第22話「灯のゆくえ――“怖いをしまう手紙”」
朝の鐘が一度だけ鳴った。夜の雨は止み、旗は静かに半歩左。風は新しい土の匂いを運んでくる。
私は〈未来の欄〉に昨夜の文字――〈不安の箱、議場へ〉をなぞり、その隣に小さく丸を描いた。〈返送待ち〉。
窓口には封がひとつ。銀の糸で閉じられたそれは、議場からの返答だとすぐ分かった。
ハーゼが手を添えて開く。中の紙には短い文が一行だけ書かれていた。
『不安の箱、受領。箱の中は空。だが、灯が一つ残っていた。』
灯――? 私は顔を上げた。レオンが目を細める。「中に何も入っていなかった、という報告か」
「いいえ、“灯”があったと書いています。……“誰かが箱の中に火を置いた”という意味かもしれません」
誰が、どこで、どんな灯を。
私は〈今日だけ欄〉の隅に〈灯の所在〉と書き、空欄を作った。
ハーゼが静かに言う。「“不安”は誰のものでもあり得る。もし誰かがそれを燃やしたなら、怖さが言葉ではなく灯になったのでしょう」
ミーナが頷く。「――怖いを“しまう”んじゃなく、“温める”に変えたんですね」
私の胸の中で、何かが小さく鳴った。
温める。壊さない。燃やさない。――怖いを光にする。
午後、王都からもう一人の使者が到着した。昨夜の報せを持つ若い文官だ。
「“不安の箱”を開けた議長が、灯を見たときに言ったそうです。“これは、婚姻の報告ではない。――生活の告白だ”と。」
文官の声がわずかに震えていた。
「その言葉が、議場に残りました。これまで“婚姻”は決定や書式でした。でも“告白”と言われたのは初めてだそうです」
私は息を詰めた。書式でも、議決でもない“告白”。それはきっと、怖さと一緒にある“今”を指す。
レオンが静かに微笑んだ。「告白は、約束より強いときがある。嘘がつけないからな」
文官は懐からもう一枚の紙を取り出した。細い字で書かれた短い詩のような報告だった。
『灯を見た者の名、記録せず。
けれど、手のひらの跡が残る。
灯は怖いの形を写し、
怖いは灯の温度を残す。』
その文を読み終えたとき、私は思わず胸の奥に手を当てた。そこに、たしかに温度があった。
――灯は、誰かの怖いを写して生まれた。だから、消えない。
夕方。
台所ではマルタが蜂蜜を薄く延ばしながら、「“不安の箱”が灯になったなら、“甘さの箱”も火を貸せるかね」と笑った。
ローレンが粉袋を縛り直し、「火を入れすぎると焦げます」と返す。
ヘーデが金具を叩く。「焦げ跡があると、次の火が着きやすい」
ミーナが見守り札を撫で、「焦げも、跡の一つですね」
私は彼らの声を聞きながら、記録帳を開いた。
〈怖いをしまう〉から〈怖いを灯にする〉へ。
文字を動詞に変える。言葉を少しだけ未来形に近づける。
夜、窓辺でレオンと並んで座る。
「――“灯を残した”のが誰か、気になりますね」
「誰でもいい。怖いを光にできたなら、それが今日の名になる」
「今日の名?」
「“灯の拾い手”」
私は微笑み、板の隅に新しい札を描いた。〈灯の拾い手〉。誰でも拾える。怖いを燃やす代わりに、灯をつなぐ役だ。
レオンが小さく息を吐いた。「この役を、君が最初に持つのがいい」
「どうして」
「怖いを言葉にできたのは、君だからだ」
指輪が光る。
光は柔らかく、長く残る。まるで議場の箱に残った灯が、こちらにも届いたようだった。
私はペンを取り、恋の定義の続きに一行足した。
〈恋は、怖いを光に変えること〉。
離縁まで、十一日。
数字は変わらず進む。でも今日、未来の欄に小さな灯が増えた。呼ばれぬ未来に、ひとつの明かりがともる。
樋の水音が細く続く。旗は静かに、半歩右へ。
今夜の風は、やさしい。灯のゆくえは、まだこの手の中にある。




