第23話「薄明の帳――“灯を渡す手”」
朝の光は淡く、砦の石壁にまだ夜の名残が貼りついていた。旗は半歩右のまま、風はほとんど吹かない。夜に灯された火の名残が、空気の奥でまだ温かく呼吸をしているようだった。
〈未来の欄〉には、昨夜の記録――〈灯の拾い手〉。その下に私は丸を一つ書き足し、「渡す」と記した。灯を拾うだけでなく、渡す人が必要だ。灯は一人の掌に長くは留まらない。燃やすでも、しまうでもなく、手渡す。
その瞬間、窓口の布がふっと揺れた。外の風が戻ったのだ。樋の音が少し強くなり、いつもより明るい声で鳴る。ハーゼが入ってきて封を差し出した。王都監査局からの返書だ。
『“灯の拾い手”を見た。
箱に残った火を写し取り、王都の北庁舎に灯す。
しかし一つ問いたい――“灯は、誰が消すのか”。』
読む手が止まった。火を写したのは議場か。けれど、消す人の名まではない。
「……“消す”という言葉に、彼らの怖さが出ている」レオンが言う。「灯は制御できないと思っているんだ」
「私たちは、制御じゃなくて“扱い”ですね」
「そう。灯は誰のものでもない。――だから、誰でも渡せる。」
私は新しい札を描いた。〈灯渡しの札〉。拾い制、誰でも。札の中央に穴を開け、風が通るようにした。風が抜けた分、軽くなる。
「今日はこの札を、“役”として試します」
昼過ぎ、砦に村の女たちがやって来た。洗い場の桶の補修を頼んでいたのだが、彼女たちは道具を置いたまま空を見上げた。雲が薄く流れ、陽が差してくる。
マルタが言った。「――火が見えたような気がする」
その言葉に、私の胸が熱くなる。遠く離れた王都の灯が、風に乗ってきたのだ。
私は〈灯渡しの札〉を取り出し、手渡す。「この札を持って、今日、あなたが誰かに“温かいこと”をしたら、印をつけて返してください」
「印?」
「指の跡でもいい。土でもいい。蜂蜜でも」
女たちは顔を見合わせ、笑い、札を受け取っていった。
夕方、札が戻ってくる。八枚。すべての札の中央に、違う印がついていた。
子どもを抱き上げた跡。針仕事の染み。パンを分けた粉。水を汲んだ指跡。どれも灯の形をしていた。
私はそれらを箱に並べ、〈灯渡し・八印〉と書いた。
そのとき、外から馬の蹄の音。王都の文官――昨日の若い使者だ。衣は埃を被り、息を荒くしていた。
「“灯”が増えたんです。議場の北庁舎で写した火が、風で別の庁舎に燃え移った。だが火事ではなく、灯台のように灯った。……誰も消せなかったそうです」
息を整える声は驚きと戸惑いで震えている。
「“誰が消すのか”という問に、誰も答えられなかった。だから、灯は残ったままです」
私は箱の八枚の札を見下ろした。
「――なら、こちらも灯を送ります」
ハーゼが頷き、箱を布で包む。
マルタが蜂蜜を少し垂らす。「火は甘さで落ち着く」
ローレンが粉を振る。「燃えすぎると、煙が出ます」
ヘーデが小さく金具を叩く。トン、トン。二打の音。
レオンが掌を空にした。「半分、渡そう。」
封を整え、箱を渡す。「“誰でも渡せる灯”として送ります。王都の火が消えないように、誰かが次に渡せるように」
文官は目を潤ませて頷いた。「――“消す”より、“渡す”の方が正しい。議長にも、そう言ってきます」
夜。
外の空気は冷たく、砦の中庭には淡い月明かりが落ちていた。旗がゆっくりと揺れ、影が地に伸びる。
私は記録帳に三行を書いた。
〈灯渡し・八印〉
〈王都の灯、消えず〉
〈灯、渡される〉
レオンは隣で静かに筆を取る。「今日の好き」と書き、〈君が灯を軽くしたこと〉と添えた。
私は〈あなたが“消す”より“渡す”を選んだこと〉と返す。指輪が光る。今夜は長く、あたたかく。
ふと、樋の音が止んだ。外に出ると、空は澄んでいて、風がほとんどない。
見上げた先、王都の方角の空に、淡い橙の光が瞬いていた。
それは星ではない。遠く離れた誰かが灯を渡している証だ。
私は胸の奥でつぶやく。
「怖いをしまう箱は、もう要らない。……灯があるから」
離縁まで、十日。
数字はもう、冷たく響かない。
灯の行方はまだ定まらないが、怖いの形は確かに温かい。
恋の定義の末尾に、一行を加える。
〈恋は、灯を渡すこと。消さずに次へ送ること〉。
風がまたひとつ吹き、旗が半歩左へ揺れた。
それは、今日が終わる合図だった。




