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一度きりの離縁をください ― 契約夫婦、期限切れ前夜  作者: 東野あさひ


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第19話「名の返歌――“役で呼ぶ宴”」

 朝、旗は半歩左で機嫌がよかった。風は乾いて軽く、樋の音は細く途切れず続く。私は壁の〈季節の棚〉に昨日の三つの写し――小石十、名簿の印、明日の甘さの箱――を小さく追記し、その下に細い余白を空けた。王都の返事が来る場所だ。余白は怖い。けれど、置き場所があるなら持てる。私は余白の角に丸をひとつ描き、そこに「返歌」と書いた。議場の風にこちらの歌を返したのだから、向こうからも歌が返ってくるはずだ。


 窓口に封が二つ。ひとつは王都監査局、もうひとつは緋の蝋。ハーゼが私の横で息を整え、先に監査局の封を切る。小さな整った字が目を走る。


『三問の写し、確かに受領。

 “呼ばない二刻”=小石十、“名は動詞”=名簿の印、“半分で足りる”=明日の甘さの箱。

 いずれも所作を伴い、数と図で支えあり。

 ――ただし、議場では“名の明確化”を求める声なお強し。

 写しの提示をもって、家の「婚姻調整」につき“名を挙げよ”の圧が増すやもしれぬ。』


 喉の奥がきゅっと結び直される。名。やはり、名が戻ってくる。私は封を伏せ、緋の蝋のほうを開けた。家の文は硬いが、昨日よりわずかに湿り気を含んでいるように見えた。


『三日以内の“目に見える進捗”につき、“宴”を設けよ。

 宴は名を整える場である。

 候補三家の使い、家の年長者、王都監査局の立会いを得て、

 “婚姻に備える名と役”を披露すること。』


 “宴”。私は思わず視線でレオンを探した。彼は剣帯のない腰で、掌を空にしたままこちらを見る。瞳の奥で火が燃えているのに、不思議と温度は穏やかだ。


「――宴を、役でやろう」と彼は言った。「名ではなく、今日の名で」

「“宴”は“名を整える場”と書いてあります」

「なら、動詞の名を並べて整える。叩き手、割り手、見守り、呼ばない番。席札は役にする。王都の客は“誰がどれ”と訊ねるだろう。――今日の印を見せる」


 私は息を吐いた。宴。怖さよりも、言葉の置き場が頭に浮かぶ。席札に動詞。配膳は半分ずつ。祝辞は現在形。誓わない。示す。私は板に大きく書く。〈役で呼ぶ宴〉。その下に丸をいくつも並べ、拾い制で配る。


 〈叩き手の卓〉――ヘーデと鍛冶の若い者たち。

 〈割り手の卓〉――ローレンと粉屋の面々。

 〈見守りの卓〉――ミーナと子ら。

〈呼ばない番の卓〉――ユルクと兵の交代。

 〈渡し手の卓〉――マルタと台所。

 〈写し書きの卓〉――ハーゼと文官見習い。

 〈窓口の卓〉――レオン。

 〈語り手の卓〉――私。


 名はどこにもない。あるのは、その日の動きだけ。私は胸の奥の紐がひとつほどけるのを感じた。同時に、別の紐が締め直される。宴は人を集める。人は視線を持ってくる。視線は、脆い場所を探す。弱さの開示。――私は小さく頷いた。宴の冒頭で、自分の弱さを短く置いてしまおう。最初に置かれた弱さは、場の重心を下げる。台がひっくり返りにくくなる。


 準備は拾いで回り始める。マルタは台所に“半分の棚”を増設し、「甘さを二日に伸ばす置き場」を作る。ローレンは粉をひと臼分だけ挽いて止め、「臼の骨を守る」。ヘーデは鍛冶場で小さな打音を試し、祝辞の後に二打で合わせる音を磨く。ユルクは兵舎の前で赤い帯を折り目なくたたみ直し、「宴の二刻は呼ばない」の札を厚紙に貼り替えた。ミーナは子らに見守り札の持ち方を教え、札の裏に「背で聴く」と書いた。


 正午。峠道の先に塵が立ち、荷車と馬と、ゆったりした歩みの一団が見える。最初に姿を現したのは王都監査局の使者とセルジュ。続いて、候補三家の使い。さらに、その後ろにひとり、見覚えのある横顔――候補者の母。昨日、箱を歩かせた人だ。彼女は一歩離れて並び、目だけで場を測っている。


 最後に、旗の揺れと同じ色の上衣。ゲルトルート。今日は従者を遠くに置いている。半歩左の旗が、その背で静かに高い。私は胸の奥の拍動を数え、盤の上に置かれた石のように呼吸を落ち着けた。


「――宴を始めます」

 私は中央に立ち、まず今日だけ欄を指差す。「今日の宴です。明日の約束は置きません。未然形では祝辞を言いません。現在形で示します」

 そして、弱さを置く。「私は今日、怖いです。 人が集まると、私は名を探されるのが怖い。けれど、名は動詞に宿ると決めたので、席札を役にしました。見守ってください」


 空気が少し沈み、床がひとつ低くなる感触。セルジュは目を伏せた。候補者の母はわずかに頷いた。ゲルトルートの顔は動かない。けれど動かない顔の奥で、何かが位置をずらす音がした。


 私は席次を示す。「叩き手の卓はこちら。割り手はその向かい。見守りは子らが中央に。呼ばない番は兵舎側で帯の前。渡し手は台所、写し書きは窓口横。窓口は旗の足元。語り手は、ここです」


 客人の顔に、わずかな驚きと微笑が順に広がる。名前を呼ばれないことに不満を覚える顔が、いくつか。だが席に置かれた役札は、触ると手応えがある。厚みが、今日の名を支えている。


 祝辞。私は記録帳を胸に抱え、昨日のことばを少しだけ編み直して並べる。

「私は今日、ここで暮らしています。私は今日、助けを求め、半分を持ち、半分を渡しています。私は今日、弱さを言葉にし、仕組みを贈ります。私は今日、旗と樋を半歩ずらします。私は今日、甘さを分け合います」

 ヘーデが二打、金具を叩く。ローレンがパンを半分に割り、マルタが蜂蜜を薄く塗る。サビーナは桶の縁で一打だけ水の音を作り、ミーナは見守り札を胸に、子らの呼吸を数える。ユルクは赤い帯の前で立ち、呼ばない。ハーゼは筆を滑らせ、写しに落とす。レオンは掌を空にし、窓口として立つ。


 静けさの中で、候補者の母が立った。顔は厳しいが、声は低く、柔らかい。「呼ばない二刻は、女中頭が気に入ったようです。“見守りの札を分けてほしい”と言われました。……半分で結構」

 私は礼をし、札束の半分を差し出す。母は半分を受け取り、半分をわたした手に戻した。「返歌」と彼女は短く言った。甘さの跡がその言葉に混ざって、場の温度が少し上がる。


 候補三家の使いのひとりが口を開いた。「宴の式で“名”を呼ばないのは前例がない。家の人間はどこに座るべきか」

 私は窓口の卓を示す。「役が座るところに、家は座ってください。叩くなら叩き手の卓へ。割るなら割り手へ。見守るなら見守りへ。――今日の名簿に印が残ります」


 ざわめき。だがそこでゲルトルートが一歩進み、旗の足元から窓口の札をひょいと取ると、自分の胸元に挟んだ。「窓口はここで受ける」とだけ言って、私の隣に立った。

 指輪がきっぱりと光った。短いのに、今日いちばん鮮やかだった。セルジュが目を細め、監査局の使者がペンを止めた。候補者の母はわずかに目を伏せ、微笑の気配を残す。


 宴が動き出してからのことは、記録帳の余白にしか書けないような細かい音でできていた。粉袋が半分ずつ別の卓へ運ばれ、塩は二つの小皿に分けられ、鍛冶の火は二打ごとに息をする。子らは見守り札を握って数を数え、兵は赤帯のこちら側で呼ばれない。誰も大声で名を呼ばず、役の合図で人が動く。

 王都の客たちの顔に、最初の驚きがやがて興味に変わり、さらにその奥で安堵に似た表情が生まれていく。呼ばれないのに、居場所が失われないのだと知ったとき、人は肩の力を抜く。**“呼ばれない勇気”**は、見た目より静かに伝染する。


 宴の半ば、思いがけない出来事が起こった。候補のひとつの家の若い使いが、皿を持ち上げる拍子に手を滑らせ、陶の皿が石畳で割れた。乾いた音が中庭に響き、視線がそちらに集まる。

 彼は顔を白くし、「申し訳ありません、名を――」と口走りかけた。

 私はすぐに割り手の卓を指差し、ローレンの札を掲げた。「割り手、拾います。」

 ローレンは皿の破片を半分に寄せ、もう半分を別の皿に受けて並べた。「半分があれば、形は続く」と言って、蜂蜜の薄い菓子を破片に載せた。マルタが新しい皿を渡し手として差し出す。

 若い使いの頬に血が戻る。彼は深く頭を下げ、「割ったのは私です」と言った。

 私は頷き、ハーゼが名簿に印を打つ。「割ったのはあなた。拾ったのは割り手。――共有です」


 ゲルトルートがそのやり取りを無表情で見ていたが、名簿に印がつく音のところで、ほんのわずかに目を細めた。家で“割れ”は失点だ。だがここでは“割れ”は役の呼び水になる。動詞は、失点を動きに変える。彼の中で、何かの式が書き換わっていくのがわかった。


 日が傾き始めたころ、セルジュが立って言った。「写しを回収する」

 彼は名簿、甘さの箱の蓋、赤帯、見守り札の半分、叩き手の二打の記録、割り手の合図――それぞれを所作と図で写し、封へ納める。監査局の使者も手際よく補助した。

「議場が求めているのは、**“言い換えだけではない”証。ここにはある」セルジュは小さく頷いた。「ただ、議場には今日も明日もいるのに、“夜の一時間”**がない。そこをどう写すか、私の役目です」


 候補者の母が一歩出る。顔の影は薄く、目には午前よりも濃い光。「女中頭が“見守り札”を欲しがりました。――返歌をもうひとつ。**“呼ばれない二刻”**を、台所で試します。半分の菓子で」

 マルタが「ようこそ」と笑い、蜂蜜の壺に指で小さく印をつける。〈返歌:台所〉。


 宴の終わり近く、ゲルトルートがゆっくり立った。「……家の言葉で宴を締める慣わしだが、今日は君の言葉で締めてみろ」

 私は胸の奥で小さく驚いた。家の祝辞は未然形に満ちる。それを譲るというのか。

「現在形で、よろしいでしょうか」

「今日なら何でも」

 私は頷き、息を吸った。

「私は今日、名を動かして座りました。

 私は今日、割れを拾い、呼ばないを守り、甘さを半分にしました。

 私は今日、ここにいる人を“誰”ではなく“どう”で呼びました。

 私は今日、恋の定義を更新しました。」

 ヘーデが二打、金具を叩く。旗が風を受け、半歩左の角度で音の余韻を撫でる。

 指輪が光った。今度は短く二度。――二打に呼応するように。


 人々が散っていく。石畳に皿の粉、白墨の粉、蜂蜜の薄い跡。夕暮れの風は、議場の乾いた匂いを少しだけ運び、すぐに峠の匂いと混じる。私は食堂の隅に記録帳を置き、夜の一時間に入る前の静けさを吸い込んだ。


 ハーゼが机に写しの束を揃え、ミーナが見守り札の紐をほどき、サビーナが桶の縁を拭き、ローレンが臼を撫で、ヘーデが火床の灰を手で掬い、ユルクが赤帯を箱に返す。レオンは掌を空にして、私の隣に座った。


「今日の好き」私は書く。〈あなたが窓口の札を胸に挿したこと〉

 レオンも静かに書く。「〈君が“怖い”を先に置いたこと〉」

 指輪が光る。灯は控えめで、しかし長く残った。机の木目に、今日の線が細く増える。


 人がはけ、窓辺に夜が立ち上がる。旗は見えないが、その影は壁をゆっくり移動する。私は記録帳の末尾に新しい一行を足した。

〈恋は、名で呼ばれる場所に、“役”の席札を置くこと〉。


 離縁まで、十四日。数字はまだ硬い。だが、宴は終わった。役で呼んだ宴。返歌はきっと、もう一度来る。名の向こうから、どうの側へ。


 灯を落とす前、私は指で余白を撫でた。そこにはまだ、王都の返歌が置けるだけの白がある。白は怖い。けれど、怖さを置く棚はできた。今日だけ欄の隣に、返歌の欄。季節の棚の、夏欄の脇に。

 目を閉じる。暗闇は怖くない。今日の役札が、胸の上に軽く並んでいる音がする。叩き手、割り手、見守り、呼ばない番、渡し手、写し書き、窓口、語り手。――どれかひとつでも落としたら、明日、拾えばいい。半分は、いつでも作れる。

 短い光が、指と指の間でまたひとつ点った。

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