第15話「式の言葉――“祝辞を現在形で”」
翌朝、濡れた旗は中庭の陽に半歩ずらした位置で揺れていた。昨夜、窓辺でゲルトルートに伝えたとおり、風の抜け道が変わり、布の波立ちは穏やかだ。石畳には雨の記憶がまだ光っている。私は指で白墨の欠片を転がし、壁の〈季節の棚〉の夏欄に小さく丸をつけた。〈旗=位置調整 半歩右〉。まるで笑っている顔のように見えたのは、私の気のせいだろう。
窓口に封書が二通、重なって届いた。ひとつは王都監査局の定型文。もうひとつは、家の緋色の蝋。嫌な予感は外れないと知りつつ、私は家の封から先に開けた。
『本日夕刻、威信の示式の続きとして“小式”を行う。家は旗を立て、砦は謝意を示す。
式次第:一、旗の拝。二、祝辞。三、題目唱和。
祝辞は家の文式に従い、“今後も家に尽くす”“絶え間なき忠誠を誓う”“婚姻の良縁を願い将来に備える”――以上三句を必ず盛り込むこと。』
紙の内側から冷たい手が伸びてきたみたいに胸が縮む。未然形、と未来への誓言。私たちが夜ごとルールに刻んだ、「未然形で約束しない」と真っ向からぶつかる。目が文字の列を何度も撫でても、内容は変わらない。私は封を伏せ、もう一通を開く。王都監査局のほうは乾いた文面で「昨日の緊急対応の記録提出に謝意」「引き続き“今日の運用”を重んじよ」とある。二通の熱の差が、指先の温度差になって残る。
背後で気配。レオンが剣帯のない腰に手を当て、封の縁を見た。表情は固いが、昨夜ほどの影はない。
「……“祝辞”か」
「家の文式に従い、三句を必ず、ですって」
「なるほど。家の音で場を固めたいんだ」
「でも私たちの言葉は、今日にしか置けません」
「なら、今日で祝う。現在形の祝辞だ」
簡単に言う。簡単に言ってくれるから、私は自分の喉の結び目をひとつほどけることができる。私は壁の前に立ち、黒い板の中央に大きく書いた。〈祝辞=現在形〉。その下に四つ、短い行を置く。
――私は今日、ここで暮らしています。
――私は今日、助けを求め、半分を持ち、半分を渡しています。
――私は今日、弱さを言葉にし、仕組みを贈ります。
――私は今日、旗と樋を半歩ずらします。
読み上げると、マルタが台所から顔を出した。「甘さは入れないのかい? 祝辞にこそ蜂蜜を一滴」
「では、最後に**『私は今日、甘さを分け合います』**を」
「よろしい」
ハーゼは眼鏡を押し上げ、家の文式と見比べた。「“今後”“絶え間なき”“将来”――すべて未然形、未来形。……文式を壊さずに現在形で返すには、位置を言い換えるしかありません。『今後も尽くす』は『今日ここを回す』に、『絶え間なき忠誠』は『貼り替えられない札を守る』に、『将来に備える』は『今日の仕組みを贈る』に」
「言い換えは可能ですか?」
「文官の枠は守れます。句読点と接続だけ整えましょう」ハーゼはさらさらと筆を走らせる。
ユルクは「式なら警備を」と短く言い、兵舎に戻る前に休息帯の札を確認した。「夕刻の二刻、呼ばないを死守する。式の喧騒で、骨を削らせない」
ヘーデは鍛冶場から金具と金槌を持ってきて、「祝辞の終わりに**“打音”**を入れよう」と言う。「ことばのあとには、音が要る。火の音を二度、軽く。今ここに火があると知らせる音だ」
ローレンが粉袋を抱えて笑う。「なら、パンも焼き直して“割る音”を入れましょう。半分に割れる音は祝辞にふさわしい」
サビーナは桶を置き、「水の音も要ります。樋に水が通っているか、背で聞こえるように」
皆の声に背中を押されながら、それでも胸の奥で氷の粒が鳴る。婚姻の札だ。家は「将来に備える」を入れろと書いた。文式上の“備え”は、たぶん人と人を結ぶ準備の意味を含む。窓口に落としたはずの札が、祝辞の言葉に形を変えて戻ってくる。
「……レオン、“婚姻”をどう入れ替えますか」
レオンの視線はまっすぐだった。「人を差し出す言葉は入れない。生活を渡す言葉に置き換える。婚姻を“仕組みの贈り物”に変えるって、昨日決めたろう」
「はい。今日それを言います」
昼下がり、思いがけない客がもうひとり現れた。灰色の瞳の監査役――セルジュ・ヴァレン。旗の濡れ跡がまだ色を濃く残す中庭で、彼は布の揺れと樋の音を同じ目線で眺めていた。
「通り道でした」と彼は淡々と言い、私の手元の文を見て片眉を上げた。「祝辞を現在形で?」
「未然形で約束しないと決めています。今日だけを言います」
「……見物です。言い換えが誠実さを失わせるのが常ですが、あなた方の場合、言い換えはむしろ誠実の形式なのかもしれない」
褒められてはいない。けれど、拒まれてもいない。それでじゅうぶんだ。
夕刻の鐘。小式の場は中庭の一角に設えられ、旗は半歩右の位置で風を受けている。板には〈祝辞=現在形〉の四行と“蜂蜜を分け合います”が小さく添えられ、横には数字と図――導水の角度、休息帯の小石、拾い制の名簿。兵の列は呼ばれない二刻の境界の外で静かに立ち、代わりに“拾い”の札を持った砦の面々が輪になった。ミーナが見守り札を胸の前に押し当てている。
ゲルトルートが旗の前に立ち、儀礼の文言を短く述べる。家の音。硬く、冷え、無駄がない。続いて「祝辞」と低く告げ、視線でこちらを促す。私は頷いて、レオンと並ぶ。彼は掌を空にし、私は記録帳を胸に抱えた。息を合わせる必要はない。けれど、合わせる。現在形の言葉は、同時に出すと一層強くなる。
「私は今日、ここで暮らしています」私。
「俺は今日、ここで頼り、半分を持ち、半分を渡しています」レオン。
「私は今日、弱さを言葉にし、仕組みを贈ります」私。
「俺は今日、旗と樋を半歩ずらします」レオン。
「私は今日、甘さを分け合います」二人で。
言い切った瞬間、ざわめきがほんの少し、空気に皺を作る。誰も未来を誓っていない。なのに場はほどけず、ほどけたのは私の胸の結び目だった。家の三句は、別の位置に言い換えられ、今日の地面に着地した。
ヘーデが金槌を軽く二度、打つ。コーン、コーン。鍛冶場の火が遠くで応える。ローレンは焼き直したパンを半分に割り、パキンという乾いた音を中庭に落とした。サビーナは樋の流れを確かめ、親指を立てる。マルタが蜂蜜を薄く塗った破片を私とレオンに手渡し、ミーナは見守り札を高く掲げる。
「……言い換えたな」旗の前でゲルトルートが低く言った。「誓うを、示すに」
彼の目は冷たいままなのに、奥で何かが揺れた。たぶん、昨日の雨と今日の蜂蜜が、目に見えないところで混ざっている。
「今日しか言えません」私は返す。「でも、今日の言葉は、明日の写しになります」
「写し、か。――王都は、写しを嫌う」
「嫌ってくださって構いません。生活を嫌うことにはならないから」
「強いな」彼は短く笑ったのかどうか、判別できない息を漏らしただけで、式は終わった。
群衆がほどけ、数字と図の前に小さな輪が残る。セルジュがそこに立って、羽根ペンで何かを記す。
「“誓言の不在が場を解かない例”」彼は自分に言い聞かせるように呟いた。「現在形の祝辞は、観衆に“いま関与している”という感覚を渡す。未来の欠片は、そこから各自が持ち帰る」
「監査役さん、蜂蜜を」マルタが皿を差し出す。セルジュは遠慮がちにひとかけ受け取り、舌にのせてから目を伏せた。「……甘さは、記録に載せにくい」
「だから贈り物なんですよ」私は笑った。「載せにくいものほど」
夕日の赤が旗を透かし、濡れ跡の縁が薄く橙に光る。ゲルトルートは旗の足元に立ち、角度をもう一度だけ確かめると踵を返した。去り際に――これは確かに、笑った。ほんの気配ほどだが。
「半歩右。今日は、それでいい」
人の足音が遠のき、夜がゆっくり降りてくる。私たちは“夜の一時間”のために食堂の隅へ戻った。記録帳の白が黄の灯で温まり、今日という日の輪郭がそこに沈む。
「〈小式〉〈祝辞=現在形〉〈半分の割り音〉」私は読み上げ、さらに一行加えた。「〈誓いの言葉を示す言葉に言い換えた〉」
「今日の好き」レオンはいつもの行に書く。「〈君の“甘さを分け合います”が、どの文より強かった〉」
胸が熱くなる。私も書く。「今日の好き 〈あなたが“半歩ずらす”を祝辞に入れたこと〉」
指輪が光る。今日いちばん長く。芯は太く、しかし過剰ではない。私たちの静かな灯だ。
人が出ていき、隅にセルジュだけが残った。
「あなた方の定義は、毎晩、更新される」
「はい。記録が生き物だから」
「その更新が、依存から離れていく方向で起きている。……それが私の記録です」彼は羽根ペンをしまい、薄く頭を下げた。「写しを王都へ持ち帰る。砂の上の文字ではなく、板の上の線として」
消灯後。廊下の石は冷たく、窓からは乾ききらない夏の匂いが入ってくる。レオンと肩を並べて歩く。沈黙は、重石ではなく毛布のようにやさしい。
「祝辞、どうだった?」
「今日にしか置けませんでした」
「それでいい。今日の言葉は、明日を無言で押す」
「無言で?」
「うん。板の線みたいに」
部屋に戻ると、机の上に小さな包み。マルタが置いていったのか、干し葡萄と胡桃の混ざった小さなケーキ。切る前に、私はふと、包み紙の裏に一行を書きつけた。〈恋は、祝辞を現在形で言うこと〉。包み紙は記録帳ではない。けれど、今日ここで生まれた言葉を封じておくのに、これ以上の紙はなかった。
寝台に腰を下ろし、旗の影を思い出す。半歩右。たったそれだけの差で、布は機嫌を変える。人も同じだ。半歩ずらせば、守れるものが増える。半歩ずらせば、触れられる肩がある。
離縁まで、十八日。数字は冷たいが、今日の灯で指先は冷えない。窓の向こう、夜は濃く、短い光がよく見える。私は目を閉じ、言葉を置く場所を胸の中央に確かめた。そこは、私と彼の現在形が重なる小さな台。旗の足、樋の縁、台所の木の台、記録帳の余白。どこにだって据えられる。どこにでも持っていける。祝辞はそこで生まれ、そこでまた、明日、言い換えられる。
明日の朝、窓口へ包み紙の一行をそっと写して出そう。祝辞=現在形。家の文式の欄外に、それでも残る余白に。余白の小さな島が、いつか地図になるまで。




