第7話「春の二号樋――“呼ばない勇気”の試験運転」
朝靄の峠道に、昨日据えた樋一号が澄んだ音を立てていた。雪代の流れは少し強くなっていたが、樋はまだ揺らがず、水はまっすぐ谷へ落ちていく。
私は白墨で新しい線を引き、二号樋の位置を印した。今日は試験運転――“設計だけ”ではなく、実際に組み立てる。
「頼む、木口を押さえて」
「引き受ける。半分」
レオンが支えるあいだに、私は金具を打ち込んだ。ヘーデと粉屋のローレンが木材を支え、ユルクの部下たちが石を運ぶ。
板がはまるたび、水の音が変わる。音は鋭さを減じ、川の舌が柔らかくなる。生活の音に変わる瞬間だった。
「これで二号樋は……」
言いかけて、私は息を飲み込む。未然形を避ける。
「今日、二号樋は水を通しました。――記録します」
◇
昼。兵舎では休息帯が二日目に入った。
扉に貼られた札――〈この二刻、呼ばない〉。昨日は一度だけ札が破られたが、今日はまだ小石箱が空のままだ。
私は兵の一人に尋ねる。「落ち着きますか?」
「最初は、手持ちぶさたで逆に落ち着かない。でも……呼ばれない勇気って、こういうことなんですね」
彼の言葉を記録帳に写す。〈休息帯=呼ばれない勇気〉。勇気という言葉が、休むことに似合うのを初めて知った。
◇
午後、家からの返文が窓口に届いた。封は薄く、文は短い。
『春欄の写し、受領。夏欄の設計を求む。十日以内に。』
ハーゼが眉をひそめ、「早い要求ですね」と呟く。
私は板の右端に新しい欄を描いた。〈夏の欄〉――とりあえず空白だけ。空白は怖い。でも、今日だけ欄で埋められる。
「今日は設計だけ。――“夏の欄”に、名前を置く」
名前を置くだけで、空白は地図になる。レオンが隣で頷く。
「頼む。夏欄に、家の負債を一つ書いてくれ」
「引き受けます。〈夏:寄進の継続方式〉」
指輪がかすかに光った。
◇
夕刻、食堂で作戦の確認をした。マルタは台所から顔を出し、「夏欄に菓子の在庫も入れときなさい」と言う。ローレンは「粉袋の替え時も」と付け足す。ヘーデは腕を組み、「鍛冶場の火も夏は長い」とうなずく。
みんながそれぞれの“夏”を口にすると、空白は徐々に埋まっていく。季節の棚は、生活の声で埋まるのだ。
◇
夜の一時間。
私は記録帳を開き、今日の三つを並べた。〈二号樋通水/休息帯二日目・呼ばれない勇気/夏欄の名前置き〉。
声に出して読み上げると、レオンが短く言った。
「今日の好き。――君が“空白も地図になる”と言ったこと」
私は微笑んで、返す。「今日の好き。――あなたが“負債を夏欄に落とせ”と言ったこと」
光が短く脈打つ。灰色の窓の外で、春の夜風が枝を揺らした。
私はペンを走らせる。〈恋の定義・追記:恋は、呼ばれない勇気を共有すること。〉
離縁まで、二十六日。
棚はまだ空白が多い。でも、空白に線を引く勇気が、今日ここにあった。




