしめるように丸まりました。


「奥様?」


 ノックの音のあと、

 扉の向こうからリーナの声がしました。


「失礼します……あれ?」


 入ってきた彼女は、

 部屋の真ん中で震える影を見つけて、

 息を呑みます。


「床、冷たかったでしょう。

 もしかして、眠っておられたんですか?」


 私は、否定も肯定もできず、

 ただ、小さく揺れました。


 夢と呼ぶには、生々しすぎる映像。


 地下室。

 鎖。

 赤い魔法陣。


 それから、白いドレスの――。


 そこまで思い出しかけたところで、

 胸の奥がきゅっと痛み、

 私は考えるのをやめました。


「お顔色……じゃないですね。

 影色が、ちょっと青白いです」


 リーナは、冗談めかしてそう言いながらも、

 すぐに真剣な顔になって、廊下に顔を出します。


「ガイルさん、公爵様に……いえ、

 ハルド様にもお知らせした方がいいかもしれません」


◇◇◇


 ほどなくして、

 公爵様とハルドが部屋に現れました。


 公爵様は、昨夜より少し寝不足そうな目で、

 真っ先に床の影を見下ろします。


「……震えているな」


 低い声に、

 胸の奥の不安が少しだけほどけました。


 気づいてくれている。


 この揺れを、ちゃんと見てくれている。


「悪い夢を見たのだろう」


 問いというより、

 確信めいた呟きでした。


 私は、小さく頷く代わりに、

 公爵様の足元へと滲み寄ります。


 その前に、ハルドがずい、と割り込んできました。


「ほう。

 影が夢を見るとは、面白いな」


「面白がるな」


「研究者としての正直な感想だ」


 ぶつぶつ言いながら、

 ハルドはローブの袖から、小さな金属の輪を取り出します。


「失礼するよ、奥様。

 少し、その影を触らせていただく」


 彼が床にしゃがみ込み、

 指先で私の輪郭をそっとなぞると、


 金属の輪が微かな光を放ち、

 波紋のようなものが部屋に広がりました。


 夢の中で見た、石の壁。


 赤い魔法陣。


 鎖。


 白いドレス。


 断片的な映像が、

 水面に浮かぶ絵のように、ハルドの瞳に映り込んでいきます。


 彼はしばらく黙っていたあと、

 ふう、と息を吐きました。


「なるほど。


 これは、君の記憶だけではないな」


「……どういう意味だ」


 公爵様の声が、わずかに鋭くなります。


 ハルドは顎に手をあて、

 床の影と、窓からの光とを交互に見やりました。


「影の中で、呪いと別の魔術が干渉している。

 そのせいで、無意識のうちに“記憶”が繋がりかけているのだ」


「記憶……」


「一部は、この子自身のものだろう。

 地下室や鎖など、過去に体験したであろう光景。


 だが、祭壇や赤い魔法陣、

 白いドレスの女の姿。


 そこには、別の誰かの記憶、

 もしくは“願い”が混ざっている」


 願い。


 あの声の「守れなくてごめんなさい」という言葉が、

 耳の奥で、もう一度響きました。


「守護魔術の主と、呪いをかけた者。


 その両方に繋がる夢……と見ていいだろうな」


 ハルドの呟きに、

 公爵様の手が、ぎゅっと拳を握るのが見えました。


「……危険か」


「今のところは、直接的な害はなさそうだ。

 ただ、放っておけば、

 いずれ夢と現実の境が曖昧になるかもしれん。


 それに――」


 そこで一度、

 ハルドは黙りました。


「それに?」


「夢に現れた白い女。

 あれがもし、本当に“守護する側”の記憶なら。


 君たちが辿るべき場所を、

 先に見せているのかもしれん」


「辿るべき場所……」


 祭壇。

 赤い線。

 鎖。


 それから、白いドレス。


 胸の奥で、小さな恐怖と、

 それを上回る、奇妙な予感が混ざり合いました。


 あの人は、私を怖がらせたいのではなく、

 導こうとしているのかもしれない。


 そんな考えが、ふと浮かんだのです。


◇◇◇


 その夜。


 廊下は、静かでした。


 公爵様は、ハルドと何か話し込んでから、

 いつもより遅く部屋に戻っていきました。


 私は、屋敷の中をゆっくりと移動しながら、

 影の身体の調子を確かめます。


 長く動いていると、

 輪郭の端がじわじわと薄くなる。


 それでも、

 今日はどうしても確かめたい場所がありました。


 ――使われていない棟。


 かつて、リーナに「掃除の必要はありません」と言われた場所。


 前の奥様の部屋があると、

 噂されていたところ。


 人気のない廊下に、

 月とランプの光が交互に落ちています。


 私は、そのどちらにも触れながら、

 ゆっくりと奥へと進みました。


 やがて、あの扉の前に辿り着きます。


 重く閉ざされた木の扉。


 ノブには白い布が巻かれ、

 長い時間、誰の手も触れていないことを物語っていました。


 床に落ちる扉の影は、

 他の場所よりも、わずかに濃く見えます。


 じっと見つめていると――。


 かちゃん、と。


 どこかで、鎖の音がしました。


 すぐ耳元ではなく、

 遠く、深いところから響くような音。


 それでも、私は思わず身をすくませました。


 夢の中で聞いたのと、

 同じ音だったからです。


 足元の影が、

 自然と扉の下の隙間へとにじり寄っていきます。


 この向こうに、何かがある。


 地下室。

 祭壇。

 赤い魔法陣。


 鎖の先。


 全てがどこかで繋がっているような気がして、

 私は扉の影をそっと押し広げようとしました。


「――ここはまだ早い」


 背後から、低い声がしました。


 はっとして振り返ると、

 廊下の薄闇の中に、公爵様が立っていました。


 ランプの灯りに照らされた横顔は、

 いつもより少しだけ険しく見えます。


 彼の足元の影が、

 私の前にすっと広がりました。


 まるで、扉との間に立ちふさがる壁のように。


「君が行くべき場所は、

 まだここではない」


 静かな声。


 それでも、不思議と逆らえませんでした。


 私は、扉の影からそっと離れ、

 公爵様の影の中へと戻っていきます。


 その間にも、

 遠くで鎖の音が一度だけ鳴りました。


 廊下の空気が、

 少しだけ冷たくなる。


 それでも、公爵様の足元に寄り添うと、

 不思議と、その冷たさは怖くなくなりました。


 彼は、扉を一度振り返ってから、

 私のいる足元を見下ろします。


「いつか、ここも開けねばならない。


 だがそれは、

 君の影が、もう少し強くなってからだ」


 そう言って、踵を返しました。


 私は、その影のあとを追いながら、

 心の中でそっと呟きます。


 地下室。


 赤い魔法陣。


 白いドレスの人の言葉。


 それから、この閉ざされた部屋。


 ――全部の鎖は、どこかで繋がっている。


 その先に待っているものが、

 救いなのか、さらなる絶望なのかは、まだ分かりません。


 けれど、必ず辿り着かなければならない場所が、

 世界のどこかにあるのだとしたら。


 私は、その時まで、

 公爵様の足元で、影として息をしていたい。


 鎖の音に怯えながらも、


 それでも、彼と一緒に前に進めるように――。

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