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婚約破棄された“影だけの令嬢”は、氷の公爵に拾われ溺愛されています  作者: しげみちみり


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第10話 触れかけた手

 アークライト公爵様の執務室は、いつも紙の匂いがします。


 インクと蝋と、ほんの少しだけ疲れた人の匂い。


 窓から差し込む光の中で、私は窓枠の影に紛れながら、その背中を見つめていました。


 大きな机の上には、今日も書類が山のように積まれています。


「本日分の辺境からの報告は、この束で最後でございます」


 ガイルさんが、きっちり揃えた紙束を机の端に置きました。


 公爵様は、短く「受け取った」とだけ答えます。


 灰色の瞳は、相変わらず淡々としていました。


 けれど、ペンを持つ指先に、わずかな震えがあるのを、私は見逃しません。


「少し、お休みになってはいかがでしょう」


 ガイルさんが、慎重に言葉を選びながら進言します。


「ここのところ、連日でございます。

 辺境の状況が落ち着きましたら、一晩ぐらいは」


「辺境が落ち着くのは、いつだ」


 公爵様は、わずかに口元を歪めました。


 笑っているようにも見えるし、自嘲にも見えます。


「今、この報告を後回しにすれば、その分だけ届くのが遅れる。

 ならば、今片付けておいた方がいい」


「しかし――」


「大丈夫だ」


 その言葉は、私にも向けられたような気がしました。


 窓辺の影で、心配そうに揺れた私の影に、公爵様の視線が一瞬だけ触れたからです。


「少し疲れているだけだ」


 そう言って、彼はまた紙に視線を落としました。


 ガイルさんは、それ以上は何も言いませんでした。


 静かに一礼して、執務室を後にします。


 重い扉が閉まる音が響いて。


 部屋には、公爵様と私の影だけが残りました。


     ◇


 窓から差し込む夕暮れの光が、机の上の書類を淡く染めていました。


 ペン先が走る音だけが、一定のリズムで続きます。


 インク壺の影に紛れて、私はじっと彼を見ていました。


 ペンを持つ手が、少し重そうです。


 視線も、段々と霞んでいるのが分かりました。


 ――休んでください。


 心の中で、何度もそう呟きます。


 けれど、当然ながら、この声は誰にも届きません。


 私が誰かを止めたいと願えば願うほど。


 床に落ちる影だけが、落ち着きなく揺れるだけでした。


 公爵様は、その揺れに気づいたのか、ふと顔を上げました。


 灰色の瞳が、窓辺の方へと向きます。


「……お前まで心配そうな顔をするな」


 少しだけ、困ったような笑み。


「大丈夫だ。こう見えて、まだ倒れたことはない」


 そう言う声が、かすかに掠れていました。


 その掠れた響きが、逆に不安を煽ります。


 倒れたことがない人は、初めて倒れるときの危うさを知らない。


 そんな言葉を、昔どこかで聞いた気がしました。


 私の影は、机の足元へとじりじり近づいていきます。


 何もできないと分かっていても。


 せめて近くにいたいという気持ちだけが、私を動かしていました。


     ◇


 そのときでした。


 公爵様の手から、ペンが抜け落ちました。


 小さな音を立てて、机の上を転がります。


 インクのしずくが、書類の端に黒い染みを落としました。


「……っ」


 彼は、反射的にそれを掴もうとして、椅子ごと後ろへ体重をあずけてしまったのでしょう。


 背もたれが大きくきしみ、そのまま倒れそうになります。


 重い椅子が、床からわずかに浮き上がりました。


 時間が、少しだけゆっくりになったように感じました。


 椅子の影が揺れて、机の影とぶつかります。


 公爵様の影も、ふっとバランスを崩して伸びました。


 ――いけない。


 考えるより先に、体が動いていました。


 影しかないはずの私の“体”が、机の下から飛び出します。


 公爵様の影の前へ、勢いよく滑り込みました。


 これまで何度も、影同士を重ね合わせてきました。


 階段で彼を支えた、あの夜のように。


 けれど今回は、それとは明らかに違う感覚がありました。


     ◇


 その瞬間。


 これまで平らだったはずの私の影の中に。


 くっきりとした「輪郭」が生まれました。


 腕の形。

 手の形。


 指が、ひとつひとつ分かるほどの、はっきりとした形。


 それは、影の中からいきなり引き上げられたように、立体感を持って現れました。


 ぐん、と前に伸びたその手が。


 倒れかけた公爵様の腕を、確かに掴みます。


 硬い布の触感。


 軍服の下に隠れていた、筋肉の強さ。


 人の皮膚の温度。


 それらが、一気に私の中に流れ込んできました。


 熱い、と思いました。


 ずっと冷たい世界にいた私には、その体温が信じられないくらい鮮烈で。


 指先が、痺れるほどでした。


 私は今、この人に触れている。


 影ではなく、人として。

 ちゃんと、手を伸ばして。


 そう理解した瞬間、心臓がどくんと大きく鳴った気がしました。


     ◇


 公爵様の体が、ぴたりと止まりました。


 完全に倒れる前に。


 椅子の脚が床を捉え、ぎりぎりのところで体勢が持ち直します。


 彼の腕に添えた私の“手”に、ぐっと重みがかかりました。


 その重さを、私は確かに受け止めました。


 押し返すように力を込めると。


 彼の体が、ゆっくりと元の位置へ引き戻されていきます。


 息が、喉から漏れました。


 声にはならないはずの息が、今だけは確かな音になったような気がしました。


 公爵様の灰色の瞳が、ふっと見開かれました。


 彼の視線が、自分の腕に向かいます。


 そこには、もちろん私の姿などありません。


 けれど、私の“手”は、確かに彼の袖を掴んでいました。


 彼の中にも、その感触が伝わったのでしょう。


「……誰だ」


 小さく漏れた声は、驚きよりも、信じられないという戸惑いの色が濃くて。


 それから、ほんの一拍置いて。


「ルミナ……なのか」


 私の名前が、執務室の静けさの中に落ちました。


 その音が、胸の奥にまっすぐ届いて。


 私の影は、大きく震えました。


     ◇


 名前を呼ばれた瞬間。


 掴んでいたはずの腕の感触が、ふっと薄れていきました。


 さっきまで明確だった指先の輪郭も、きれいに溶けて。


 私の“手”は、また平らな影へと戻ってしまいます。


 さっきまで燃えるように熱かった体温も、跡形もなく消えて。


 残ったのは、ほんのりとした痺れだけ。


 それでも私は、その痺れにしがみつくようにして、床に貼りついていました。


 公爵様は、しばらく自分の腕を見つめていました。


 それから、ゆっくりと視線を床へ落とします。


 机の下に広がる影。


 自分の影と、窓から差し込む光が作る影と。


 そして、少し輪郭の乱れた、私の影。


 彼は、それらをひとつひとつ確かめるように見つめました。


「……ルミナ」


 今度の呼び方は、さっきよりもずっと確信に満ちていました。


 私の影は、小さく波打ちます。


 それが返事になっていると信じたかった。


 どうか、さっきの“手”が、私のものだったと覚えていてほしい。


 そんな願いが、胸の奥から溢れてきました。


     ◇


 ちょうどそのとき、ノックの音がしました。


「公爵様、そろそろお茶をお持ちしてもよろしいでしょうか」


 ガイルさんの声です。


 公爵様は、わずかに間を置いてから、「入れ」と答えました。


 扉が開き、トレイの上に乗ったポットとカップが運ばれてきます。


「……失礼いたします」


 ガイルさんは、机の隅にそっとお茶を置きました。


 公爵様の顔色を見て、眉を寄せます。


「少し、お顔色が優れませんが。

 本当に大丈夫でいらっしゃいますか」


「大げさだな」


 公爵様は、いつもの冷静さを取り戻した声で答えました。


「少し立ちくらみをしただけだ。

 椅子から落ちかけたが、まあ……助けが入った」


 その「助け」という言葉に、私の影がびくりと揺れました。


 ガイルさんは、きょとんとした表情になります。


「リーナでも、どなたかがいらしていたのですか?」


「いや」


 公爵様は、視線を足元へと落としました。


 そこには、私の影が、机の影に寄り添うように広がっています。


「少しばかり、心強い影がな」


 意味が分からない言葉のはずなのに。


 それでも、ガイルさんは、それ以上追及しませんでした。


 静かな主人には、静かな事情がある。


 長年仕えてきた人にしかできない、絶妙な退き際でした。


「では、お茶だけ置いて失礼いたします」


 ガイルさんが退出すると、執務室は再び静寂に包まれました。


 公爵様は、カップには手を伸ばさず。


 代わりに、ペンを落としたあたりの床を、しばらく見つめていました。


「さっきのは……お前か」


 誰にも聞かれないような小さな声。


 それでも、私にははっきりと届きました。


 私は、全力で「はい」と言いたくて。


 影の輪郭を、必死に揺らしました。


 それを見て、公爵様の口元が、ほんの少しだけ柔らかくなります。


「そうか」


 穏やかな灰色の瞳が、ほんの一瞬だけ、優しい光を宿しました。


 それだけで、胸がいっぱいになります。


     ◇


 その夜。


 私は、自分の部屋の絨毯の上で、ずっと先ほどの感触を反芻していました。


 腕を伸ばしたときの、重さ。


 袖を掴んだときの、布のざらりとした感触。


 何よりも――


 誰かの体温を、こんなにはっきりと感じたのは、いつ以来だったでしょう。


 婚約破棄のあの日。


 人々の視線は、私を突き刺してきましたが。


 誰の手も、私を支えてはくれませんでした。


 そのあと、家族は私を切り捨て。


 継母の導いた地下室では、冷たい呪文の声だけが響いていました。


 影になってからは、誰かに触れることも、触れられることもなく。


 世界のすべてが、硝子越しの景色のように遠くにありました。


 それなのに、今日。


 私は確かに、誰かを支えました。


 落ちかけた人を受け止めて。

 その人の体温を受け止めて。


 そして、その人が。


「ルミナ」と名前を呼んでくれました。


 その人が、公爵様であったことが。


 どうしようもなく、嬉しかったのです。


 あの瞬間だけなら、私の存在は、ただの“呪い”ではなかった。


 誰かの役に立てた。


 誰かを支えられた。


 その事実が、影だけになった私の心を、じんわりと温めてくれました。


 この形のままでも、いいのかもしれない。


 一瞬だけ、そんな考えが胸をよぎります。


 人としての身体を取り戻せなくても。


 声を持てなくても。


 この屋敷の影として、公爵様の傍にいて。


 倒れそうになったときに、何度でも支えられるなら。


 それだけで、十分なのかもしれないと。


 でも、すぐに、その考えに自分で首を振りました。


 影のままでいることは、きっとこの人が望んでいる未来ではない。


 彼は、期限を一年と定めました。


 それは、私を諦めるための時間ではなく。


 生かす方法を探すための時間だと、信じたい。


 だから。


 今はまだ、影のままでも。


 いつかきっと、この手で、ちゃんと彼に触れたい。


 そう願うことぐらいは、許されるでしょうか。


 触れてしまったのは、どちらの手だったのでしょう。


 私の影が先に伸びたのか。


 それとも、公爵様の心の方が、先にこちらへ歩み寄ってくれていたのか。


 答えは分かりません。


 ただひとつだけ、確かなことがあります。


 あの執務室で、倒れかけた彼を支えた瞬間から。


 私の心は、もう、とっくにこの人に触れていたのだということだけは。

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