第33話「今日の続き――“また明日”」
季節が少し巡った。
灰の風はもう吹かない。けれど、砦の庭には白の花が残り、風に合わせて揺れている。
朝、私は灯の箱を開けた。
光は以前より穏やかで、呼吸のように膨らんでは、静かに沈む。
それは、まだ生きていた。――まるで私の中に残った“彼”の息のように。
砦の朝は忙しい。
マルタはパンを焼き、ローレンは粉をこぼし、ユルクは赤帯を風にかける。
誰もが“どう”で呼ばれながら働き、笑い合っていた。
「渡し手、粉もう少し!」
「はい、“見守り”持ってきます!」
呼ばれるたび、誰かの声に“名”ではなく“温度”があった。
それを聞いているだけで、胸の奥があたたかくなった。
昼、丘へ登る。
砦から王都へ続く道が遠くまで見える。
その道沿いには、ずっと還願の花が咲いていた。
あの日、レオンと名づけた白い花。
――“願いが還る場所”。
風が吹く。
花が揺れ、花びらが空へ舞う。
その中に、一瞬、彼の姿が見えた気がした。
半歩うしろを歩き、穏やかに笑う顔。
私は目を閉じ、ゆっくりと息を吸った。
“また明日”。
あの声が、確かに風の中で響いた。
私は膝をつき、花のそばに灯の箱を置く。
光が花に反射して、二つの呼吸がひとつになる。
灰の時代に生まれた灯が、土に溶け、根を伸ばしていく。
その様子を見つめながら、私は小さく笑った。
「あなたの“どう”は、もうここにあります。
――だから、私はもう呼びません。
呼ばなくても、ちゃんと届くから。」
夕刻。
砦の屋根に光が傾くころ、旗が半歩左へ揺れた。
その揺れが、あの日の王都の風を思い出させた。
遠く、白い花の帯が、地平線の彼方まで続いている。
それは、まるで光の道のようだった。
私は砦の部屋に戻り、記録帳を開く。
そこには、もう書くべき“今日”がなかった。
でも、最後の余白がひとつだけ残っている。
そこにペンを走らせる。
〈今日の続き〉
〈また明日〉
そして、静かに筆を置く。
窓を開けると、風が入ってきた。
樋が鳴り、灰のない音が響く。
旗が一度だけ揺れた。
私は微笑みながら、記録帳の裏表紙に、恋の定義の最後の一行を書いた。
〈恋は、終わりを光に変えること〉。
その瞬間、灯の箱の中で小さな音がした。
“カタン”――それは心臓の音のようで、合図のようでもあった。
光がゆっくりと膨らみ、砦の部屋いっぱいに広がっていく。
壁も天井も、灰の跡もすべて包み込み、やがて静かに溶けた。
私はその光の中で目を閉じる。
胸の奥があたたかい。
風の中で、あの声がもう一度、聞こえた。
“また明日”。
――今日の続きが、確かに始まっていた。
旗が最後に、やさしく鳴った。
そして物語は、静かに光へと還った。
― 完 ―




