第28話「願う花の名――“最後の呼吸”」
王都の朝は、灰の光に包まれていた。
空は曇っているのに、地上がうっすら白く輝いて見えるのは、あの日の“灯の灰”がまだ街のどこかに残っているからだろう。
私は胸の前で箱を抱き、庁舎へ向かった。
離縁の儀は五日後のはずだったが、議場から「花の名づけ」を前倒しにしたいと知らせがあった。
理由は明かされていない。
けれど、どこかで私は感じていた。――今日という日が、何かの“終わり”であり、“始まり”でもあることを。
庁舎の中庭には、白の花が一輪、咲いていた。
灰の庭。火の跡が土となり、そこに灯の根が芽吹いた場所。
私は膝をつき、そっと花びらに触れた。冷たいのに、脈を打つような温度があった。
背後で声がした。
「……来てくれたか」
振り向くと、そこにレオンが立っていた。
鎧ではなく、素の衣服。けれど姿勢は、あの頃と同じだった。
風が吹き、彼の髪を揺らす。私の胸の中で何かが音を立てた。
「あなたが――どうしてここに」
「議場が呼んだ。“花を名づける”のは、ふたりでと。だから、来た」
「……そう、ですか」
言葉が震えそうで、口の中で噛みしめる。
どれほどの季節をこの“どう”だけで過ごしてきただろう。
愛を呼ばず、名を捨て、怖いをしまい、灰を抱いた日々。
けれど、いま目の前にいるこの人の姿を見て、私の中の“今日だけ欄”が、ゆっくりと書き換えられていく気がした。
議場の役人が近づき、声を張る。
「白の花の名、これより両名により定められたし!」
人々のざわめきが消え、世界が静まる。
私は箱の灯を開き、掌で光を包む。
レオンがそれを見つめながら、静かに言った。
「俺は、この花を“還す”と呼びたい」
私は首を振る。
「私は“願う”と呼びたい」
ふたりの声が交わった瞬間、花弁が揺れ、まるで呼吸するように光を吸い込んだ。
そして――花は、ひとつの名を告げたように見えた。
『願いが還る場所』
風が吹き抜けた。灰が舞い、光が立ちのぼる。
レオンが私の方へ歩み寄り、指輪をそっと外した。
そして私の掌に重ねる。
「――これを返す」
私はその意味を理解しながらも、涙をこらえた。
「離縁のため、ですね」
「……違う。返すのは、“名”の方だ。指輪は、今日も光ってる。君が“どう”を選んだから」
彼の言葉が胸に沈む。
私は指輪を見つめた。灰の中で光る小さな火――それは、かつての誓いの形ではなく、今日の“息”のように脈打っていた。
「あなたは、この灯をどうしますか」
「持っていけ。……そのかわり、俺は灰を抱く。燃やした跡は、君に残しておきたい」
彼の掌には、私が送った灰があった。まだ温かい。
私の箱には灯がある。
――ふたりで、ひとつの循環。
議場の役人が宣言する。
「名づけ、完了。
白の花は“還願の花”と称する!」
その瞬間、花弁が舞い上がった。
白い光が王都を包み、灰がゆっくりと空へ還っていく。
私はその光を見上げ、心の中で呟いた。
「恋は、呼ばれずに還るもの。」
レオンが小さく笑う。
「君は、いつも定義を書き足すな」
「ええ。でも、もうこれが最後です」
彼は頷き、私の手をとった。
その手は確かに温かく、でももう“所有”ではない。
離縁とは、奪うことではなく、手を離しても続く形なのだと分かった。
花の光が少しずつ弱まり、空が夕焼けに変わっていく。
私は深く息を吸い、吐いた。
呼吸が白く広がり、花の色と混じる。
――願いが還った。
そして、“今日”が終わった。
離縁まで、四日。
だが、その言葉にはもう、痛みも恐れもなかった。
ただ静かに、胸の奥でひとつの灯が息をしていた。
記録帳の最後の頁に、私は一行を書き足す。
〈恋は、手を離しても続く呼吸〉
そして筆を置いた。
風が通り抜け、旗が一度だけ鳴った。
白い灰が空へ溶けていく。
――今日も、光はまだここにあった。




