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一度きりの離縁をください ― 契約夫婦、期限切れ前夜  作者: 東野あさひ


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第26話「白の帳――“帰る日と残る灯”」

 朝、砦の外は白かった。雪ではない。風に乗った灰が夜のあいだに降り積もり、地を薄く覆っていた。

 足跡をつけると、柔らかい音がした。まるで砂ではなく、眠る火の粉を踏んでいるようだった。


 私は〈未来の欄〉の端に指を置き、昨日の文字――〈灰を抱いて帰る〉――を見つめた。

 もう帰る支度を終えたのに、胸の奥はどこかで踏ん切りがついていなかった。

 離縁まで、六日。


 台所の煙突からは、白い煙が細く上がっていた。マルタが湯を沸かしている。

 「今朝の灰、きれいだね」と言って、掌に少し乗せて見せてくれた。

 「真っ白い灰なんて初めて見た。昨日までの火が優しかったんだね」

 私は頷く。灰は冷たいのに、見ていると不思議と温かかった。


 ハーゼが戸口に現れ、手紙を差し出した。王都からだ。封は金色の糸で結ばれている。


『灰の庭に、芽が出た。

 まだ名はない。

 灯の跡が根を持ち、白い花のつぼみが見える。

 この花を“どう”で呼びたい。

 名ではなく、願いの言葉で。』


 私は息を呑んだ。

 燃えたあとの灰から芽が出る――そんなことが本当に起きるなんて。

 レオンが文を読みながら笑った。「“どうで呼ぶ”……あの議場が、とうとう君の言葉を使った」

「そうみたいです。……怖いの次に、やっと“願い”が生まれたんですね」


 私は棚の空白に小さく書いた。〈願い=白の花〉。

 それは私たちが積み重ねてきた“今日”の果てに、ようやく生まれた“明日”の形だった。


 午後、砦に子どもたちが来た。雪のような灰を集めて、手のひらで固めて遊んでいる。

 「これ、“白の灯”だよ!」

 「ふわふわの火!」

 ミーナが笑いながら言った。「燃えない灯ですね」

 私は頷いた。「燃えなくても、消えない灯です」


 そのとき、レオンが私に小さな箱を渡した。

 「これを、帰る前に受け取ってほしい」

 箱の中には、私が王都へ送った灰の欠片が一つ。けれど、淡い光が宿っていた。

 「これは……」

 「砦に残っていた灰を、灯に戻した。少しずつ火を入れて、消えない程度の温度で保ってある。君が帰るとき、持っていけ」

 私は箱を抱きしめた。胸の奥が熱くなり、声が震える。

 「……あなたは、やっぱり不器用ですね」

 「そうだな。でも不器用でも、灯を繋げるくらいはできる」


 指輪が光る。その光が箱の中の灯と重なって、一瞬、部屋全体が白く染まった。


 夕刻、砦の門の前に立つ。

 マルタが菓子の包みを持って駆けてくる。

 「これ、道中で食べて。蜂蜜の代わりに灰の粉を混ぜたの。ほろ苦いけど、温まるよ」

 ローレンが粉袋を担ぎながら言う。「君が帰ったあと、ここで“今日だけ欄”を続けます」

 ヘーデは炉の火を見ながら、「火はもう、怖くないな」と笑った。

 ユルクは赤帯を片手に持ち、「呼ばれない日も、旗は揚げておく」と言った。

 サビーナは水の入った壺を差し出す。「流すためじゃなく、育てるための水です」


 私はみんなの顔を見渡し、深く頭を下げた。

 「ありがとう。――この“今日”を、きっと続けます」


 門を出るとき、レオンが小さく私の名を呼んだ。

 けれど、次の瞬間、彼は笑って言い直した。

 「……いや、やめた。今は“どう”で呼びたい」

 そして言った。

 「また明日」


 その言葉に、涙があふれた。

 離縁の手続きはもうすぐ。けれど“また明日”があれば、今日が終わらない。


 夜、旅の途中の宿で、私は記録帳を開いた。

 〈砦を出発〉

 〈王都の花、願いの名を持つ〉

 〈白の灯、胸に〉


 そして恋の定義の末尾に、一行を足した。

〈恋は、帰る場所があっても“また明日”と言えること〉。


 窓の外では、風が白い粉を運んでいる。

 灰でも雪でもない、その白は灯のかけら。

 私は箱を胸に抱き、静かに目を閉じた。


 ――離縁まで、六日。

 けれど、明日はきっと、今日の続きにある。

 白の帳の向こうに、灯のゆくえはまだ、やさしく揺れていた。

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