第21話「呼ばれぬ未来――“今日だけ欄”の先で」
朝の光が柔らかい。旗は半歩右へ戻り、風は湿りを帯びていた。昨夜の雨がまだ樋に残って、細く続く音を立てている。
私は〈季節の棚〉の夏欄を見上げ、昨日描いた丸――〈返歌×二〉の隣に、薄い線を一本足した。〈明日の余白〉。今日だけ欄の先に、まだ誰も名を置いていない場所。そこに一度だけ息を置き、ペンを止めた。
窓口に新しい封が届いていた。王都監査局の印。緋ではなく、銀の細い線で封じられている。
『“試住の札”による見聞、認可。
候補者本人、名でなく“どう”にて参加を了。
――ただし議場の決定は未定。
“名を呼ばぬ未来”が続くことに、不安を覚える声もあり。
その不安をどう扱うか、答えを求む。』
読み終えた瞬間、胸の奥がひやりとした。
名を呼ばぬ未来。私自身、まだ完全には掴めていない。けれど、呼ばれない勇気がなければ、誰も“今日”を作れない。それを、どう形にすれば届くのだろう。
レオンが近づき、封を覗き込んだ。「“未来を扱う”……か。彼らが欲しいのは、約束じゃなく“扱い方”だな」
「扱い方……」私はつぶやき、記録帳を開いた。昨日までの線が、今日の朝日に少し透ける。
「“未来を扱う”は、“怖いをしまう”に似ています。置き場所を作るんです」
「なら、“未来の置き場”を、見せよう」
私たちは〈今日だけ欄〉の下に新しい棚を足した。〈未来の欄〉。そこに箱を三つ置く。
一つ目は〈未定の箱〉――“まだ決まらない”を置く場所。
二つ目は〈引き継ぎの箱〉――“今日終えられない仕事”を置く場所。
三つ目は〈不安の箱〉――“言えなかったこと”を置く場所。
ミーナとサビーナが手伝い、布で包んだ木箱を運び、板に線を刻む。ローレンは粉袋の紐を余らせ、「“明日の粉”として括る」と言った。ヘーデは鉄片を三つ打ち、金具の音を薄く鳴らして、「音も“置き場所”にする」と付け足した。
私は新しい札を描いた。〈拾い制・未来の札〉。拾えば誰でも“未来の欄”に何かを置ける。箱の中身は覗かない。覗かれない。けれど、札の端に印がつく。置かれた“気配”だけが、今日の証拠になる。
午後、王都の使者が再びやってきた。旗の下に立つ彼の顔は疲れを帯びていたが、声は静かだった。
「議場は“呼ばれぬ未来”を恐れています。名がなければ責任が行方を失う、と」
「責任は“今日”の印に宿ります」私は答えた。「名で呼ばれずとも、印があれば、動きが見える」
「……印は薄れる」
「薄れても、積もります。薄い線の積み重ねが、壁になります」
レオンが一歩前に出た。「ここでは“明日のために削る”ことはしない。半分を残す。それが未来の扱い方だ」
使者は少し黙って、それから短く頭を下げた。「その“箱”を、ひとつ貸していただけますか」
私は〈不安の箱〉を差し出した。「この箱は、見えないままに置くものです。議場で開けなくていい。誰かが“未来が怖い”と書いた紙を中に落とせば、それで十分です」
使者は目を伏せ、箱を受け取った。「……怖いをしまう場所。議場にはありませんでした」
その夜。
風が変わり、旗が微かに揺れた。半歩右、また少し戻る。私は〈未来の欄〉に一行書いた。〈不安の箱、議場へ〉。
レオンは隣で筆を取る。「今日の好き」と書き、〈君が“未来の置き場”を作ったこと〉と添える。
私は笑って、〈あなたが“薄い線の壁”を信じたこと〉と返す。指輪が光る。光は短く、けれど芯が強い。
離縁まで、十二日。数字は変わらない速さで減っていく。それでも今日、壁に線がひとつ増えた。呼ばれぬ未来は、まだ怖い。けれど、怖さを“しまえる”箱がある。
私は記録帳を閉じる前に、恋の定義の末尾に新しい一行を足した。
〈恋は、“怖いをしまえる場所”を共有すること〉。
風が窓を叩き、樋が答える。静かな音の中、旗が再び半歩左へ傾いた。
――今日の風は、正しい。




