第2話 影になる呪い
侯爵家の門をくぐった瞬間、わたしはようやく息を吐きました。
夜会場からここまでの道のりは、ほとんど何も覚えていません。
馬車の窓の外を流れていく街灯の光だけが、やけにまぶしくて。
家に帰れば、少しは落ち着けるかもしれない。
そんな甘い望みは、玄関ホールに足を踏み入れた瞬間に打ち砕かれました。
「よく、戻ってこられたな」
低い声が降ってきます。
見上げると、階段の上に父が立っていました。
怒りを抑え込んだような顔。
けれどその目は、あからさまにわたしを責めています。
「父上……」
声をかけたところで、言葉は途中で途切れました。
階段を下りてきた父は、応接室の扉を乱暴に開け、その中へ入るよう顎でしゃくります。
「話がある。こい」
拒むことなどできません。
案内された応接室は、夜会に出る前と同じように整えられていました。
違うのは、空気の冷たさだけです。
ソファにはすでに継母のレイシア様が座っていました。
薄い唇に笑みらしきものを浮かべていますが、まったく温度を感じません。
「まあ、ルミナ。お帰りなさい」
その声は甘くて、耳に優しく響きます。
小さい頃、わたしが熱を出したときにも、あの声は同じように「大丈夫よ」とささやいていました。
けれど今は、その裏側に何が隠れているのか、うすうす分かってしまいます。
「座れ」
父に促され、向かいの椅子に腰を下ろしました。
すぐに、机が大きな音を立てて叩かれます。
「王家との婚約を、あの場で潰すとは。愚かな娘め」
わたしの肩がびくりと震えました。
「わたしは……何も……」
「黙れ」
短い一言が、口を閉ざせと命じます。
父はこめかみに手を当て、深く息を吐きました。
「エルグレイン家がどれほどの信用をかけてあの縁談をまとめたと思っている。お前一人を妃にするためではない。家の未来のためだ」
それは、分かっていました。
わたしに求められていたのは、娘としての幸せではなく、家の駒としての役割です。
それでも、あの場で起きたことは、わたしの意思とは関係のないもので。
「殿下が仰ったことは、事実と異なります。素行不良だとか、不吉な事故だとか。そのような……」
「結果がすべてだ」
父の声は、どこまでも冷静でした。
「王家の前で、お前は『禍を呼ぶ影を持つ女』と評された。そう噂が立てば、誰が嫁に欲しがる。誰が取引を続けてくれる」
そう言われてしまえば、何も返せません。
わたしが何をしたかではなく、「どう見られたか」が全て。
この家では、ずっとそうでした。
「ですが、ルミナ様を一方的に責めるのは、お気の毒ではなくて」
継母が、そっと口を挟みます。
「殿下の側にも事情はおありでしょうし、占い師とやらの言葉も……。でも、聞いてしまった以上、王家はそれを無視できない。そういうことでしょう」
まるで、全員の立場を理解しているような口ぶり。
けれど、その目は楽しげにわずかに細められていました。
「……レイシア」
父が彼女の名を呼びます。
その声には、苛立ちではなく、どこか頼るような響きが混じっていました。
「私はこうなることを恐れていたのですわ」
継母は静かに続けます。
「だからこそ、もしものときの備えを、ずっと考えておりましたの。ルミナの将来のためにも」
わたしの将来。
その言葉が、胸の中でいやな音を立てました。
「備え……」
父が眉をひそめると、継母は微笑みます。
「ええ。この家が王家の信頼を失わずに済むように。あの子が背負わされた汚名を、きちんと祓うことができるように」
「汚名を……祓う」
思わず、わたしもその言葉をなぞっていました。
父はしばらく黙っていましたが、やがて静かに頷きました。
「そうだな。今のままでは、エルグレイン家全体が疑われる。何か、手を打たねば」
父の視線が、じっとわたしに向きます。
その目は、娘を見る父親のものではありませんでした。
数字を眺める商人の目。
壊れかけた道具を前に、値打ちを計算している目。
「ルミナ」
「はい」
「お前は、自分がしでかしたことの重さを、理解しているな」
わたしは、唇をかみしめました。
本当は、わたしは何もしていません。
けれど、父の望む答えは分かっていました。
「……はい」
そう答えた瞬間、胸の奥で何かが小さく崩れた気がしました。
「ならば、家のために償いをしろ」
「償い……」
「レイシア。例の準備は」
「すでに整っておりますわ」
継母はゆっくりと立ち上がりました。
スカートの裾が床を撫でる音が、やけに大きく聞こえます。
「ルミナ。あなたのための『浄化の儀』です。あなたについた穢れと噂を、きれいさっぱり洗い流して差し上げますわ」
浄化。
穢れ。
わたしの心のどこかで、小さな違和感が顔を出しました。
でも。
もし本当に、これで王家との縁が完全に切れ、家に迷惑をかけずに済むのなら。
もし本当に、この息苦しさから少しでも解放されるのなら。
「わたしが、その儀式を受ければ……家の名は守られるのですか」
問いかけると、継母は嬉しそうに目を細めました。
「もちろんですわ。あとは、わたしたちに任せて。あなたは少し、疲れてしまっただけなのよ」
その言葉は、一見優しかったのに。
どこかで「これでようやく厄介者が片付く」とささやく声が重なって聞こえました。
それでも、わたしは頷きました。
「分かりました。お任せします」
そう言うしか、選択肢が見えなかったのです。
継母に導かれ、わたしは屋敷の奥へと歩き出しました。
廊下の明かりが、一定の間隔で床を照らしています。
足元には、わたしの影が長く伸びていました。
その影が、角を曲がるたびにゆらりと揺れ、壁を這うようにして進んでいきます。
階段の手前に来たとき、継母が足を止めました。
そこは、普段はあまり近づくことのない扉の前でした。
重そうな鉄の扉。鍵穴には、複雑な模様が刻まれています。
「ここは……」
「地下室よ。古い倉庫があるだけですけれど。儀式には、邪魔の入らない静かな場所がいいでしょう」
継母は軽い調子で言い、腰から鍵束を取り出しました。
がしゃり、と鍵が回る音。
扉が軋みながら開くと、冷たい空気がふわりと流れ出てきました。
「足元に気をつけてね」
柔らかな声に促され、わたしは階段を下り始めます。
上から差し込む灯りが薄くなるにつれ、足元の影が、壁に長く長く伸びていきました。
まるで、影だけが先に地下へ降りていくみたいに。
きしむ段差を一段ずつ下りていく。「戻りたい」と思ったときには、もう途中まで来ていました。
階段を下りきると、そこには思ったよりも広い空間が広がっていました。
壁に取り付けられた燭台が、青白い炎を揺らしています。
床には、複雑な模様の魔法陣が描かれていました。
黒い線と記号。
中心には、人ひとりが寝られるほどの円。
その周りには、見慣れない瓶や、乾いた草束、石の欠片。
わたしの背筋に、ぞくりと寒気が走りました。
「まあ、いらっしゃったのですね、侯爵家のお嬢様」
低くしわがれた声が、部屋の奥から聞こえました。
振り向くと、フードを目深にかぶった男が立っていました。
全身を黒いローブに包み、顔の半分以上が影に隠れています。
夜会場で見た、アルバート様の後ろに立っていた影と、どこか似ていました。
「この方は、名のある術者よ。あなたのために、わざわざ来てくださったの」
継母は満足げに言いました。
「……お嬢様の影は、なかなか強い。扱いを誤れば、確かに禍を呼ぶやもしれませぬな」
男はじろじろと、わたしの足元を眺めました。
わたしの影は、魔法陣の線にかかるように伸びています。
揺れる炎に合わせて、ゆらり、ゆらりと形を変えました。
「ですが、ご安心を。穢れを祓い、影を縫い止める術には慣れておりますゆえ」
「影を……縫い止める」
それが、どんな意味なのか。
このときのわたしには、うまく想像できませんでした。
継母が、魔法陣の中心を指さします。
「ルミナ。そこに横になってちょうだい。少しだけ、目を閉じていればいいのよ。すぐに終わるから」
ぐらりと足がすくむような感覚に襲われました。
でも、逃げ出すという選択肢は、心の中に浮かびません。
逃げた先に、どこへ行けばいいのか。
この家から追い出されたわたしを、誰が受け入れてくれるのか。
そんなことを考え始める前に、足が勝手に前へ出ていました。
魔法陣の中心に立ち、ゆっくりとひざまずきます。
床は冷たくて、薄いドレス越しに冷気が肌を刺しました。
背中に、継母の手がそっと触れます。
「だいじょうぶよ、ルミナ。これは、あなたのためでもあるの」
その声は、甘く優しい。
小さい頃、熱で寝込んだときに、同じ声で頭を撫でられた記憶がよみがえります。
あのときの安心感に、縋りたくなりました。
だから、目を閉じて、言われるまま横たわりました。
冷たい床に背中が触れると、体がびくりと震えます。
燭台の炎の揺れが、まぶた越しにちらちらと差し込んできました。
「始めるぞ」
術者の男の声が聞こえます。
ざらり、と何かを撒く音。
鼻をつく薬草の香りと、少し金属臭の混ざった煙。
薄く開けた目に、黒い紋様が映りました。
わたしの腕や足、胸元に、いつの間にか黒いインクのようなものが描かれています。
複雑な線と文字が、肌の上に絡み合っていました。
「なに、これ……」
かすれた声が漏れると、継母が微笑みます。
「浄化の印よ。少しひんやりするかもしれないけれど、痛くはないはず」
実際、痛みはありませんでした。
ただ、皮膚の内側を何かが這い回るような、不快な感覚だけが広がっていきます。
術者が、何かの言葉を唱え始めました。
聞いたことのない古い言語。
それでも、ところどころ耳慣れた単語が混じっています。
影。
忘却。
代償。
その三つだけは、やけにくっきりと聞き取れました。
影を切り離す。
穢れを忘れさせる。
代償を払う。
そんな意味が、ぼんやりと頭の中に浮かびます。
「影は影へ、身は霞へ。禍の記憶は、深き闇へ」
術者の声が、低く重なりました。
燭台の炎が、一瞬、強く燃え上がります。
同時に、体の内側から何かが引き抜かれるような感覚に襲われました。
「……っ」
息が詰まり、指先が冷たくなっていきます。
腕を動かそうとしても、重くて持ち上がりません。
足も、声も、うまく出ない。
視界の端で、自分の手がかすかに透けていくのが見えました。
輪郭が薄くなり、背景の石の模様が透けて見えます。
「やめ、て……」
本当にそう言えたのかどうかも、分かりません。
言葉にならない声が、喉の奥で凍りついたまま。
口から漏れたのは、かすかな吐息だけでした。
頭のどこかが、ぼんやりしていきます。
眠りに落ちる直前のような、心地よさと恐怖が混ざった感覚。
このまま意識を手放したら、二度と戻ってこられない。
そんな予感がしました。
だから、最後の力を振り絞って、心の中で願います。
どうか。
どうか、誰か一人でいい。
この世界のどこかで、わたしのことを覚えていてくれる人がいますように。
たとえ、顔も名前も知らない人でも。
いつか、どこかの片隅で、「そんな女の子がいた」と思い出してくれますように。
そう願ったとき。
何かが、ぱん、と音を立てて弾けた気がしました。
視界が、暗く沈みます。
でも、完全な闇ではありませんでした。
次に目を開けたとき、わたしは床の上から世界を見上げていました。
体を起こそうとしても、何も動きません。
自分の手を見ようとしても、そこには何もありませんでした。
あるのは、石の床に貼りついた黒い影だけ。
それが、わたしでした。
目線だけは、なぜか残っていました。
床に固定された視点で、継母と父と術者の姿が見えます。
「見事なものだな」
父が、魔法陣の中心を見下ろしながら言いました。
彼の視線の先にあるはずの私は、もう、どこにもいません。
代わりに、床に濃く落ちた影だけが、わずかに揺れています。
「これで、あの子が何をしでかそうと、誰も気づきはしませんわ」
継母が、満足げに息を吐きました。
「跡目を継がせるには、もっとふさわしい娘がいますもの。セレスなら、殿下だって喜んで迎えてくださるでしょうし」
その名前に、胸が締め付けられます。
わたしの異母妹。
いつも明るく、誰からも愛される、美しい妹。
彼女の笑顔を思い浮かべると同時に、胸の中に小さな棘が刺さるような痛みが走りました。
父は短く頷きました。
「そうだな。エルグレイン家の名を背負うのは、あの子の方がふさわしい。ルミナには……何も残っていない」
何も、残っていない。
その言葉は、もう体を持たないわたしの、どこか柔らかいところに突き刺さりました。
「お嬢様の存在を、この屋敷から目立たないようにする術も施しておきました」
術者が、淡々と説明を続けます。
「明日の朝には、誰もこの子のことをはっきり思い出せないでしょう。影が薄れるように、記憶も薄れていく。そういう副効果でございます」
明日の朝には。
誰も。
わたしは声を上げたつもりでした。
やめて。
忘れないで。
でも、その声は壁に吸い込まれたみたいに、どこにも届きません。
継母は、ふうと一つ息を吐きました。
「これで、厄介事は片付きましたわね」
「当面は、地下に置いておけ。……いずれ、処分の方法を考えよう」
父の言葉に、わたしの影が小さく震えた気がしました。
処分。
物を捨てるときに使う言葉でした。
足音が遠ざかっていきます。
扉が閉まる音とともに、青白い炎が少し弱まりました。
広い地下室に残されたのは、わたしの影だけ。
床に貼りついたまま、動くこともできず。
ただ、揺れる炎を見つめていました。
見ているのに、触れない。
聞いているのに、届かない。
人としての形を失うというのは、こういうことなのだと、ゆっくりと理解していきます。
時間の感覚も、少しずつあいまいになっていきました。
どれくらいそうしていたのか分かりません。
ただ、冷たい石の床に長く伸びる自分の影を眺めながら、もう一度だけ願いました。
どうか。
どうか、誰か一人でいい。
この世界のどこかで、わたしのことを忘れないでいてくれる人が、いますように。
もう、誰の手も届かないはずの私に、ただ一人だけ手を伸ばす人が現れるとは、このときまだ知らなかった。




