第11話 影と魔術師
その朝、公爵邸の門前は、いつもより少しだけ騒がしかった。
馬車の車輪が止まる音。
御者が困ったように誰かを宥める声。
「だからだな、もっとこう、丁寧に走れと言っただろう!
この歳で揺らされ続けたら、骨が粉になるわ!」
耳に飛び込んできたのは、妙に通る老人の声でした。
私は玄関ホールの柱の影で、ひっそりとその様子を見ていました。
馬車から降りてきたのは、古びた黒いローブを纏った男です。
白髪まじりの髪はところどころ跳ねていて。
あごには手入れの行き届いていない無精髭。
けれど、その目だけは驚くほど鋭く光っていました。
「お、お客様……?」
迎えに出たリーナが、思わず声を裏返します。
隣でガイルさんが、いつもの無表情のまま一礼しました。
「お待ちしておりました、ハルド殿」
「全く待たせおって……いや、待たせたのはこっちか。
御者が道を間違えるからいかん」
老人はぶつぶつ言いながら、ローブの裾を払い、玄関ホールにずかずかと入ってきました。
その姿を、私は床の影の隙間からそっと覗き見ます。
「ずいぶん……個性的な方ですね」
リーナが小声で呟き、ガイルさんが小さく咳払いしました。
「腕は、確かです」
その言葉に、私は少しだけ胸を撫で下ろします。
この人が――私の呪いを調べる、宮廷魔術師。
◇
応接間に呼ばれた公爵様は、いつもより少しだけ表情を引き締めていました。
その対面に座るハルドという老人は、背もたれに深くもたれかかりながらも、目だけは生き生きしています。
「久しいな、ハルド」
「ほんとだ。あなたが辺境から戻ってきたとき以来だから……何年ぶりだ?」
「数えるのはやめておこう」
公爵様の低い声に、わずかな苦笑が混じりました。
どこか、古い友人を前にしたような空気です。
私は壁際の影に紛れて、その様子を見守っていました。
招かれたのは、私のため。
影になってしまった、この姿を。
どうにかして解く方法を探すため。
「さて」
ハルドが、興味津々といった様子で身を乗り出しました。
「影の呪いと聞いたが、本当かね?
それも、完全に影だけの存在になった者がいる、と」
「話は早い方がいいな」
公爵様は短く頷きました。
灰色の瞳が、一瞬だけ足元の影――つまり、私――へと向きます。
「ここにいる。彼女だ」
「……ふむ?」
ハルドが視線を落とし、床を凝視しました。
その眼光が、ぐっと私の影を射抜きます。
ぞわり、と。
背筋が逆立つような感覚が走りました。
影になっても、見られているという感覚は、なくならないのですね。
「これは……」
ハルドの唇が、ゆっくりと吊り上がります。
「素晴らしい。
完全な影の状態で意識を保っている個体など、記録の中でも数件しかない。
実物を目にできるとは……こいつは貴重な標本だ」
その言葉に、部屋の空気がぴんと張り詰めました。
公爵様の視線が、すっと冷たく細くなります。
「標本ではない」
低い声でした。
けれど、その一言で、部屋の温度が一度下がった気がしました。
「彼女は私の妻だ。
扱い方を誤れば、二度と呼ばない」
「おっと」
ハルドは肩をすくめ、扇子であおぐような仕草をしました。
「物の例えだよ、アークライト。
あなたの妻だろうと何だろうと、呪いは呪いだ。
私は呪いを見て、解き方を探す。
それが仕事だ」
そう言いながらも、その声色には、先ほどの軽さだけではないものが混じっていました。
長年、魔術と向き合ってきた人の責任感。
それを、私でも感じ取れるくらいには。
公爵様は、少しだけ目を伏せてから、短く言いました。
「分かっている。
だから、お前を呼んだ」
そのやり取りを見て、少しだけ安心しました。
この人は――私のことを、ちゃんと「妻」として守ろうとしてくれている。
影のままでも、そう呼ばれているという事実が。
ひどく心強く感じられました。
◇
「では、診せてもらおうか」
ハルドは立ち上がると、部屋の中央近くに移動しました。
私は、公爵様の足元からそっと離れ、彼の前へと影を伸ばします。
「ほう」
魔術師の目が、好奇心に輝きました。
いやな意味だけではなく、純粋に「知りたい」という欲の色。
「自分で動けるのか。
それに、揺れ方にも感情の偏りがある。
面白い」
面白いと言われて、いいのか悪いのか分かりませんが。
少なくとも、全くの無関心ではないのだと分かります。
ハルドはローブの内側から、小さな丸い板を取り出しました。
片面に細かな魔法陣が刻まれた、銀色の道具です。
「これは?」
公爵様が問うと、ハルドは得意げに笑いました。
「影の輪郭と濃度を可視化する魔道具だ。
最近ようやく完成してな。
まさかこんな早く役に立つとは思わなんだ」
床に膝をつき、彼はその板を私の影の上にかざしました。
ひやりとした気配が、影をなぞっていきます。
ぞくぞくと、細かな電流が走るような感覚。
「少し、くすぐったい」
心の中でそう呟くと、不思議なことに、影がふるっと震えました。
それを見たハルドが、「おや」と呟きます。
「反応するか。
やはり、通常の影よりずっと“生きて”いるな」
魔道具の表面に、淡い光が浮かび上がりました。
そこには、私の影の輪郭が、細かな線の集まりとして映し出されています。
ところどころ、線が薄くなっている部分がありました。
そこだけ、かすかに途切れそうになっていて。
私は、それを見て、胸がひやりと冷えました。
「ところどころ、薄いわね……」
いつの間にか、リーナも部屋の隅から覗き込んでいました。
ガイルさんも、珍しく眉をひそめています。
「どうだ」
公爵様の声が、静かに落ちました。
「診たところ、どのような呪いになる」
「焦るな焦るな」
ハルドは、楽しそうなのか真剣なのか分からない顔で、魔道具を操作しました。
次の瞬間。
私の影から、ふわりと何かが浮かび上がります。
細く黒い糸のようなものが、床から空中へ伸びていきました。
たくさん。
何十本も。
それらは天井近くで絡み合い、見えない何かに繋がっているようです。
「……っ」
自分の体の中から、何かを引きずり出されたような感覚に。
私は思わず縮こまりました。
影がきゅっと細くなります。
ハルドは、その様子をじっと見つめていました。
「ふむ。
想像以上に、手が込んでいるな」
「どういうことだ」
「影だけを呪ったように見えて、実際には“存在”そのものを縛っている。
影は、その表れに過ぎん」
ハルドは、指先で黒い糸の一本に触れようとします。
そのたびに、私の影がぴくりと反応しました。
「痛い、というより……引っ張られる感じかね」
聞かれて、私は影を小さく揺らしました。
その意味を、彼はすぐに理解したようです。
「そうか。
つまり、この糸は君の“輪郭”だ」
輪郭。
人としての、私の形。
それが、目に見えない場所で縛られているのだとしたら。
背筋に、じわじわと冷たいものが広がります。
「簡単に言えばな」
ハルドは、黒い糸が絡まる様子を見上げながら言いました。
「もともと君の中にあった“光”を削って、そのぶん影を濃くしている。
光を奪えば、影だけが残る。
だが、影が完全に消えれば――君という存在も、跡形もなく消えるだろう」
影が、ぞくりと震えました。
分かりやすい言葉でした。
だからこそ、残酷なほどよく分かってしまいます。
私の中にあった光。
笑っていた日々。
家族のことを信じていた、愚かな私。
その全部を削り取った果てに、今の私がいるのだとしたら。
「……期限は」
公爵様の声が、いつもよりさらに低くなりました。
「一年だと言った。
それは、どれほど正確だ」
「おや、もう話をしていたのか」
ハルドは、少し驚いたように振り返りました。
「あなたがそう決めたのだろう?
さすがだ。
私が見立てても、おおよそ一年だ」
「おおよそ、では困る」
「そんなことを言われてもな」
魔術師は肩をすくめました。
「呪いというものは、きっちり日付を教えてくれるような親切な代物じゃない。
だが、影の薄まり方、糸の摩耗具合を見れば、限界は読める」
彼は魔道具の光を少しだけ強めました。
黒い糸のうち、いくつかが、ところどころ擦り切れています。
「今の状態なら、持って一年。
雑に扱えば、もっと早まるかもしれんがな」
部屋の中が、一瞬、しんと静まり返りました。
リーナも、ガイルさんも、息を飲んでいます。
私は――影のまま、どこまでも沈んでいくような気持ちでした。
一年。
それは、公爵様との契約で、すでに決まっていた期限。
けれど今、その言葉が、物語の都合ではなく。
本当に、命の残り時間として突きつけられたのです。
◇
「ただし」
ハルドの声が、その沈黙を切り裂きました。
彼は、黒い糸から視線を外し、今度は私の影そのものをじっと見つめます。
「面白いのは、ここからだ」
「面白い、で済む話ならいいが」
公爵様の冷ややかな突っ込みにも構わず、魔術師は続けました。
「この呪い、純粋な闇だけで編まれているわけじゃない。
別の魔術が、干渉している」
「……干渉?」
公爵様が、僅かに眉を動かしました。
「そうだ。
闇だけなら、もっと早く君は消えていたはずだ。
だが、糸の一部に“ほつれ”がある」
ハルドは、黒い糸の中から、微かに淡い光を帯びた部分を指さしました。
よく見ると、ほんの一部だけ、黒の中に銀色の筋が混ざっています。
「これは、誰かが君を守ろうとしている証拠だ。
呪いの流れを、少しだけ別の方向へそらしている。
完全に消されないように、踏ん張っている……そんな感じだな」
誰かが、守ろうとしている。
その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられました。
誰もいない地下室で、影になったあの日。
「せめて、誰かひとりでいいから、私を忘れないで」と願ったとき。
あの願いは、本当に誰かに届いていたのでしょうか。
それとも――
亡妻の部屋の前で感じた、もうひとつの影の気配。
扉の向こう側で、こちらを見ていた誰か。
その存在が、今も私を支えてくれているのでしょうか。
「つまり、こういうことだ」
ハルドは、黒い糸と銀の筋が絡む様子を、指先でなぞりました。
「この呪いは強力だが、完全なものではない。
どこかに“綻び”がある。
そして、その綻びを広げているのは、君を守ろうとしている別の力だ」
公爵様の視線が、わずかに鋭くなります。
「解ける、ということだな」
「簡単に、とは言わん。
だが、まったく希望がない呪いではない」
ハルドは、口元に薄い笑みを浮かべました。
「あなたの言う一年という期限は、ただの死刑宣告じゃない。
それまでに解くかどうかを決めるための猶予だ。
そのつもりで動くなら、間に合うかもしれん」
間に合うかもしれない。
その言葉は、薄い糸のような希望でした。
けれど私は、その糸に、どうしても手を伸ばしたくなりました。
たとえこの手が、今は影でしかないとしても。
◇
診察が終わり、黒い糸はすうっと床に吸い込まれていきました。
魔道具の光も消え、部屋にいつもの明かりだけが戻ってきます。
ハルドは、立ち上がると、少しだけ腰をさすりました。
「年寄りに床仕事をさせるものじゃないな」
「させた覚えはないが」
公爵様が、半ば呆れたように返します。
そのやり取りを見ているだけで、張り詰めた心が少し和らぎました。
「で、あなたはどうするつもりだ、アークライト」
ハルドは、真面目な眼差しに戻って問いかけました。
「一年。
私の見立てでは、それがこの娘の限界だ。
それまでに、呪いを解く方法を探すか。
それとも――」
「他の選択肢はない」
公爵様の答えは、迷いがありませんでした。
「解く。
そのために、お前を呼んだ」
「はは。
相変わらず、簡単に言う」
ハルドは、肩をすくめながらも、目の奥に笑みを宿しました。
「いいだろう。
本気でやるか」
その宣言を聞いて、私の影は、ほんの少しだけ大きく膨らみました。
怖い。
一年という言葉の重さは、確かに怖い。
けれど、それを正面から口にされて。
それでも「解く」と言い切ってくれる人がここにいるなら。
その怖さと、一緒に向き合ってもいいのかもしれません。
◇
その日の夕暮れ。
私は、いつものように自分の部屋の窓辺に影を伸ばしていました。
西の空が、ゆっくりと橙色から群青に変わっていきます。
窓枠の影は長く伸び、その先に、私の影が細く重なっています。
薄く、長く。
まるで、これから先の一年を、そのまま形にしたようでした。
一年。
長いようで、短い。
十代の頃の一年は、永遠みたいだと、昔は思っていました。
なのに今は、その一年が、あまりにも心もとない。
それでも。
期限があるからこそ、考えなければいけないことがあります。
この一年を、どう使うのか。
ただ怯えて過ごすのか。
それとも――
影のままでも、誰かの役に立とうとするのか。
公爵様の仕事を見守ること。
リーナやガイルさん、屋敷の人たちの毎日を、少しでも穏やかにすること。
夜の庭園で、公爵様と同じ月を見上げること。
亡妻の部屋の前で揺れる影の意味を、自分なりに考えること。
影の私にできることは、小さくて、ささやかなことばかりです。
それでも、何もしないよりは。
「……一年」
声にはならないけれど、心の中でそっと呟きました。
あと一年。
影のままでも。
誰かの心に、何かを残せるでしょうか。
公爵様の灰色の瞳に。
この屋敷の人たちの記憶のどこかに。
たとえ、私という存在が世界から消えてしまっても。
「あのとき、影が寄り添っていた」と、ふとした瞬間に思い出してもらえるような。
そんな一年にできたらいい。
窓の外、空がすっかり夜に変わりました。
月が昇り、庭園の木々が長い影を落とします。
私の影も、壁から床へ、床から廊下へと、そっと伸びていきました。
期限付きの命だとしても。
この一歩一歩が、誰かのために続いていけばいい。
そんなことを思いながら。
私は、細く長く伸びた自分の影を見つめていました。




