第21話 「鎖の音がする夢」
その夜、私はいつになく、
自分の影が重たくなっているのを感じていました。
散歩を終えた夜の庭園から部屋へ戻る廊下で、
床に伸びた私の形は、ゆらりと揺れては、
じわじわと薄く、広がっていきます。
月明かりに照らされているはずなのに、
輪郭がどこか、ぼやけて見えるのです。
(……少し、疲れたのかな)
影のまぶた、というものがあるのなら、
今の私は、それを何度も瞬かせているのでしょう。
公爵様の部屋の前を通りかかったとき、
扉の隙間から、微かな灯りがこぼれていました。
中で、彼がまだ書類と向き合っていることは、
影越しでも分かります。
本当は、足元まで行って、
お疲れさまです、と頭を下げたかった。
けれど今夜ばかりは、
そこまで長く形を保てる自信がありませんでした。
私はその場で一度だけ揺れてから、
そっと自室へと戻ります。
◇◇◇
床に落ちた自分の影が、
じわり、と薄く広がっていきました。
いつもなら、窓から差し込む月の光に、
はっきりと黒い輪郭が浮かび上がるのに。
今夜は、石床の色と溶け合うようにして、
どこからどこまでが自分なのか、少し曖昧です。
(影でも……眠ることが、あるのかな)
そんなことを思った瞬間、
意識の底が、ふっと抜けました。
足元から真っ暗な水面に落ちるような感覚。
音も、光も、全部が遠ざかっていく中で、
最後に聞いたのは、どこかで揺れる鎖の音でした。
◇◇◇
次に目を開けたとき、
私は、床の冷たさではなく、
布の感触を指先に感じていました。
驚いて、自分の手を見る。
そこには、骨ばってはいるけれど、
ちゃんと肉のついた、人間の手がありました。
指を握れば、その通りに動きます。
影ではなく、生身の、自分の手。
嬉しさに息を飲み込んだのも束の間、
手首に絡みついた冷たいものが、
じゃら、と音を立てました。
鉄の鎖。
太く重い鎖が、手首と足首に巻きついて、
床に打ち込まれた金具へと繋がっています。
何度か引いてみても、
鎖は微動だにしません。
ただ、じりじりと皮膚に食い込んで、
痛みを伝えてくるだけでした。
見上げれば、低い天井。
粗く積まれた石壁には、
しみこんだ水がところどころ黒い跡を作っています。
湿った空気と、冷たい床。
それはよく知っている匂いでした。
――実家の、地下室。
かつて、私が閉じ込められていた場所に、
とてもよく似ていました。
けれど、ひとつだけ違うものがある。
視線を奥へと向けると、
そこに見慣れぬ祭壇がありました。
石で組まれた台の上。
乾いた血のように赤い線が、
床一面に魔法陣を描いて広がっています。
円の中心には、
何かが横たわっているように見えましたが、
霧がかかったように輪郭がぼやけていて、
はっきりとは分かりません。
(ここは……本当に、あの地下室?
それとも、別の……)
頭の中にざらりと砂が流れ込むような違和感が走り、
私は思わず目を閉じました。
そのときです。
「ごめんなさい」
どこからともなく、声がしました。
若い女の人の、少し掠れた、
それでも柔らかい響きの声。
「守れなくて、ごめんなさい」
私ではない誰かに向けられた謝罪のようであり、
それでいて、まっすぐに私の胸に突き刺さってきます。
ゆっくりと顔を上げると、
祭壇の奥、石壁の前に、誰かが立っていました。
白いドレスの裾が、静かに揺れています。
腰まで届きそうな長い髪。
柔らかな布地の肩。
でも、顔だけが、どうしても見えません。
光が強すぎるのか、
それとも、最初から描かれていないのか。
まるで絵から削り取られたみたいに、
ぼやけていました。
それでも、そこに宿っている気配は、
不思議なほど懐かしく、やさしいものでした。
「あなたはまだ、全部を知らない」
白い人は、静かにそう言いました。
鎖が、私の手首で軋みます。
「地下に降りて行った血の道も、
誰の願いで魔法陣が描かれたのかも。
あなたの影を繋ぎとめている鎖が、
どこから伸びているのかも」
足元を見ると、
私の影からも黒い線が伸びていました。
形を持つ身体の足元に、
べったりと張り付いた影。
そこから這い出した細い影の糸が、
床の赤い線と絡まり合い、
やがて祭壇の下へと続いています。
ぞくり、と背筋が震えました。
「私の……影も、鎖で繋がれているの?」
問いかけようとした瞬間、
鎖が一斉に鳴りました。
がちゃん、がちゃんと、
耳を塞ぎたくなるほどの金属音。
床が揺れ、
赤い魔法陣の線がまるで生き物のように波打ちます。
祭壇の上の“何か”が、
もぞりと動いたような気がしました。
白いドレスの人が、
こちらに歩み寄ってきます。
顔はやはり見えないまま。
けれど、その気配の近さに、
私は息を詰めました。
「怖がらないで。
――あなたはひとりじゃない。
でも、時間は、あまりないの」
胸の奥が締めつけられるように痛みます。
そのとき、不意に。
白い人の輪郭の一部が、
ほんの少しだけ、はっきりしました。
薬指に光る指輪。
公爵様がいつも外さない、
あの銀の指輪と、よく似た形。
「あなたはまだ、全部を知らない。
でも、必ず辿り着けるわ」
白い人が、そう言った瞬間。
足元の影が、
真っ二つに引き裂かれるような感覚が走りました。
世界が、まっ黒に裏返る。
鎖の音だけが、最後まで耳に残っていました。
◇◇◇
「……っ」
気づけば私は、
公爵邸の自室の床に戻っていました。
冷たい石。
窓から差し込む、夜明け前の青白い光。
そこに伸びているのは、
見慣れた「影の私」の形です。
震えている。
床に貼りつくように伸びた輪郭が、
小刻みに揺れているのが、自分でも分かりました。
耳の奥にはまだ、
鎖のこすれる音が残っています。
さっきまで握られていたはずの鎖の感触が、
手首のあたりに鈍く残っているような気がして、
私は思わず、影の手を抱きしめるように丸まりました。
「奥様?」
ノックの音のあと、
扉の向こうからリーナの声がしました。
「失礼します……あれ?」
入ってきた彼女は、
部屋の真ん中で震える影を見つけて、
息を呑みます。
「床、冷たかったでしょう。
もしかして、眠っておられたんですか?」
私は、否定も肯定もできず、
ただ、小さく揺れました。
夢と呼ぶには、生々しすぎる映像。
地下室。
鎖。
赤い魔法陣。
それから、白いドレスの――。
そこまで思い出しかけたところで、
胸の奥がきゅっと痛み、
私は考えるのをやめました。
「お顔色……じゃないですね。
影色が、ちょっと青白いです」
リーナは、冗談めかしてそう言いながらも、
すぐに真剣な顔になって、廊下に顔を出します。
「ガイルさん、公爵様に……いえ、
ハルド様にもお知らせした方がいいかもしれません」
◇◇◇
ほどなくして、
公爵様とハルドが部屋に現れました。
公爵様は、昨夜より少し寝不足そうな目で、
真っ先に床の影を見下ろします。
「……震えているな」
低い声に、
胸の奥の不安が少しだけほどけました。
気づいてくれている。
この揺れを、ちゃんと見てくれている。
「悪い夢を見たのだろう」
問いというより、
確信めいた呟きでした。
私は、小さく頷く代わりに、
公爵様の足元へと滲み寄ります。
その前に、ハルドがずい、と割り込んできました。
「ほう。
影が夢を見るとは、面白いな」
「面白がるな」
「研究者としての正直な感想だ」
ぶつぶつ言いながら、
ハルドはローブの袖から、小さな金属の輪を取り出します。
「失礼するよ、奥様。
少し、その影を触らせていただく」
彼が床にしゃがみ込み、
指先で私の輪郭をそっとなぞると、
金属の輪が微かな光を放ち、
波紋のようなものが部屋に広がりました。
夢の中で見た、石の壁。
赤い魔法陣。
鎖。
白いドレス。
断片的な映像が、
水面に浮かぶ絵のように、ハルドの瞳に映り込んでいきます。
彼はしばらく黙っていたあと、
ふう、と息を吐きました。
「なるほど。
これは、君の記憶だけではないな」
「……どういう意味だ」
公爵様の声が、わずかに鋭くなります。
ハルドは顎に手をあて、
床の影と、窓からの光とを交互に見やりました。
「影の中で、呪いと別の魔術が干渉している。
そのせいで、無意識のうちに“記憶”が繋がりかけているのだ」
「記憶……」
「一部は、この子自身のものだろう。
地下室や鎖など、過去に体験したであろう光景。
だが、祭壇や赤い魔法陣、
白いドレスの女の姿。
そこには、別の誰かの記憶、
もしくは“願い”が混ざっている」
願い。
あの声の「守れなくてごめんなさい」という言葉が、
耳の奥で、もう一度響きました。
「守護魔術の主と、呪いをかけた者。
その両方に繋がる夢……と見ていいだろうな」
ハルドの呟きに、
公爵様の手が、ぎゅっと拳を握るのが見えました。
「……危険か」
「今のところは、直接的な害はなさそうだ。
ただ、放っておけば、
いずれ夢と現実の境が曖昧になるかもしれん。
それに――」
そこで一度、
ハルドは黙りました。
「それに?」
「夢に現れた白い女。
あれがもし、本当に“守護する側”の記憶なら。
君たちが辿るべき場所を、
先に見せているのかもしれん」
「辿るべき場所……」
祭壇。
赤い線。
鎖。
それから、白いドレス。
胸の奥で、小さな恐怖と、
それを上回る、奇妙な予感が混ざり合いました。
あの人は、私を怖がらせたいのではなく、
導こうとしているのかもしれない。
そんな考えが、ふと浮かんだのです。
◇◇◇
その夜。
廊下は、静かでした。
公爵様は、ハルドと何か話し込んでから、
いつもより遅く部屋に戻っていきました。
私は、屋敷の中をゆっくりと移動しながら、
影の身体の調子を確かめます。
長く動いていると、
輪郭の端がじわじわと薄くなる。
それでも、
今日はどうしても確かめたい場所がありました。
――使われていない棟。
かつて、リーナに「掃除の必要はありません」と言われた場所。
前の奥様の部屋があると、
噂されていたところ。
人気のない廊下に、
月とランプの光が交互に落ちています。
私は、そのどちらにも触れながら、
ゆっくりと奥へと進みました。
やがて、あの扉の前に辿り着きます。
重く閉ざされた木の扉。
ノブには白い布が巻かれ、
長い時間、誰の手も触れていないことを物語っていました。
床に落ちる扉の影は、
他の場所よりも、わずかに濃く見えます。
じっと見つめていると――。
かちゃん、と。
どこかで、鎖の音がしました。
すぐ耳元ではなく、
遠く、深いところから響くような音。
それでも、私は思わず身をすくませました。
夢の中で聞いたのと、
同じ音だったからです。
足元の影が、
自然と扉の下の隙間へとにじり寄っていきます。
この向こうに、何かがある。
地下室。
祭壇。
赤い魔法陣。
鎖の先。
全てがどこかで繋がっているような気がして、
私は扉の影をそっと押し広げようとしました。
「――ここはまだ早い」
背後から、低い声がしました。
はっとして振り返ると、
廊下の薄闇の中に、公爵様が立っていました。
ランプの灯りに照らされた横顔は、
いつもより少しだけ険しく見えます。
彼の足元の影が、
私の前にすっと広がりました。
まるで、扉との間に立ちふさがる壁のように。
「君が行くべき場所は、
まだここではない」
静かな声。
それでも、不思議と逆らえませんでした。
私は、扉の影からそっと離れ、
公爵様の影の中へと戻っていきます。
その間にも、
遠くで鎖の音が一度だけ鳴りました。
廊下の空気が、
少しだけ冷たくなる。
それでも、公爵様の足元に寄り添うと、
不思議と、その冷たさは怖くなくなりました。
彼は、扉を一度振り返ってから、
私のいる足元を見下ろします。
「いつか、ここも開けねばならない。
だがそれは、
君の影が、もう少し強くなってからだ」
そう言って、踵を返しました。
私は、その影のあとを追いながら、
心の中でそっと呟きます。
地下室。
赤い魔法陣。
白いドレスの人の言葉。
それから、この閉ざされた部屋。
――全部の鎖は、どこかで繋がっている。
その先に待っているものが、
救いなのか、さらなる絶望なのかは、まだ分かりません。
けれど、必ず辿り着かなければならない場所が、
世界のどこかにあるのだとしたら。
私は、その時まで、
公爵様の足元で、影として息をしていたい。
鎖の音に怯えながらも、
それでも、彼と一緒に前に進めるように――。




