第25話「還るもの――“灰を抱いた日”」
朝の風は冷たく、灰の匂いがまだ砦の空気に混じっていた。
旗はまっすぐ立って、風を掴まずに静止している。夜のうちに灰が遠くへ運ばれたのだろう。屋根の上の樋には薄く白が残り、触れるとさらりと指先に移った。
私は〈未来の欄〉の最後に書かれた「灰、砦に」の行をなぞり、小さく丸をつけた。
――それは終わりの印ではなく、“還る”の印。
燃え、渡り、灰になった灯が、今度はどこかへ還っていく番だ。
レオンが背後から声をかけた。
「今日の風は西だ。灰は家へ向かう」
「ええ。……私も、そろそろ帰り支度を始めます」
言葉にすると、胸の奥が痛んだ。離縁まで、あと八日。
けれど、痛みの中に、奇妙な穏やかさもあった。
灯を送り、灰を見届け、怖いを手で包んだ。
その先に待つ“終わり”が、かつてほど冷たく思えなかった。
昼、王都の文官が再び砦を訪れた。灰の箱を受け取った礼を伝えに来たという。
「王都の北庁舎では、箱の灰を混ぜた土で小さな庭を作りました。灯を絶やさずに、根を植えるという決定が出たのです」
「根……?」
「はい。燃やすでも、保存するでもなく、育てるんです」
その報告に、私は言葉を失った。
燃えたあとを“終わり”にせず、“始まり”にする。
そんな考え方を、あの議場が選ぶ日が来るとは思わなかった。
レオンが口の端を上げる。「君の“どうで受ける”が、王都にまで届いたんだな」
「私じゃなくて、みんなです。怖いを灯に変えて、渡して、灰にして……それを見守ってくれた人たちの“どう”が重なった結果です」
彼はうなずき、私の肩を軽く叩いた。その手の温もりが、今の光よりも確かだった。
午後、マルタが台所で新しい蜂蜜菓子を焼いていた。
「灰を混ぜた粉で、焼いてみたの」と笑う。
ローレンが怪訝な顔をした。「……食べられるんですか、それ」
「ええ。灰は“燃えきった証”。焦げとは違うのよ」
焼き上がったそれは、ほんのり灰色で、甘みが柔らかかった。
私は一口かじると、舌の上で溶ける熱が懐かしく感じられた。
――灯の味がした。
夕方、砦の門の前で村の子どもたちが手を振った。
手の中に、私が渡した〈灯渡しの札〉。
「ねえ、エルフィアさま! 札に書いたよ!」
「なんて書いたの?」
「“明日も渡す”!」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
私は記録帳を開き、今日の三行を書く。
〈王都、灰の庭を作る〉
〈砦、灰の菓子を焼く〉
〈子ら、“明日も渡す”〉
レオンが隣で筆を走らせ、「今日の好き」と書き、〈君が“帰り支度”をしても、風の向きを気にしていたこと〉と添えた。
私は〈あなたが“帰る”を“終わり”にしなかったこと〉と返す。指輪が光る。
光はもう、燃えるようではなかった。灰の奥に灯るような、静かな明るさだった。
夜。
外に出ると、灰が雪のように舞っていた。
風がゆっくりと西へ流れ、空の端が淡く光っている。
――あの光の先に、私の生まれた家がある。
「戻ったら、どうする?」とレオンが問う。
私は少し考えて答えた。
「きっと、また“今日だけ欄”を作ります。名前を持たずに座れる欄。怖いをしまえる箱。……それから、灯の絵を描く」
「描く?」
「ええ。見えないものを、見せる方法を探してみたいんです。灯も灰も、“まだある”って伝えられるように」
レオンは少し笑ってうなずいた。
「俺も、きっと同じだ。――“まだある”と思える場所を守りたい」
「それが、あなたの“どう”ですね」
「そうだな。君の“どう”に、少し似てる」
ふたりの間に、長い沈黙が降りた。
でもその沈黙は、寒くなかった。
風の中に、かすかに甘い匂いがした。マルタの菓子の匂い。灰の中に混じった蜂蜜の香りだ。
私は恋の定義の末尾に新しい一行を足す。
〈恋は、灰を抱いたまま帰ること。燃えた跡を、終わりにしないこと〉。
旗が微かに鳴り、樋の中で水がひとすじ落ちた。
その音が、今日の終わりを告げる。
離縁まで、七日。
でも、もう“離れる”とは思えなかった。
風の向こうで、灰が光に還っていく。
私は静かに目を閉じ、その光を胸に抱いた。




