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婚約破棄された“影だけの令嬢”は、氷の公爵に拾われ溺愛されています  作者: しげみちみり


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第1話 婚約破棄の瞬間

 天井から吊るされたシャンデリアが、何十もの光をこぼしていました。

 磨き上げられた大理石の床に、その光が揺れて、色とりどりのドレスの裾と絡み合います。


 王都でも有数の社交場。

 侯爵家の長女として、この夜会に招かれるのは名誉なことのはずでした。


 けれど私は、壁際でグラスを両手で持ったまま、ひたすら目立たないように立っていました。


 真紅のドレスに、きらびやかな宝石。

 そんなものが似合うのは、真ん中のフロアで笑っている令嬢たちであって、私ではありません。


 鏡を見るたびに、私は自分のことを「地味で、取り柄のない令嬢」だと思います。

 髪はくすんだ栗色で、瞳も同じ。顔立ちも平凡。

 継母にはよく「もう少し華やかなら、嫁ぎ先にも困らなかったのに」と嘆かれてきました。


 それでも今日だけは、胸の奥で小さな期待を抱いていました。


 これでようやく、家の役に立てる。

 これで私は、いらない子ではなくなる。


 今日の夜会は、王太子代理殿下アルバート様との婚約披露の場です。

 侯爵家にとってもこの上ない縁談で、父はここ数か月、忙しそうに動き回っていました。


 私のことを見ていてくれたわけではありません。

 ただ、侯爵家という家そのものの安泰のためです。


 それでもいい、と私は思っていました。

 駒でもいいから、役に立てるのなら。


「ルミナ様、緊張なさっているのですか」


 小声で話しかけてきたのは、幼い頃から仕えてくれている侍女のミアでした。

 彼女は私より少し背が低く、心配そうに私の顔を覗き込んでいます。


「少しだけね。でも、大丈夫よ」


 笑ってみせると、ミアは安堵したように胸に手を当てました。


「本当に、よかったですね。これでお屋敷の中でも、誰もお嬢様を悪く言えなくなります」


 ミアの言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなります。


 そう、もう「役立たずの娘」と陰でささやかれなくて済む。

 そう思うことで、私はどうにかそこに立っていられました。


 ふと視線を落とすと、足元に伸びる自分の影が見えました。

 シャンデリアの光を受けた影は、床の上で細く揺れています。


 揺れ方が、ほんの少しだけ、周囲の人々の影と違う気がしました。


 けれど、それが何を意味するのか、このときの私は知りませんでした。


 やがて、会場の中央に置かれた小さな壇の上に、司会役の老紳士が立ちました。

 手には、声を増幅させる魔道具の杖。


「皆さま、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。本日は、新たな縁を祝う特別な夜でございます」


 ざわめきがすっと静まり、視線が一斉に壇上へと向かいます。

 私の心臓も、その視線の重さに合わせて、どくん、と音を立てました。


「王太子代理殿下アルバート・ラグランジュ殿下と、ルミナ・エルグレイン侯爵令嬢の――」


 そこで一度、老紳士は言葉を区切りました。

 私の名前が響いた瞬間、胸がきゅっと締め付けられます。


「婚約披露の場となります」


 拍手が会場に広がりました。

 私はミアに背中を押されるようにして、一歩、また一歩と壇の方へ進みます。


 父が、ぎこちない笑顔を浮かべながら私を見ています。

 その視線には、父としての情よりも「これで我が家も安泰だ」という計算が透けていました。


 それでも、私は微笑みを返します。

 駒であることを、今さら嘆くつもりはありませんでした。


 壇上にはすでに、アルバート様が立っていました。

 灰色がかった金髪に、整った顔立ち。

 騎士として鍛えられた体つきで、いかにも「王家の血筋」という雰囲気をまとっています。


 私は膝を少し曲げて礼をし、隣に並びました。


「本日は、お招きいただき光栄です、殿下」


「……ああ」


 短い返事でした。

 その声は、以前よりも少し冷たく聞こえた気がしました。


 気のせいだと、自分に言い聞かせます。

 今日の彼は、きっと緊張しているのだと。


 老紳士が杖を口元に近づけ、改めて会場に向かって言いました。


「では殿下から、皆さまにお言葉を」


 アルバート様は一歩前に出ました。

 杖を受け取り、ゆっくりと会場を見渡します。


 すっと、空気が張り詰めました。


「本日は、このような場を設けていただき、感謝する」


 低くよく通る声が、広間の隅々まで響きます。

 私は横顔を見上げていました。


 次に続く言葉を、誰もが同じように想像していたと思います。

 この婚約がどれほど喜ばしいものか、未来への期待を語る言葉を。


 けれど、彼の口から出てきたのは、まったく別のものだったのです。


「だが」


 たった二文字で、会場の空気が変わりました。


「この婚約は、白紙に戻させていただく」


 耳を疑いました。


 一瞬、理解が追いつかず、私は自分の名前を思い出そうとするみたいに、頭の中を空っぽにして立ち尽くしました。


 白紙。

 戻す。


 それは、今この場で、私との婚約をなかったことにする、という意味で。


「ど、どういう……ことでしょうか、殿下」


 老紳士の声が、かすかに震えていました。

 会場のあちこちから、押し殺したざわめきが漏れ始めます。


「理由は簡単だ」


 アルバート様は、まるで用意された台詞を読み上げるように淡々と言いました。


「ルミナ・エルグレイン侯爵令嬢は、王家の妃にふさわしくない」


 私の名が、また広い会場に響きます。

 体の芯が、ぞくり、と冷えました。


「ふさわしく……ない」


 自分の口の中で、その言葉を繰り返してみます。

 味がしませんでした。


「彼女の素行には問題がある。婚約が決まってからも、礼節に欠ける振る舞いが多く見受けられた」


 覚えのない非難に、手が震えました。


 素行不良。

 礼節に欠ける。


 私はむしろ、人よりも気をつけてきたつもりです。

 大きな声を出さないように。人を押しのけないように。

 継母に叱られないように、いつも息を潜めて生きてきました。


「それに」


 アルバート様の視線が、一瞬だけ私の足元をかすめました。


「占い師によれば、彼女は『禍を呼ぶ影を持つ女』だという」


 禍。

 影。


 ざわ、と会場の空気が揺れました。


「彼女の周囲では、不吉な事故が続いている。召使いが階段から落ちた件も、庭師が突然の病に倒れた件も。すべて、彼女の影が災いを呼んだのだと」


 そんなこと。


 胸の奥が、ぎゅっと掴まれたように痛みました。


 召使いが階段から落ちたのは、私が何度も注意したにもかかわらず、急いで駆け上がろうとしたからです。

 庭師だって、長年無理をして働き続けた結果、倒れてしまったと聞いています。


 私の影が、何をしたというのでしょう。


 言い返したい言葉は、喉まで込み上げてくるのに。

 舌が、貼りついたように動きません。


 視線を感じて振り返ると、下手の席で継母が口元に手を当てていました。


「ああ……なんてこと。そんな噂があったなんて、知りませんでしたわ」


 まるで初めて知ったかのような顔です。

 けれど、その目はどこか冷静で、計算高い光を宿していました。


「殿下、どうか誤解なさらないでくださいませ。あの子は、昔からどこか不思議なところはございましたけれど……決して、悪い子ではないのです」


 一見すると私をかばうような言葉。

 けれど「不思議な子でして」という一言が、会場に新たなざわめきを生みます。


 隣の席で、異母妹のセレスが涙を浮かべていました。


「お姉様は、きっとお疲れだったのよね。きっと、自分でも気づかないうちに、周りを困らせてしまっていたのかもしれないわ」


 優しげな声音。

 でもその言葉は、私ひとりを「原因」に仕立て上げる刃です。


 父は、席を立って壇に近づき、深々と頭を下げました。


「殿下。この度は、愚かな娘がご迷惑をおかけいたしました」


 愚かな娘。


 父が私をそう呼んだのは、これが初めてではありません。

 けれど、こんなにも多くの人の前で口にされたのは、初めてでした。


「侯爵閣下、お顔をお上げください」


 アルバート様の声は、どこまでも冷静でした。


「あなた方に責任はない。問題は、あくまでルミナ嬢自身にある」


 私の全身から、血の気が引いていくのが分かりました。


 周囲からの視線が、熱を帯びて突き刺さります。


「やはりね」「あの地味な娘が」「事故が多いと聞いていた」


 小さなささやきが、嫌でも耳に入ってきました。


 それでも、私は声を出さなければならないはずでした。


 違います、と。

 私はそんな人間ではありません、と。


 けれど、足元の床が突然遠くなったような感覚に襲われ、膝が震えます。

 息がうまく吸えません。


 視線を落とすと、足元の影が見えました。


 私は、震える足を少しだけ引きました。


 その瞬間。


 影が、半拍遅れてついてきたのです。


 まるで、私とは別の意志を持つ生き物のように。


「え……」


 思わず小さく声が漏れましたが、誰も気づきませんでした。

 誰の目も、壇上の王太子代理と、頭を下げる侯爵と、その家族に向けられています。


 アルバート様の背後で、ふとフードを深くかぶった人物の影が揺れました。

 顔は見えません。

 けれど、その影が彼の影と重なり、一瞬だけ不自然な形を作ったように見えました。


 瞬きをしたときには、もう元の形に戻っています。


 これは、夢なのかもしれない。


 現実感が遠のいていく中で、私はそんなことを考えていました。


「以上の理由から、私はこの婚約を破棄する。ルミナ・エルグレイン侯爵令嬢との縁談は、なかったこととしてほしい」


 宣言と同時に、会場の空気がぱん、と弾けるようにざわめきました。


 政略が動いたのだろう。

 別の有力貴族との縁談が決まったのだ。


 そんな囁きが聞こえてきます。


 私は、壇上の上でただ立ち尽くしていました。


 誰も、私を見ていないようで。

 皆が、私だけを見ているようでもありました。


 老紳士が、必死に場を取り繕おうと、どこかとつながっていない声で別の話題を口にし始めます。

 音楽家たちは戸惑いながらも演奏を再開し、さっきまで止まっていたダンスが少しずつ戻っていきました。


 世界は動いているのに、私だけが、置き去りにされたみたいでした。


 その後のことは、正直よく覚えていません。


 私は使用人に手を取られ、会場の隅にある控え室に押し込まれました。


「お嬢様。今夜のうちにお屋敷にお戻りくださいと、旦那様から。馬車の用意はできておりますので」


 伝言だけを残し、使用人は深々と頭を下げて出ていきました。

 扉が閉じる音が、やけに大きく響きます。


 小さな部屋の中には、誰もいませんでした。


 私はゆっくりと窓辺へ歩み寄ります。

 窓ガラスの向こうでは、夜会の光が遠く瞬いていました。


 見上げると、満ちかけの月が淡く光っています。


「……せめて」


 誰にも聞こえないような声で、私はつぶやきました。


「せめて、普通の人間として扱われる人生が、欲しかったな」


 侯爵家の長女として生まれたことも。

 地味だと言われ続けたことも。

 継母や異母妹と比べられたことも。


 全部、飲み込んできたつもりでした。


 それでも、最後の望みは、ただひとつ。


 人として、見てもらえること。


 それすら叶わないのだと、思い知らされた夜でした。


 窓に映る自分の姿は、ドレスも髪飾りも、さっきまでと何ひとつ変わりません。

 けれど、その足元に伸びる影だけが、妙に長く、細く歪んで見えました。


 それは、夜会場の光の届かない先へ先へと伸び、暗闇の中に溶けていくようでした。


 このときの私には、自分が人並みどころか、人間としてさえ見られなくなる未来など想像もしていなかった。

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