第18話「議場の風――“写しが届く日”」
朝の鐘が一度鳴っただけで、砦の空気が少し違うことが分かった。山の上から乾いた風が降りてきて、紙の端をめくり、板の白墨を薄く拭っていく。議場の風――と、私は心の中で名付けた。昨夜送り出した半分の箱が、王都に着くころ合いなのだろう。遠い場所でめくられる紙の音が、風の手を借りてここまで届くことがある。
私は壁の〈季節の棚〉の夏欄に、細い線を一本書き足した。〈議場=風〉。音ではなく、空気の傾きで知らせる印。ハーゼが背後で小さく咳払いをして、「王都の風は、たいてい紙と布と埃の匂いがします」と言った。
「今日は“議場の写し”を、ここで動かします」
私は分担表の横に新しい板を立て、四つの短い役名を書いた。〈語り手/割り手/叩き手/呼ばない番〉。今日の名だ。人の固有名ではない。動きの名。
語り手は私、割り手はローレン、叩き手はヘーデ、呼ばない番はユルク。レオンはその横で窓口役に立つ。ハーゼは写し書き。サビーナは水の証人、ミーナは見守り。
レオンが掌を空にして言った。
「頼む。半分。――議場の風に呑まれそうになったら、俺に“今”を言ってくれ」
「引き受けます。あなたも、私の言葉が細くなったら、“半分”を」
指輪がほのかに光る。灯はいつも通り短いのに、今朝は少しだけ背筋が伸びる。風の匂いのせいかもしれない。
昼前、門で蹄の音。王都監査局の使者と、見慣れた灰の目――セルジュ・ヴァレンが一緒だった。彼は外套の埃を払って、開口一番、机に封書を置く。
「議場に届いた。――“半分の箱”は開かれ、討議が始まっている。そこで三つ、問が出た」
封を割ると、細い文字で連ねてある。
一、「呼ばない二刻」は、怠慢を正当化する口実にならぬか。
二、“名は動詞に宿る”は、責任の所在を曖昧にせぬか。
三、“半分で足りる”は、結局のところ“未来の不足”を見ない方便ではないか。
私は紙の角に指を乗せたまま、喉に小さな石が落ちるのを感じた。未来の不足。たしかに、私たちは未然形を避けている。未来を言わずに、今日を言う。そこにはいつも、足りない明日の影が差し込める余白がある。
セルジュは私の顔を見て、小さく頷いた。
「今日ここで、三つの“写し”を作ってくれ。私はそれを持って戻る。言い換えではなく、所作として」
「所作にしましょう」私は板にチョークを走らせる。〈問一=呼ばない二刻/問二=名は動詞/問三=半分で足りる〉。
まず、問一。私は呼ばない番の札をユルクに渡し、兵舎の前に立ててもらう。二刻の赤帯。
「“呼ばない”の目的は怠けるためではなく、骨を守るためです。今日は――商隊が来るかもしれない風の匂いがします」
ローレンが鼻をひくつかせた。「ええ、粉袋には分かります。麦の汗が近い匂いです」
「商隊が来たら?」セルジュが問う。
「兵は呼ばない。代わりに、拾い制で“短い受け入れ線”を作る。台所、洗い場、鍛冶、粉屋、それぞれの半分が、一刻だけ“商隊の窓口”になる」
「兵を動かさないのか」監査局の使者が眉を上げる。
「呼ばない勇気は骨の保険です。短い窓口は生活の保険。保険を二つ走らせると、どちらも薄くなくなる」
ちょうどその時、遠くで車輪の軋みと鈴の音。風の匂いが麦に変わり、商隊が現れた。緩い坂を軋みながら、荷台に粉袋と塩、乾いた果物。峠の道は乾き、日差しは強い。
私は窓口役の札をレオンに掲げ、「今日だけ窓口」と書いた。台所にはマルタ、洗い場はサビーナ、鍛冶はヘーデ、粉屋はローレン。ミーナは見守りで列の端、ハーゼは写し書き。ユルクは兵舎の門で、赤い帯の前に立つ。
商隊の親方が息を吐きながら叫んだ。「手を貸してくれ、峠の陽がきつすぎる!」
「拾います!」と私は答え、“短い受け入れ線”を板に描く。荷下ろし→水の受け→粉の積み替え→鍛冶の金具→台所の塩。一巡り一刻。
ヘーデが金具を二度叩く。合図。ローレンが粉袋を半分に割る――袋の中身をではなく、隊列を。半分だけ先に通す。サビーナが水を二杯に割る。ひとつは飲むため、ひとつは手を濡らすため。ミーナは見守り札を高く掲げ、列の“じわじわした苛立ち”を吸い取る場所として立つ。
ユルクは一度も振り向かない。兵は呼ばれない。赤い帯の向こうで、呼ばれたい顔が三つ、四つ、五つと増えていくのが見えたが、彼は呼ばないことで守っている。役が、役を守る。
商隊が去るころ、石畳の上には小石が十個、箱に落ちていた。呼ばれなかった証。セルジュはそれを見つめ、静かな声で言う。
「“呼ばない二刻”は、怠慢の口実ではなく、仕組みの一部として見える。――これが写しだ」
監査局の使者もうなずいた。「数がある」
私は板に丸を付け、問一の脇に**〈写し:小石十〉**と書いた。
次に、問二。“名は動詞に宿る”は責任の所在を曖昧にしないか。
「名を動詞に置くのは、責任の逃げ水ではありません。責任の“共有”です」
私は板に**“今日の名”を並べ、拾い制で札を回した。語り手、割り手、叩き手、呼ばない番、窓口、見守り、写し書き、渡し手。それぞれの名に、小さな針を刺す。今日の担い手。
「誰が『叩いた』のか、誰が『割った』のか、誰が『呼ばなかった』のか、動詞の脇に印が残る。印は今日の名簿に写る。明日になれば、印の列が別の人に移る**」
ハーゼが名簿を広げ、細字の列を示す。今日はヘーデが叩き手、明日は別の腕。今日はローレンが割り手、明日は違う手。今日の名は、回る。回るからこそ、偏らない。
「動かない名は、動かない責任を作る」私は静かに言った。「今日の名は、責任を動かす。動くから、溜まらない」
セルジュは羽根ペンの先で紙を軽く叩く。「“責任の循環”――王都が苦手にしている語です。……だが、必要な語でもある」
板の問二の脇に、〈写し:名簿の印〉と書いた。
三つめ、問三。“半分で足りる”は、未来の不足を見ない方便ではないか。
「半分は、明日のための空白を作る単位です」
私は台所の前に大皿を置き、蜂蜜の薄い菓子をどさりと載せた。マルタが片眉で合図。
「これを一度で配れば、満腹は今日だけ。半分で配れば、今日も明日も甘さがある」
私は菓子を半分に切る。半分を配り、半分は札の箱に入れる。蓋に**〈明日の甘さ〉と書く。
「半分は、未来の不足を見ない方便ではない。未来の空腹を今日の台所で見ておく技術です。今日を削らず、明日の窓を開ける」
ローレンが粉袋の紐を指で弾く。「麦も同じ。ひと臼で全部挽くのは愉快だが、臼が焼ける。半分ずつで、臼も人も壊れない」
ヘーデは火床を指で示す。「鉄もだ。熱は半分で入れて、半分で抜く。急ぐと折れる」
ユルクは赤帯の前で頷いた。「兵も半分**で回す。全部を燃やせば、明日が立たない」
私は板に〈写し:明日の甘さの箱〉と書いた。セルジュがそれを見て、目尻の皺を少しだけ深くした。「未来の空白を“箱”にして見せる。――それなら、議場でも語れる」
書き終えると、風が板の縁で鳴った。議場の風が、こちらの写しに手を触れた気がした。そのとき、門からもうひとり、見覚えのある影。ゲルトルート・グライフが従者を遠くに置いて、独りで入ってきた。旗は彼の背で静かに揺れ、半歩右は今日も正しい。
「王都へはもう箱が着いた。議場は……賑やかだ」
彼は短くそう言い、板を一つひとつ見ていく。赤帯、小石、名簿、甘さの箱。
「“呼ばない二刻”は、怠けと見える。だが、今日の小石は十だ。――見えるのは、強い」
彼の声は低い。背に背負った家の重さのせいで、言葉はいつも短い。その短さが、今日は妙にこちらの言葉に似て聞こえる。
「“名は動詞”は、家を曖昧にする。だが、今日の印ははっきりしている」
彼は名簿の列に目を落とし、眉をほんの少し緩めた。
「“半分で足りる”は、怖い。だが、今日を削らずに明日に触れようとする意志だ」
ゲルトルートはそこで言葉を切り、わずかに笑った。
「……俺は祝辞が嫌いだ。だが、今日の説明は嫌いではない」
それは最大級の賛辞なのだろう。指輪が短く光った。彼は光に目を細め、何も言わずに旗の足元の石を半歩、爪先でずらした。「風が、左から回った」
「ありがとうございます。半歩、左に」
私は夏欄の端に小さく〈旗=半歩左〉と追記した。昨日の正しさが今日は違う。だから半歩。
夕刻、セルジュと監査局の使者が、写しを抱えて門へ向かう。
「三つの写し、確かに預かった」セルジュは言う。「言い換えと所作が重なっている。王都で、砂の上に線を引くより、板の線を置く方が早いことを、何人かは思い出すだろう」
「頼む」レオンが低く告げる。「王都の床は滑る。半分で歩いてくれ」
「半分で十分だ」セルジュは笑わずに言って、踵を返した。
私は記録帳を開き、今日の三行を書いた。
〈問一=呼ばない二刻/写し=小石十〉
〈問二=名は動詞/写し=名簿の印〉
〈問三=半分で足りる/写し=明日の甘さの箱〉
「今日の好き」私は行の端に書き足す。〈あなたが旗を半歩左にずらしたこと〉
レオンは静かに笑って、隣に書く。「〈君が“未来の空白”を箱に入れたこと〉」
指輪が光る。灯は風に揺らがない。指と指の間で、芯だけがまっすぐ燃える。
夜。呼ばない二刻が終わり、兵が背の力を抜いた顔で隊列を解いた。ユルクが赤帯を外し、丁寧にたたんで箱にしまう。ミーナは見守り札を新しい紐に通し、胸に当てて「渡し手に回します」と言った。サビーナは手の甲に残る水滴を見て、「水は今日も音を覚えてる」と笑う。ヘーデは金具を二度叩いてから、火床の灰を撫でた。「明日の熱は、今日の灰から起こす」
マルタが蜂蜜を薄く塗った小さなケーキを持ってきて、「今日は半分で十分?」と片眉を上げる。
「半分を今日。残り半分は明日の箱に」
「よろしい」マルタはにやりと笑い、包み紙の裏に小さく書いた。〈明日の甘さ〉。
消灯間際、窓の外で旗が風を撫でる音。半歩左の角度は今夜は正しい。私は机に向かい、恋の定義の末尾にそっと一行を足した。
〈恋は、議場の風に“今日”で返すこと〉。
離縁まで、十五日。
数字は相変わらず冷たい。けれど、風はもう冷たくない。写しは歩き、半分は足り、名は動いて、兵の骨は休み、甘さは箱に眠る。未来の不足は、今日の箱の中に空白として見える。恐れは消えないが、置き場所がある。置き場所があれば、持てる。持てるなら、半分は渡せる。
私は灯を落とし、暗闇に目を慣らした。暗闇は怖くない。旗の影が壁をゆっくり横切り、樋の音が遠くで細く続く。現在形の証拠が、音と影で部屋を満たしていく。目を閉じる直前、胸の中央で小さな灯がまたひとつ、短く、確かに点った。




