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一度きりの離縁をください ― 契約夫婦、期限切れ前夜  作者: 東野あさひ


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第31話「沈黙の夜――“灯は息をしている”」

 離縁の儀のあと、王都の夜は不思議なほど静かだった。

 広場の花は昼間の光を残したまま、淡く息をしている。

 人の声が消えても、風が止まっても、街そのものが生きているように見えた。


 私は宿の小さな部屋に戻り、机の上に灯の箱を置いた。

 蓋の隙間から、細い光が漏れている。

 離縁が終わったあとも、箱の中の灯は消えなかった。

 まるで「まだ、ここにいるよ」と囁くように、脈を打っている。


 椅子に腰を下ろし、記録帳を開く。

 最初の頁には、あの日の文字が残っていた。

 〈“怖いをしまう”〉――あれがすべての始まりだった。

 指でなぞるたびに、当時の風が思い出される。

 焚き火の匂い、硬い床の感触、そして、レオンの低い声。


 頁をめくるたびに、日々の光景が蘇る。

 〈“怖いを灯にする”〉――雨の夜。

 〈“灯を渡す”〉――村の子どもたちの笑顔。

 〈“燃えたあとを包む”〉――砦の炉の音。

 〈“願う花”〉――王都の空に咲いた白の光。

 そして最後の頁には、昨日書いた一行があった。

 〈恋は、終わりを呼吸に変えること〉


 指が止まる。

 ――呼吸。

 そう、あの灯も、私自身も、まだ息をしている。


 窓を少し開けると、風が入ってきた。

 灰の匂いが混じった冷たい空気。

 その風が箱の灯を揺らす。光が一瞬だけ強くなり、壁に影を落とす。


 影の形は、彼の横顔に似ていた。

 私は思わず手を伸ばし、空気を撫でる。

 そこには何もないのに、確かに温もりがあった。


 「レオン……」

 声に出してみる。

 その名前を呼ぶのは、これが最後になるのかもしれない。

 けれど、不思議と悲しみはなかった。

 呼ぶことが“終わり”ではなく、“始まり”のように思えたから。


 机の上の灯が、ふっと揺れた。

 まるで応えるように。


 私はペンを取り、空白の頁に新しい行を書いた。


 〈恋は、名を呼ばずに息を交わすこと〉


 書き終えると、胸の奥が静かになった。

 外では、遠くの鐘が一度だけ鳴った。

 離縁を知らせる鐘――でも、私には“呼吸の音”に聞こえた。


 窓の外を覗くと、王都の通りのあちこちで花が光っていた。

 その光は人々の手を渡り、明日の夜明けを待っているようだった。


 私は箱の灯に手をかざし、そっと言った。

 「――おやすみなさい」


 灯が小さく瞬いた。

 呼吸のように、静かに、穏やかに。

 まるで“また明日”と囁くように。


 離縁まで、一日。

 けれど、私の中の灯はまだ息をしていた。

 風が通り抜け、灰がひとひら、窓辺に舞い降りた。

 それはもう冷たくなく、ほんのり温かかった。


 私はその灰を掌に包み、目を閉じた。

 ――恋の呼吸は、まだ終わらない。

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