第12話 本と好みと、少しの笑顔
公爵邸の図書室は、朝の光がとてもきれいな場所だった。
高い天井まで届く本棚。
磨かれた床に、窓枠の影と本棚の影が、縞模様みたいに落ちている。
私はその影の一本になって、静かに背表紙を眺めていた。
厚い歴史書、軍記物、貴族の系譜。
難しそうな文字が並ぶ本が多いけれど、ところどころに、柔らかい色合いの装丁も混ざっている。
長い旅の話。
小さな町の恋物語。
お菓子やパン屋を舞台にした、甘い香りのしそうな物語。
影の私には、手を伸ばして本を取ることはできない。
それでも、背表紙を見て想像するだけで、心が少し弾む。
「公爵夫人」
ふいに、上からかけられた声に、私はびくりと揺れた。
振り仰ぐように見上げると、そこにはリーナがいた。
柔らかなエプロンをつけて、腕には数冊の本。
彼女は床に落ちる私の影に向かって、にこりと笑った。
「図書室は、お気に召しましたか?」
私は返事の代わりに、本棚の影をすっと移動する。
リーナは、私が眺めていた本棚に近づきました。
「お好きな本はありますか、公爵夫人。
ここにあるものでしたら、読み聞かせもできますし、どれか別のお部屋にお運びすることもできますよ」
好きな本。
そう問われて、私はしばらく迷いました。
戦争の年代記みたいなものは、きっと公爵様が読むのでしょう。
けれど、今の私が知りたいのは、そういう重い話ではなくて。
どこか遠くへ行ける話。
ここではない場所で、普通に笑っている人たちの話。
私は、本棚の中ほどにある、一冊の背表紙の前で影を止めました。
深い青の布張り。
タイトルには、旅と小さな出会いを連想させる言葉が並んでいる。
町から町へ歩きながら、見知らぬ人とパンを分け合う旅人の話。
そんな匂いのする本だった。
影をぴたりとそこに張り付かせると、リーナが気づいたように目を細めました。
「あら……これが気になられたんですね」
彼女はそっと本を抜き出し、表紙をこちらに見せてくれます。
タイトルを見た瞬間、胸の奥がほんの少しだけ熱を帯びました。
旅路。
パン屋。
猫。
言葉の並びだけで、心がふわっと軽くなる。
「静かで優しいお話なんですよ。
旅人が、行く先々で小さな出会いを重ねていくお話で……」
そこで、リーナはふと何かを思い出したように、ぽんと手を打ちました。
「そういえば、この本――」
彼女は表紙を撫でながら、少しだけ声の調子を落としました。
「公爵様も、よく読み返しておられました」
影が、思わず大きく揺れました。
気づけば、床に落ちる自分の形が、わずかに膨らんでいます。
「あっ……失礼しました」
リーナは慌てたように口元を押さえました。
「本のことですから、別に内緒にするようなことでもないんですけれど。
戦から戻られたばかりの頃、よくこの本を手にしておられて。
静かで、優しいお話だから、お気に入りなのかなって……勝手に思っておりまして」
戦から戻られたとき。
疲れ切った心で、この本を開いていた公爵様。
私が今、惹かれたのと同じ物語を。
同じページを、見つめていたのかもしれない。
そう思うと、胸の奥に、じんわりと温かいものが広がりました。
リーナは、私の影を見下ろして、ふわりと微笑みます。
「お二人は、どこかお好みが似ておいでなのかもしれませんね」
似ている。
その言葉が、くすぐったくて、嬉しくて、少しだけ怖かった。
私は照れ隠しのように、影を小さくすぼめてみせました。
リーナは、それを見てころころと笑います。
「では、この本は、こちらのテーブルに置いておきますね。
公爵様も、きっとまた手に取られますから。
そのときは、ご一緒に楽しんでくださいませ」
ご一緒に。
叶うなら、そうできたらいい。
同じ椅子に座って、同じページを覗き込んで。
同じ場面で、同じように笑えたら。
そんな贅沢な願いを、影の奥でそっと抱きしめました。
◇
夜の図書室は、昼とはまるで別の顔をしていました。
高い窓は暗く、代わりに壁にかけられたランプが、柔らかな光を投げています。
その光で、本棚と椅子と机の影が、ゆっくりと長く伸びていました。
私は、そのうちの一本として、机の脚から床へとそっと這い出します。
昼間、リーナが置いていってくれた本は、窓際のテーブルの上にありました。
ランプの光を受けて、青い表紙が少しだけ金色を帯びて見える。
私は、表紙の縁に落ちる細い影に身を重ねました。
ページを開くことはできない。
けれど、ここにいれば。
誰かがこの本を開いたとき、一緒にそこにいられる気がして。
そんなことを考えていた、そのときです。
静かな足音が、廊下から近づいてきました。
私は思わず、テーブルの影にするりと紛れます。
扉が開く音。
入ってきたのは、予想していた通りの人でした。
黒い上着に、少し乱れた灰色の髪。
淡々とした足取りで、彼――アークライト公爵様が、図書室へと入ってきました。
彼は部屋を一瞥すると、まっすぐに窓際のテーブルへ向かいます。
そして、そこに置かれた本を見つけると、ふっとほんの少しだけ目元を緩めました。
「……リーナの仕業か」
小さな独り言。
低い声が、夜の静けさの中に溶けていきます。
公爵様は椅子に腰を下ろし、青い表紙にそっと手を置きました。
その手が動いたとき、テーブルの下に落ちる影も揺れます。
私の影は、その揺れに合わせて、少しだけ伸びました。
「君も、ここにいたのか」
足元を見下ろした公爵様の瞳が、私を捉えました。
気のせいではなく。
本当に、きちんと見えている目でした。
私は返事の代わりに、テーブルの影から、彼の椅子の足元へと影を伸ばしました。
公爵様は、そんな私の動きを追いながら、本の表紙を撫でます。
「この本が、好きなのか」
問いかけに、私は大きく、こくりと頷くように影を揺らしました。
影に首はないのに。
それでも、そんなふうに見えるくらい、大きく。
公爵様の口元が、わずかに緩みます。
「そうか」
彼は本を開き、ぱらぱらとページをめくりました。
紙が擦れ合う音が、図書室に静かに響きます。
「私も、これを読むと、戦のことを少しだけ忘れられた」
その横顔には、ほんの少しだけ遠くを見るような影が差していました。
「辺境から戻ったばかりの頃、夜が静かすぎてな。
眠ると、どうしても戦場の匂いを思い出してしまう」
彼はページの端に指を置いたまま、視線を落としました。
「そんなときに、この本を読むといい。
旅先の知らない町で、焼きたてのパンを食べたり。
道端に座っている猫と遊んだり。
そういう場面が、やけに心地よくてな」
私の影は、そっと彼の足元へ寄り添いました。
きっと――あの頃の彼は、今よりずっと疲れていたのだろうと思います。
その手から、剣の重さが抜けきらないまま。
安心して眠ることもできない夜を、何度も越えて。
そんな夜に、この本がそばにあったのだとしたら。
私も、この物語が好きでよかったと思いました。
「君は、どの章が好きだ」
ふいに問いかけられて、私は少し迷いました。
けれどすぐに、心の中で答えが浮かびます。
旅人が、故郷のパンを思い出して泣いてしまう場面。
見知らぬ町のパン屋で、初めて食べるはずの味なのに。
ふとした香りが、遠い昔の朝を呼び起こして。
自分でも驚くほど、涙が止まらなくなる場面。
私は、その章の背番号を思い浮かべながら、本棚の影をするりと移動しました。
昼間、リーナが片付け損ねた別の本が、同じ棚に戻されずに積まれています。
その側面に落ちる数字の影を、私はなぞりました。
十一。
それを見た公爵様が、少しだけ目を細めます。
「十一章、か」
彼は本をめくり、目的のページを探し出しました。
指先が止まったところで、「ここか」と小さく言います。
ページの上には、故郷を遠く離れた旅人が、パンの香りで涙ぐむ描写が並んでいました。
「ここは……少し、胸が痛くなる場面だな」
公爵様はページを見つめながら、低く呟きました。
「私も、初めて読んだときは笑ったよ。
パンを食べて泣くなど、随分大げさだと思った」
そこで一度言葉を切り、視線を本から少しだけ外します。
「だが……今なら分かる気がする」
ランプの光が、灰色の瞳に小さく揺れました。
「匂いや味で、突然、昔の景色が蘇ることがある。
戻れない場所ほど、鮮やかに」
戻れない場所。
私の胸も、その言葉にきゅっと締めつけられます。
実家。
あの家に戻ることを望んでいるわけではないけれど。
それでも、朝の食卓や、窓から見えた庭の景色。
そういう小さなものたちが、もう二度と同じ形では手に入らないのだと考えると。
どうしようもなく、喉の奥が熱くなるのです。
「君も、家が恋しいのかもしれないな」
公爵様は、足元の影をそっと見下ろしました。
影の輪郭が、じんわりと揺れます。
恋しいか、と聞かれたら。
答えは、きっと「いいえ」でもあり、「はい」でもありました。
あの家そのものが恋しいわけではない。
けれど、「家」と呼べる場所を失ったのだという事実が、胸のどこかをじくじくと刺してくる。
そんな感覚です。
私は、影を小さく広げることで、どうにかそれを伝えようとしました。
公爵様は、私の揺れを見て、ごくわずかに口元を緩めました。
「……そうか」
その微かな笑みは、ほんの一瞬のことでした。
けれど、凍りついた湖の表面に、小さな波紋が走ったみたいに。
私の胸には、はっきりと刻まれました。
氷の公爵、と呼ばれる人。
冷たく、静かで、感情を外に出さない人。
そんな彼の唇が、確かに少しだけ、優しく曲がったのです。
私は、その瞬間だけで、一年分くらいのご褒美をもらった気がしました。
◇
どれくらいそうしていただろう。
公爵様が本を閉じ、静かに立ち上がります。
「そろそろ戻る。
続きは、また今度にしよう」
彼は本を丁寧にテーブルの端へ寄せました。
ランプの明かりが、その表紙と、テーブルの下に落ちる影を照らします。
「君も、疲れたら休め。
影でもな」
軽い冗談めいた一言に、私は思わず影を大きく揺らしました。
公爵様は、ほんの少しだけ肩をすくめて、図書室を後にします。
扉の近くで、リーナが慌てて頭を下げました。
「失礼いたします、公爵様。
お茶のお代わりを……」
「今夜はもういい。
図書室は、しばらくこのままで」
「かしこまりました」
公爵様が去ったあと。
扉が閉まる音を聞き届けてから、リーナはそっと図書室の中を覗き込みました。
窓際のテーブル。
そこに置かれた本。
そして、その足元で、まだ揺れている私の影。
「……本当に、笑っておられましたよね」
彼女はぽつりと呟きました。
返事を求めているわけではないのに、私は思わず影を小さく頷かせます。
リーナは、ぱっと表情を明るくしました。
「初めて見ました、公爵様のあんなお顔。
ねえ、公爵夫人。
きっと、奥様が来てくださってからですよ」
奥様。
そう呼ばれて、また胸がくすぐったくなりました。
でも、嫌ではありません。
むしろ、この屋敷でそう呼ばれるたびに、少しずつ、薄れていた輪郭が戻ってくるような気がするのです。
「……ガイルに報告しなくては」
独り言のように呟いて、リーナは小走りで部屋を出ていきました。
残された図書室で、私はひとり、窓際のテーブルの影に身を寄せます。
本当は。
本当なら。
同じ椅子に座って、同じページを覗き込みたかった。
笑った彼の横顔を、影越しではなく、隣から見上げたかった。
ページをめくる手に、そっと自分の手を添えてみたかった。
そんな贅沢を、心の奥の一番小さな引き出しにしまい込む。
叶わないと分かっているからこそ、簡単には取り出さないように。
けれど、確かにそこにあると、自分だけは知っていられるように。
ランプの灯りが少し揺れて、テーブルの影が長く伸びました。
その中に、私の影も溶けていく。
影の私と、氷の公爵。
分厚い本に挟まれた、一枚の栞みたいな夜。
同じ物語の、同じページを。
ほんの少しだけ、一緒にめくった気がして。
私はそっと、影の中で目を閉じました。




