第15話 侍女と影の秘密
公爵様の熱が下がったのは、その二日後の朝でした。
食堂に現れたときの足取りは、もうしっかりしていて。
声もいつもの低さを取り戻していました。
その様子を見届けてから、昼下がり。
私は、自分の部屋の床一面に、ゆっくりと影を広げていました。
厚めの絨毯の上に、窓から差し込む光が斜めに落ちて。
その中で、私の輪郭だけが、少しだけ濃く浮かび上がっています。
――今日は、ちゃんと呼吸できている気がする。
影に肺なんてないのに、そんなことを思ってしまいます。
そこへ、ノックの音がしました。
「失礼いたします、公爵夫人」
リーナの声です。
扉が開くと、ふんわりと温かいお茶の香りが流れ込んできました。
彼女は慎重な手つきでトレイを運び、テーブルの上にそっと置きます。
白いカップの中で、紅茶の表面がゆらゆらと揺れていました。
飲めないと分かっていても、用意してくれるのが、少し嬉しい。
私は、床の真ん中から、そのテーブルの下へと影を移しました。
するとリーナは、きちんとスカートの裾をつまんで、床に向かって頭を下げたのです。
「改めまして、ありがとうございました、奥様」
私は、慌てて影をぴくりと跳ねさせました。
――そんな、大げさな。
そう言いたくて、ぐるりと小さな円を描きます。
リーナは、くすりと笑いました。
「照れていらっしゃいますね」
からかうような声色なのに、その目は本当に嬉しそうで。
「でも、本当に、奥様のおかげなんです。
あの晩、公爵様の熱が、ふっと引いた瞬間がありました」
彼女は、カップを両手で包み込むように持ちながら、窓の外をちらりと見ました。
「あのとき、額の布に、奥様の影がそっと重なっているのが見えました。
あれからすぐ、公爵様のお顔色が、少しだけ楽になって」
私は、床の上で輪郭を小さく揺らします。
――見られていたんだ。
嬉しいような、気恥ずかしいような、不思議な感覚でした。
「奥様は、きっと自覚していらっしゃいますよね」
リーナが、ふいに身を乗り出します。
「影のお姿でも、できることが、意外とたくさんあるって」
その言葉に、私はびくりと影を固めてしまいました。
しばし沈黙。
リーナは、いたずらを思いついた子供みたいな顔で、そっと床を指さしました。
「たとえば……そうですね。
あそこの、花瓶の影を、少し動かしてみていただけますか?」
部屋の隅の、小さなテーブルの上。
そこに置かれた花瓶の足元に、細長い影が伸びています。
私は、おそるおそる、そこへ向かいました。
自分の輪郭の一部を、花瓶の影に重ねて。
そっと、横へ押してみるように意識します。
すると、床に映る影だけが、するりとずれました。
もちろん、花瓶そのものは、微動だにしません。
けれど、リーナの瞳が、ぱっと見開かれました。
「わあ……やっぱり」
彼女は手を打ち、嬉しそうに笑います。
「すごいです、奥様!
やっぱり、ただの“落ちている影”じゃありませんよね」
私は、影を小さくすぼめました。
これまで黙っていただけで、少しずつ自分でも気づいていたのです。
使用人たちが運ぶ盆の影に重なれば、荷物が軽くなったように見えること。
階段で誰かがよろめいたとき、足元に飛び込めば、バランスが戻ること。
公爵様の額の影に手を重ねれば、ほんの少しだけ、熱が引いていくこと。
全部、気のせいだと言うには、出来すぎていました。
「それに、あのときの階段も……ですよね?」
リーナは、少し前の夜を思い出すように、天井を見ます。
「私、あやうく階段から落ちかけたのに、ふっと足が戻ったんです。
あれ、奥様が支えてくださったんですよね」
私は、影を大きくゆらゆら揺らしました。
――うん。
それが、私の精いっぱいの肯定でした。
リーナは、その揺れを見て、ぽろりと笑います。
「ふふ。やっぱり」
彼女はカップをソーサーに戻し、少し真剣な表情になりました。
「奥様。もしよろしければ、その力……もう少し、堂々と使っていきませんか?」
私は、意外さに影を固まらせます。
「公爵様のお仕事は、たくさんありますし、敵も味方も多いお立場です。
でも、公爵様の傍で、ずっと足元から見守っていらっしゃるのは、奥様だけですから」
彼女の言葉は、冗談めかしているようでいて、その実、とても真面目でした。
「たとえば、客人が来たとき。
足音の気配から、どこで何を話しているか、影なら分かりますよね」
私は、扉の隙間から伸びる廊下の影を思い浮かべました。
そこを行き交う靴音、裾の揺れ。
見ようと思えば、いくらでも見えてしまう。
「失礼な方が、公爵様に無礼を働きそうになったら。
前に、そっと影を出して、足を止めて差し上げることもできるかもしれません」
リーナは、少し楽しそうに肩をすくめます。
「もちろん、転ばせたりはしませんよ。
“偶然、足がもつれた”くらいに」
想像してしまって、私は影の輪郭をくすくすと震わせました。
――それくらいなら、できるかもしれない。
公爵様の役に立てるのなら、それが何より嬉しい。
私の影は、少しずつ大きさを増しました。
その様子を見て、リーナが満足そうに頷きます。
「ほら。こんなに頼もしい影夫人、他にはいません」
褒められ慣れていない私は、影をぐるぐると丸めてしまいました。
床の上に、小さな黒い渦ができてしまって。
自分でも、どういう形になっているのか分からなくなります。
「ふふ。照れていらっしゃいますね」
リーナは、よく笑う人です。
笑いながらも、ふいに表情を引き締めました。
「それに――」
彼女は、カップを両手で包みながら、少し声を潜めました。
「奥様は、公爵様のこと、お好きなんですよね?」
その一言で、私は派手に跳ねてしまいました。
影なのに、心臓がどきんと跳ねたような気がします。
テーブルの下から部屋の隅へ、隅から窓辺へ。
窓辺からベッドの下へと、あちこち忙しく動き回ってしまいました。
「図書室で、本のページを一緒にめくっていらしたときも。
月下の庭園で、公爵様の足元にそっと寄り添っていらしたときも。
そして、この前の看病の夜も」
リーナは、一つひとつ指を折っていきます。
「全部、見てましたから」
――見られていた。
私は、ベッドの下に逃げ込んだまま、黒い塊のようになってしまいました。
影なのに、顔から火が出そう、という表現がしっくり来るのが不思議です。
「もちろん、それが悪いことだなんて、少しも思っていません」
リーナは、椅子から立ち上がって、ベッドのそばまで歩いてきました。
足元の影を覗き込むように、そっと膝をつきます。
「むしろ、公爵様がお笑いになるときって、いつも奥様が近くにいらっしゃるんです。
夜の庭園も、図書室も、看病のときも」
彼女の声は、少しだけ震えていました。嬉しさで。
「私、初めて見たんです。
あの氷の公爵様が、あんなに柔らかい顔をなさるのを」
私は、少しだけ顔を上げる代わりに、影を天井のほうへ伸ばしました。
ベッドの下から、ベッドの外へ、そろそろと。
リーナの足元までたどり着いて、そこで止まります。
「だから、奥様の恋も、私に応援させてください」
リーナは、真剣な顔でそう言いました。
「影のお姿でも、絶対に幸せになれます。
だって、公爵様は、奥様をちゃんと“妻”として紹介してくださったじゃないですか」
社交界の夜会でのことが、胸の奥によみがえります。
あのとき、公爵様は、影の私を踏みつけようとした令嬢の足を支えて。
「足元にはお気を付けください。私の妻がいますので」と、冷たく、はっきりと言ってくれた。
あの瞬間の誇らしさと、心地よい震えが、今も消えずに残っています。
私の影は、静かに大きく広がりました。
部屋の半分ほどを覆うくらいに。
それを、「よろしくお願いします」と頭を下げたつもりで揺らします。
リーナの表情が、ぱっと綻びました。
「はい。恋の共同戦線、ですね」
彼女は、そう言って、そっと床に片手をつきました。
指先を伸ばし、私の影の上に、掌を差し出します。
「ここに、手を」
言われるまでもなく、私は影の手を伸ばしていました。
リーナの手の影に、自分の影の手を、そっと重ねます。
黒い輪郭と黒い輪郭が、ぴたりと重なりました。
「……あれ」
リーナが、少し驚いたように息を呑みました。
「冷たいはずなのに……なんだか、あったかい気がします」
実際には、きっと冷たいのでしょう。
光のない場所にしかいられない私の影は、温度なんて持っていないはずで。
それでも、「あったかい」と言ってもらえたことが、嬉しくて。
私は、握手をするように、そっと影の指を動かしました。
ぎゅっと、指を絡めるみたいに。
「頼りにしてますよ、奥様」
リーナは、目を細めて笑います。
「公爵様のことも、屋敷のみんなのことも。
そして何より、自分のことも、ちゃんと幸せにしてあげましょうね」
――自分のことも。
その言葉が、胸に落ちて、じんわりと広がりました。
これまで私は、「役に立ちたい」という一心で、ここにいさせてもらっているような気がしていました。
家族に捨てられ、居場所を失って。
せめて最後くらいは、誰かの役に立ってから消えたいと。
でも今、リーナは「幸せになって」と言ってくれた。
影であっても、幸せを願ってもいい。
そんな許しをもらえた気がしたのです。
私は、部屋いっぱいに影を広げました。
窓の光と混ざり合いながら、その輪郭をやわらかく揺らします。
ここは、もう私の居場所。
氷の公爵の足元と。
笑いながら背中を押してくれる侍女の傍と。
その二つに寄り添う影として、生きていきたい。
そう、静かに願いました。




