第29話「灰に咲く願い――“還願の花”の祝祭」
朝の光は柔らかく、王都全体が白い霞の中にあった。
昨日名づけられた“還願の花”が、あちこちで芽吹いている。
屋根の上、窓辺、石畳の隙間、噴水の縁。どの花も、灰の中から静かに顔を出し、まるで街全体が呼吸を始めたようだった。
私は箱の灯を抱え、庁舎を出た。
道の両脇には、人々が花を摘まず、ただそっと見つめている。
子どもが小声で言った。
「ねえ、この花、名前がないんでしょ?」
隣の母親が微笑んで答える。「いいえ、“願う”っていうのよ」
私は思わず足を止め、胸の奥がじんと熱くなる。――“どうで呼ぶ”が、もう人々の言葉になっている。
広場には祭りのような賑わいがあった。
役人たちは花の種を配り、商人は白い布を飾り、誰もが自然と笑顔を浮かべている。
その中心に、レオンが立っていた。
鎧ではなく、薄い灰色の外衣をまとい、穏やかに人々と話している。
光に照らされる彼の横顔を見た瞬間、胸の奥が震えた。
私が近づくと、彼は静かにこちらを見た。
「来てくれたか」
「……この街を、見届けたくて」
「俺もだ。君の“どう”が、ここまで届くなんて思わなかった」
私は微笑む。「“君の”じゃなくて、“私たちの”です。……ほら、あの旗も」
庁舎の屋上に掲げられた旗が、風に揺れていた。
半歩右、そして半歩左――まるで砦の旗が、王都まで旅してきたかのようだ。
花びらが一枚、私の肩に落ちた。
その瞬間、レオンが小さく息を呑んだ。
「……君の髪、光ってる」
私は笑って首を振る。「花の粉ですよ。灰の色を吸って、光ってるんです」
「いや、それでも――綺麗だ」
言葉のあと、沈黙が降りた。
でも、その沈黙は痛みではなかった。
花の香りが淡く漂い、風がふたりの間を通り抜ける。
「……離縁の儀、もうすぐですね」
「そうだな」
「怖くはないですか?」
レオンは少し間を置いて答えた。
「怖い。でも、君が“願う”と呼んだとき、怖さが形を変えた。今はもう、怖いより“惜しい”かな」
「惜しい?」
「君と過ごす“今日”が、もう数えるほどしかないから」
胸の奥がぎゅっと痛んだ。
でも私は笑って言った。
「“今日”が終わっても、“どう”は残ります。――“また明日”があります」
「そうだったな」
彼の笑みは、春の終わりの光みたいに柔らかかった。
夕刻、広場で灯がともされた。
火ではない。還願の花が、一斉に淡く光り出したのだ。
灰に咲く願いが、街全体を包み、まるで空が星で覆われたようだった。
人々が息を呑み、誰かが小さく呟いた。
「……あの花、灯ってる」
私はそっと掌を胸に当てた。
箱の灯が、花の光と呼応するように脈を打つ。
レオンがその光を見つめながら言った。
「君の“願う”が、街を灯したんだな」
「違います。みんなの“どう”です」
風が吹き抜ける。
花びらが舞い、光が重なり合う。
空に白の帳が降りてくる。
私は記録帳を開き、最後のページの下にそっと書いた。
〈還願の花、灯る〉
〈王都、願いの夜〉
〈恋、まだ息をしている〉
レオンが覗き込み、いつものように筆を取った。
〈今日の好き〉――〈君が“終わり”を“祭り”にしたこと〉。
私は〈あなたが“惜しい”と言えたこと〉と返す。
指輪が光る。
光は穏やかで、長く、夜の底まで続いた。
離縁まで、三日。
けれど、街の灯はもう、誰のものでもなく、みんなの“どう”として残っていた。
その中で、ふたりはただ――微笑んでいた。




