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一度きりの離縁をください ― 契約夫婦、期限切れ前夜  作者: 東野あさひ


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第20話「返歌の札――“誰でも拾える合図”」

 朝、旗は半歩左で静かに機嫌がよかった。樋の音は細く、台所には蜂蜜の淡い匂いが残る。壁の〈季節の棚〉、夏欄の余白に小さく「返歌」の丸を描いたところで、窓口に封が落ちた。王都監査局の印、それから家の緋色。


 先に監査局。『宴の写し、受領。所作と数により“役で呼ぶ”は有効と認める。ただし婚姻調整について、議場は“候補者本人の理解”を求む。名ではなく“どう”で応じよ――との意見少数ながらあり』。息が少し軽くなる。緋の封を切ると、家の文は硬いままだが角がわずかに丸い。『三家より、娘の見聞を許せとの申し出あり。短期の滞在を認めよ。なお、見聞は“礼を守る名”で行うこと』。


 名で来る。こちらは“どう”で受けたい。私は板に新しい札を描く。〈試住の札〉――来訪者に“今日の名”を貸すための合図。読めば誰でも拾える仕様にした。見守り/割り手/渡し手/呼ばない番――訪れる人が自分で選べるよう、札の角に穴を空けて紐を通す。


 レオンが掌を空にして頷く。「頼む。半分。礼の外形は守る。中身は“どう”で受ける」

「引き受けます。呼ばない二刻は崩さない。兵は招かない。窓口は開く」


 昼前、旅装の一団が門に現れた。従者二人、侍女ひとり、そのうしろで頭巾を深くかぶった娘が一人。名乗りはない。だが周囲の空気がそっと守るように固くなる感じで、私は察した。――候補のひとり、本人が来たのだ。


「見聞を願います」侍女が丁寧に頭を下げる。私は〈試住の札〉の束を示した。

「ここでは“名”の代わりに“どう”で座ります。今日の名を、お選びください」


 娘はためらい、やがて一本を指差した。〈見守り〉。指先は緊張で少し震えていて、けれど揺れの中に意思の重さがあった。私は札を結び、胸元にそっと回す。「今日の名をお預かりしました。呼ばれません。ただ、背で聴きます」


 見学は穏やかに進んだ。兵舎の前の赤帯、台所の半分棚、鍛冶の二打、粉屋の臼。娘は終始、言葉少なだったが、札の紐を何度も指で確かめ、子らが数える小石の箱に長く目を留めた。やがて、洗い場の縁で小さな声が落ちる。


「……怖いのです。私の名が、誰かの都合で動くのが」

「私も怖いです」私は即答した。「だから“今日の名”を作りました。動くのは“どう”。名は今日だけ借りて、今夜は返す。――壊さないために」


 娘の目が少し揺れ、やがて静かに澄む。侍女が息をつき、従者が肩の力を落とした。レオンが半歩後ろで見守り、私と視線が合うと頷く。指輪が短く光る。


 休息帯の始まりを告げる鐘が鳴った。兵舎の赤帯が掲がる。ちょうどその時、坂の下から荷車の鈴。小さな商いの列が休息帯と重なる。私は躊躇の短い針を胸で折り、娘に札の箱を差し出した。


「拾いますか。――“短い受け入れ線”を引きます」

 娘は〈渡し手〉を選んだ。蜂蜜の薄い皿を半分ずつ、静かに、速すぎず、遅すぎず。サビーナの水が二杯に割られ、ローレンの粉袋が二列に割られ、ヘーデの二打が合図になり、ユルクは赤帯の前で首を振らない。呼ばないは骨を守る。拾いは生活を守る。娘の掌は最初こそぎこちなかったが、三皿目で流れるようになった。肩の震えが止まる。紐が肌になじむ。


 終わるころ、娘は自ら見守り札を外し、両の札を丁寧に重ねて私に返した。「今日の名、戻します」

「受け取りました。――ありがとうございます」


 夕刻、侍女が小箱を差し出す。中には薄い紙片が二枚。ひとつは娘の手、ひとつは母の手。


『“見守り”は名ではなく姿。座りやすかった。』

『“渡し手”は人を壊さない。半分で足りるは、今日の甘さに似る。』


 私は板に小さく丸を足す。〈返歌×二〉。ゲルトルートは旗の足元で静かにそれを見て、何も言わず、旗の角度を親指一本だけ戻した。「風が右へ寄った」


 夜の一時間。私は今日の三行を書く。〈試住の札を運用〉〈候補者本人、“見守り”と“渡し手”〉〈返歌×二、壊さない〉。レオンは「今日の好き」として〈君が“怖い”を即答したこと〉と記す。私は〈あなたが半歩うしろで見守ったこと〉と返す。指輪が光る。灯は長く残り、木目に今日の線が一本、増える。


 封を整え、私は新しい返歌をしたためた。〈婚姻調整=“試住の札”を先に回す。名は動かさない。どうを貸し、どうを返す〉。ハーゼが文式へ移し、窓口で封を温める。ミーナが見守り札を箱に重ね、ユルクが赤帯を折り、マルタが明日の箱に薄い甘さを一切れ滑り込ませる。ヘーデは二打、遠くで火を揺らす。


 離縁まで、十三日。数字は硬い。でも、名より先に“どう”が歩き始めた。怖さは消えない。けれど、怖さを置く札ができた。拾えば、半分は持てる。残り半分は、渡せる。

 灯を落とす直前、私は恋の定義に一行足す。〈恋は、名を借りずに“どう”を貸し借りすること〉。旗が微かに鳴り、樋が応える。現在形は、今日のまま、息をした。

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