表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
一度きりの離縁をください ― 契約夫婦、期限切れ前夜  作者: 東野あさひ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/33

第2話「共同生活のルール――“恋の定義”を決めましょう」

 夜明け前、砦の霧は粉砂糖のように淡かった。

 麦粥の鍋に火を入れ、蜂蜜の壺を抱えて厨房に向かうと、支配人のマルタがもう腕まくりをしていた。


「奥様、使者は日の出とともに門へ。王都の監査役だそうですよ」


「ええ。……甘さを少し強めにしましょう。寒い朝ですから」


 私は蜂蜜をひとかけ、砕いた胡桃を掌であたためてから散らした。湯気は壁際の聖人画を柔らかく曇らせる。

 外圧は、早い。わかってはいたが、胸の奥の糸はきゅっと張り詰めた。


 食堂へ向かう途中、廊下の窓から中庭が見える。常より早起きの兵たちが木剣の素振りをしている向こう、石畳の門の前に黒い馬。馬上の男は細身で、外套の裾を風に遊ばせていた。彼の背後には従者と書記官。ひと目で王都気質とわかる布地の質、靴の艶、頬の削げ方。


「――王都監査局、セルジュ・ヴァレン。婚姻更新監査の任により参上しました」


 門番の号令に続き、乾いた声が中庭に落ちた。私は粥の盆を渡し、身なりを整える。

 まずは迎え、そして会う前に、心の中に一枚紙を広げる。共同生活のルール。昨夜、レオンと決めた三条に、今朝もう一つ加えようと思っていた。


 第四条――相手を勝手に守らない。守るなら、知らせて、頼って、半分ずつ。



 謁見室は石の冷気が強く、陽の筋が床の模様を切り取っていた。

 執事のハーゼが到着の礼を受け、私たちは向かい合って座る。レオンは普段よりも、よく磨かれた軍衣。眉間に余計な力はないが、視線の固定は深い。私の膝の上では、銀の指輪がひやりと落ち着きなく、心拍を拾っている。


「辺境伯レオンハルト閣下、そしてアーデル夫人。更新期限まで三十日を切っておられるとか。王家の規定に基づき、三要件の進捗を確認いたします」


 セルジュ・ヴァレン――監査役は、薄い笑みすら見せず、書記官に目配せした。ペンの先が紙を鳴らす。


「まず第一要件、“王家の指輪の反応”。昨夜、発光があったとの記録が?」


 私が頷くと、セルジュは興味なさげに細い指を組んだ。「どの程度の光量です?」


「微光です。鼓動に合わせる程度」


「ふむ。『鼓動の共鳴による錯視』――王都の学匠がそう呼ぶ現象があります。情動に連動する脈動が金属に伝わると、反射が誇張される。恋とは限らない」


 書記官のペンが、しゃり、と音を立てた。

 言葉を選べ、と自分に命じる。私は喉の奥で言葉を湛え、静かに返す。


「承知しています。だからこそ、毎晩一時間の検証を設けています。条件を固定し、逐次記録するために」


「“検証”。……面白い。恋を、実務に落とし込めると?」


 皮肉に似た微笑が、ほんの瞬きほど彼の目尻を動かした。

 そのとき、レオンが低く言う。


「試すための生活ではない。だが、生活の中に証明はある」


 セルジュの視線がすべる。彼は手帳を閉じ、第二要件に移る仕草をした。


「“共同の意思表示”。夫婦が互いに支え合う意思を社会的役割において示すこと。……将来の計画を」


 私は胸の紙に書いた第四条を思い出し、息を整えた。「補給路の再編が急務です。今期の降雪は早く、春の雪代が前倒しで来ます。私が補給台帳を再設計し、レオン様が峠の巡回ルートを兵の疲労値に合わせて調整する。“半分ずつ”。それが共同の意思表示です」


「ふむ……」


 セルジュの目はきれいな灰色をしていた。無色に見えるのは、相手を非難する気配を漂わせないからではない。判定だけを見ている目だ。


「三要件の最後、“公的な承認”。これは私の権限外、最終監査の場で扱います。が――」

 彼はわずかに身を乗り出す。「昨夜の発光記録、今夜も再現を。第三者立会いのもとで」


 ユルクが肩をぴくりと動かしたのが見えた。私は指輪を軽く抑え、頷いた。


「立会人は執事ハーゼと支配人マルタでどうぞ。……ただし条件が一つ。監査のために、私たちの生活を変えないこと」


 セルジュは面白そうに片眉を上げた。「無論。私は観察者です」


 口元の乾きが消えないまま、謁見は終わった。

 扉を出たところで、私の肩にそっと重みがのしかかる。レオンの手だ。重いのに、落ち着く。


「大丈夫だ」


 そう言う彼の声は、いつもより低く穏やかだった。

 私は頷いて、彼の掌を指先で掠めた。触れたのは一瞬。だけど、指輪は小さく応えた。



 昼は台帳の森を歩いた。

 倉庫の数字、運搬馬車の車輪の摩耗、峠の雪代予測。私は数列の隙間に氷の影を見つけては、鉛筆で塗りつぶし、別の線を引き直す。恋の定義を紙の上に練るように。


 定義、と言い切ると人は嫌う。恋は自由であるべきだ、と。けれど、私にとって言葉は働く器具だ。定義は枠ではなく、手すり。手すりがあるから、階段を上れる。


 午後。台所からマルタの呼ぶ声がした。「奥様、手をお借りしても?」


 鍋の蓋を開けると、湯気が弾む。胡桃を砕くための麻袋、蜂蜜を温める小鍋、そして――見慣れない背中。

 濃紺の軍衣の上に、生成りのエプロン。袖を肘まで捲ったレオンが、黙々と小麦粉を量っている。


「……何を」


「パンを焼こうと思ってな。ハーゼに教わった手順を覚えてきた」


「執事が?」


「若い頃、伯母上の屋敷で仕事をしていたそうだ。パン職人の下働きのようなことを」


 レオンは不器用そうに笑った。笑っているのに、手つきは驚くほど正確だ。水の量を指で確かめ、小麦の山に指で窪みをつける。

 私は気づけば彼の横に立ち、粉の真ん中に酵母を落とした。指先の白さが寄り添う。手袋の採寸で合わせたばかりの長さと幅が、ここでは頼もしい。


「パン、焼けるんですね」


「焼けるようになりたい。君が台所にいる時間に、俺も居たい」


 指輪が小さく温かい。マルタが気付かなかったふりをして、にやりと口の端を上げた。


「閣下、粉はそこまで。こねは奥様に。恋のパンは女性の手でなくては」


「そんな俗説、ありますか」


「今できましたよ」


 笑い合う。笑いながら、私はこね台に生地を落とし、掌で押し、返し、折る。レオンは隣で黙って見ているだけ――なのに、見られていると、こねた生地がふわりと空気を抱くような気がした。


 一次発酵のあいだ、蜂蜜酒をほんの少しだけ湯で割り、二人で味を見た。昼間の台所で杯を合わせるのは正しくない。でも、どちらかの体が冷えているなら、少量の甘さは薬だ。


「セルジュの言葉、気にするな」


「気にしていません」


「嘘をつかない」


「……第二条、でしたね」


 私たちは同時に黙った。鍋の泡がひとつ弾ける。

 私は視線を落とし、湯気の向こうで言った。


「怖いんです。**“依存だ”**と言われたとき、少しだけ、図星だと思ってしまった」


 レオンは何も言わず、布巾を取り、私の手についた粉を拭った。

 相手を勝手に守らない。守るなら、知らせて、頼って、半分ずつ。

 私は続ける。


「でも、依存と支え合いは、違う。依存は自分の足を捨てること。支え合いは、自分の足で立ったまま、相手の荷も半分持つこと」


「それを“恋”の定義に入れよう」


「はい」


 発酵済みの生地に指を差す――フィンガーテスト。跡がゆっくり戻る。焼成の合図。

 私たちは丸めた生地を並べ、切れ込みに蜂蜜を塗り、胡桃を一粒ずつ埋めた。証明は、生活の所作に宿る。 セルジュに見せたいのは、光の強さではなく、こういう手順だ。



 夕刻。立会いの検証は食堂の隅で行われた。

 テーブルの上には、昼に焼いた小さなパンと、昨夜からの**“恋の記録帳”**。表紙はまだ白い。ハーゼが眼鏡を繕い、マルタが腕を組む。ユルクは壁際で顔を赤くしながら咳払いをした。


 セルジュは身じろぎもせず座り、書記官は羽根ペンを構えている。私は深呼吸を一度。

 夜の一時間――第二夜――を始める前に、監査役は言った。


「断っておきますが、これは私の意見です。多くの“発光記録”は情緒的依存の裏返しです。戦場の後、砦や屋敷で“寄り添い”が過剰に美化される。あなた方の光がそうでないなら、それはそれで結構」


 マルタが私の背に手を置いた。手の温度は炉の残り火のようだ。

 私は頷き、記録帳を開いた。


「――では、第二夜の議題。“恋の定義”。私案を読み上げます」


 読み上げたのは、昼の台所で練った文だ。

 〈恋とは、相手の自由を増やすこと〉

 〈恋とは、未然形で約束しないこと。できることを現在形で差し出すこと〉

 〈恋は、相手の重さを半分持ち、半分渡すこと〉

 〈恋は、弱さを見せる訓練を続けること〉


 言葉にすると、胸の奥が静かになる。セルジュの瞳が一瞬だけ動いたのを見逃さない。

 レオンが席を立ち、厨房へ向かった。マルタとハーゼが当然のように目配せをして動き、私は戸惑って彼の背を追う。


「どこへ」


「台所。今日決めた“共同生活のルール”を、生活で示す」


 戻ってきたレオンは、私の腰の後ろで軽くエプロンの紐を結んだ。彼の指が私の腰骨の少し上を通る――ただそれだけで、指輪がふっと温かくなる。

 彼は焼いたパンを薄く切り、蜂蜜を指先で落とし、胡桃の香りを立たせてから、ひと切れを私に差し出した。


「甘すぎない?」


「ちょうどいい。兵たちには厚く。君には薄く」


「なぜ私には薄く?」


「甘いのは、言葉で足りる」


 食堂の片隅で、誰かが咳払いを飲み込んだ音がした。

 私はパンを受け取り、笑って、頷いた。**“現在形で差し出す”**がここにある。


 レオンは続ける。


「アーデル。俺は“勝手に守らない”。守るなら、必ず知らせ、頼り、半分ずつ持つ。……それを、共同の意思表示とする」


 ぱっ――

 指輪が、確かな光を放った。 昨夜の微光ではない。短いが、明滅のコアが見える。ハーゼが目を見開き、マルタが手を打ち、ユルクが「おお」と低く呟く。

 セルジュは――瞬きを一度。書記官のペン先が、走った。


「記録。第二夜、共同生活の実施に伴う発光。光度、昨日比――」


「主観で語るな」セルジュが淡々と制す。「第三者の反応を記せ。執事?」


 ハーゼは背筋を伸ばし、「奥様の指輪は、明らかに昨夜より強く光りました。私の老眼の誤りでなければ」と答えた。

 マルタは唇を結んでから、「この光を“依存”だとは言わせませんよ」と、いつもの荒い優しさで言った。「依存なら、女は台所を手放す。奥様は、手を濡らしながら笑ってる」


 セルジュは無表情のままだったが、視線だけが少し柔らぐ。「なるほど」


 私は、記録帳のページ端に小さく書き込んだ。〈第二夜 定義の草案/パン焼き(分担)/発光:短く強い/第三者立会い〉

 ペン先に迷いはない。恋が私の言語へ翻訳されるとき、指輪は必ず応じる。 そう信じられるほどには、今の光は確かだった。



 検証が終わると、セルジュは立ち上がった。外套の裾を整え、わずかに頭を下げる。


「では明日。臨時の仮監査を行います。王都への最終報告に先立ち、地域共同体の前でお二人に“共同の意思表示”をしていただく」


「共同体?」


「兵、使用人、領民代表。あなた方が“生活”で示したいと言うなら、生活の単位で承認を仰ぐのが筋でしょう」


 ハーゼが眉を持ち上げた。マルタが膝を打ち、ユルクが姿勢を正す。

 私は喉の奥で息を飲んだ。公的な承認を最終監査で――と言っていたのに。だが、臨時の仮監査は前哨戦として悪くない。生活の文脈で合意を取ることは、私たちに有利なはずだ。


「――受けます」


 私が言うより早く、レオンが答えた。

 セルジュは満足げでも不満げでもない顔で頷き、踵を返す。扉が閉じる音は軽かった。


 静寂が落ちる。

 私は肩の力を抜き、息を吐いた。レオンと目が合う。彼は少しだけ、照れて見えた。


「エプロンを結ぶの、上手でした」


「ハーゼに習った」


「なんでもハーゼに」


「頼った」


「……半分ずつ、ですね」


 私たちは笑った。小さな笑いが、石の壁に丸く響く。



 夜の一時間は、パンの香りと共に過ぎた。

 レオンは今日の巡回で見た雪代の白さを、私は穀量表の数字の端に潜む黒い影を語った。語りながら、記録帳に**“今日の好き”**を書き合うことにした。彼は「粉だらけで笑う君」。私は「大きな手で小さな紐を結ぶ彼」。


 馬鹿みたいに単純な見出しだが、文字にすると笑いが込み上げる。未然形で約束しない。現在形で差し出す。 このページは、現在形の束だ。


 やがて、マルタが余熱の残るオーブンに鍋をしまい、ハーゼが燭台の炎を落とす。ユルクは誰にも気付かれないよう背伸びを一度してから、見回りに戻った。


「明日、共同体の前で何を示す?」


 レオンが尋ねる。私は記録帳の余白に新しい行を作った。


「分担表を見せます。兵の当直、倉庫の棚卸し、洗濯室の帳簿、厨房の買い付け。どれを誰がどの曜日にやるか。……恋を数字で語るのは滑稽に見えるかもしれませんが、支え合いは、目に見える形で示すのが一番早い」


「滑稽だとは思わない」


 レオンは静かな目で言う。「君の言葉で、俺は安心する。定義は、君の剣だ」


 指輪がまた、温かくなる。

 私はふと、窓に映る自分の頬が、以前より色づいて見えることに気づいた。蜂蜜色の灯りのせいだけではない。


「記念日」


「え?」


「昼に決めた。記念日を増やす」


「年に二回までと申し上げたはずです」


「では、今日を“エプロン記念日”に。増えた分は、俺が――」


「守る前に、相談してください」


 私は笑いながら遮った。レオンも笑う。

 笑い合うあいだ、廊下の向こうから誰かの足音。セルジュではない。もっと軽く、弾む音。ハーゼが扉を開け、伝令の少年が顔をのぞかせた。


「奥様、明日の市場、雪代で道が狭いと。馬車は四台までしか通れません」


「了解。買い付けの順番を入れ替えましょう。蜂蜜は先に、胡桃は後で」


 レオンが即座に言う。「峠道は俺が見に行く。勝手に守らない。ユルクに伝えて、同行を頼む」


 ――よし。私は記録帳に、小さく丸をつけた。第四条、運用開始。

 生活の中で恋が走り出す手応え。明日の仮監査は怖くない。怖くないふりではなく、本当に。


「おやすみ、レオン」


「おやすみ、アーデル」


 部屋へ戻る廊下は、パンと蜂蜜の匂いが薄く漂っている。

 扉の前で、私は自分の指輪にそっと触れた。微光はもはや、微ではない。短く、確信のある灯り。

 契約書の余白は、まだ広い。今日増えた文字が、明日を少しだけ軽くする。



 寝台に腰を下ろし、記録帳の最後に明日の段取りを書いた。


 ――領民代表:粉屋、鍛冶屋、洗い場の頭。

 ――食堂での仮監査。分担表の掲示。

――宣言の言葉(共同の意思表示)を短く、現在形で。


 ペンを置いたとき、小さな音がした。窓の外、雪代の水音だ。春は早い。

 期限まで二十九日。短い。けれど、短いからこそ、毎晩が愛おしい。


 恋の定義は、ひと晩で完成しない。粉のように指にまとわり、湯気のように逃げ、けれど確かに、パンになる。

 明日、私たちは生活で示す。指輪はきっと、また答える。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ