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一度きりの離縁をください ― 契約夫婦、期限切れ前夜  作者: 東野あさひ


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第14話「揺らぐ交差――“家の威信”と“生活の証”のはざまで」

 反駁の文が届いた翌朝、空は早くも夏の色に寄りはじめていた。薄く光る雲の端を、峠から吹く風が裂く。食堂の壁に貼られた〈季節の棚〉の夏欄は、昨日付け足した数字で埋まりつつあり、紙の端には乾いた白墨が粉のように残っている。私は指でそれを払って、深く息を吸った。胸の奥はまだ重い。けれど、重さは形を得ている。持てる重さだ。


 ハーゼが窓口から戻り、静かに封書を差し出した。封蝋はやはりグライフ家の色だ。

「本家より使いがまいります。昼の三の鐘に“威信の示式”。砦にて執り行うとのこと」

 短い報せを聞いて、私は紙の端を無意識に強く握りしめた。威信の示式――つまり、家は砦で儀礼を行い、血統の旗を掲げるつもりだ。議場より手前、日常にまで“家”を連れてくる。昨日の反駁で足りなかった圧力を、今日は形にするというわけだ。


 剣帯を机に置いたレオンが、ゆっくり首を傾けて私を見る。視線は穏やかだが、その奥に深い皺が一筋落ちていた。彼自身が“家”の証しでもある。兄が軍旗を持って来るなら、彼はその旗の前に立つべき駒として呼ばれるだろう。

「……やることは変わらない」レオンは低く言った。「示式に“生活の証”で応える。今日、ここでやれていることを、その場で見せる」

「威信の音には、威信の音で返されるでしょうか」

「音で勝とうとは思わない。見えるもので返す。言葉で削られた分は、手順で埋める」


 彼の掌は今日も空だ。私はそこでようやく息が楽になる。守る前に知らせ、頼って、半分ずつ。彼の空の手は、頼るための形だ。私は頷き、黒板の前に立つと、夏欄の中央に細い赤線を一本引いた。交差点が、わずかに太くなる。


 昼の三の鐘。中庭に旗の先端が現れ、やがて兄――ゲルトルート・グライフが入ってきた。騎兵の靴音が石を叩き、軍旗の布が小さく鳴る。彼は礼儀を崩さぬまま視線だけを巡らし、砦の壁、食堂の扉、兵舎の屋根を順に測った。測られている、という感覚が背筋を冷たくする。けれど、逃げる場所はない。ここが私たちの“今日”だ。


「家の旗はここに立つ」ゲルトルートは淡々と言い、持ち込んだ槍の穂先で地を示した。「威信の示式。短く済む。……レオンハルト」

 名を呼ばれたレオンは、剣帯を置いたまま一歩進む。軍礼は取らない。代わりに、掌を空に見せる。兄の目が細くなる。

「剣も帯も持たぬか」

「今日は持たない。ここでは、空の掌で回しているからだ」

「家の示式だ」

「家は“今日だけ欄”に入れると決めた。ならば、今日のまま受ける」


 張り詰めた空気に、中庭の端で見守る人々の小さな息が混ざった。私の指輪は、皮膚の内側できわめて小さな熱を持つ。まだ光らない。まだ“返す時”ではないのだ。


 示式は簡略に始まった。旗を地へ立て、布のしわが伸ばされる。その瞬間、峠の方角で空の色がわずかに変わるのが見えた。夏のつむじ風――いや、もっと水の匂いが強い。私は無意識に首を巡らせる。黒雲が、切り立った尾根の向こうで芽吹くように膨らんでいた。

 嫌な音が、遅れて耳に届く。雪代ではない。夏の山の、短い豪雨の前ぶれに鳴る、低い鼓動だ。導水の樋は二基。仮の第三基は“設計だけ”で止めてある。二号樋は昨日の通水で安定を確認したばかり――しかし、降り方次第では足りない。


「来る」ユルクが最初に気づいて、短く言った。兵たちの背筋に電気が走る。私は息を吸い込み、休息帯の札が今日貼られた位置を思い出す。昼の二刻は呼ばないと決めた、あの時間――ちょうど今だ。


 胸の中で、二つの掟がぶつかる。“呼ばない勇気”と、“今できる半分”。休息帯は兵たちの骨を守る仕組みだ。無視すれば、仕組みの価値そのものが痩せる。だが、豪雨が先に仕組みをさらってゆけば、休息も生活も一度に失う。私は唇を噛み、レオンを見る。彼は、私が決めるのを待っている。守る前に知らせ、頼る――彼は、待てる。


「――窓口で呼ぶ」私は声を張った。「休息帯は残す。代わりに“拾い制”で樋の補助を募る。兵は呼ばない。台所、洗い場、鍛冶、粉屋、見守り札も含めて、拾える者だけ」

 声は自分のものではないみたいに澄んで出た。恐怖は消えないのに、言葉はまっすぐ飛んでゆく。矛盾している。だが矛盾のまま走るのが、今日なのだ。


 ゲルトルートの眉がわずかに動く。「示式の最中だぞ」

「家は“今日だけ欄”に」私の返事は短く、冷えていた。「今日は水を通す。明日に示式の布を乾かす。その順番です」


 返事を待たず、私は白墨で板に大きく丸を書いた。〈緊急:二号上流補助〉〈仮三号:板二枚+桶〉〈拾い=洗い場/鍛冶/粉屋/台所/見守り〉。ミーナがすでに札を揺らしながら走り出し、サビーナが桶を抱え、ヘーデが金具の箱を肩で担ぐ。ローレンは粉袋から空いた麻袋を引きちぎってロープ代わりにし、マルタは濡れた布と菓子皿をつかんだ。ユルクは休息帯の前で立ち、入ってこようとする兵を静かに押し戻す。

「呼ばない。貼り直しはしない。ここは俺が守る」その横顔は、不思議に穏やかだった。呼ばない勇気は、守っている人間の顔を柔らかくするのだと、私はこの時はじめて知った。


 豪雨は、言い訳の余地も与えずやってきた。空がひと呼吸で暗くなり、峠から流れる水が、さっきまでの音の延長線をあっさりと裏切って太くなる。私は裙をからげ、樋の縁に膝をつき、白墨の印に沿って板を押さえた。両手の指がずるりと滑り、泥が爪の間に入る。

「頼む、肩」叫ぶより早く、重みが乗った。レオンの肩が私の肩を支え、私の重さの半分を持つ。勝手に守らない。知らせて、頼って、半分。合言葉は、こういうときに音を持たないまま身体で鳴る。

「右、指一本分下げる」彼の息が耳のうしろで温かい。私は言われた通りに角度を調整する。ヘーデの金具が鳴り、桶がひっくり返され、板が並び替えられる。第三の仮樋は、設計の線より少しだけ短いが、それでも水は新しい道を知る。サビーナがずぶ濡れの髪を振り、ミーナは見守り札を高く掲げたまま震えながらも、足を引かない。ローレンは麻袋のロープを歯で押さえ、マルタが菓子を砕いて手にねじ込んでいく。「手を動かしながら食べなさい。甘さは燃料!」


 旗は濡れて、色が黒に寄った。ゲルトルートは布を支えたまま、動かない。彼の従者が「避難を」と叫ぶのを、彼は指先ひとつで制している。目の色は、雨より冷たい。だがその視線の奥で、何かがわずかに遅れて動くのが見える。たぶん、彼の中にも“交差”がある。威信の示式と、目の前の樋の音。その二つが、遅い速度で噛み合おうとしている。


 水は、やがて落ち着いた。短い豪雨は来たように、去る。仮樋ははっきりした音で水を吐き、二号は寸分もずれないまま耐えきった。私は膝から力が抜け、泥の上に尻もちをついた。泥は冷たい。けれど、胸の内側は高く燃えるように熱かった。

 レオンが肩を貸してくれる。立ち上がると、指輪が光った。短く、けれど芯のある灯だ。ミーナが目を丸くし、サビーナが笑い、ヘーデが鼻の奥でうなった。「火の色に似てる」


 休息帯の札は、食堂の扉のそばでぬれずに残っている。ユルクが両手で札を押さえ、兵の顔を一人ずつ見渡して頷いた。「守った」たった一言で、彼の背に集まっていた緊張が解けていくのが見えた。


 旗の前に戻ると、ゲルトルートは濡れた布を握ったまま私たちを見た。口元に、微かな線が刻まれている。怒りでも嘲りでもない。言葉にしづらい種類の、判断の途上に生まれる皺。

「……示式を続ける」彼はゆっくり言った。「旗は濡れた。だが、立っている」

「樋も、立っています」私は応えた。「濡れても、立つように作りました」


 彼の目尻が、ほんのわずかに揺れた。それが何の感情なのか判然としないまま、私は自分の胸が軽くなるのを感じる。示式は、旗に触れる短い所作といくつかの文言で終わった。彼は最後に、濡れた布を視線でなぞり、こちらへ向き直る。

「家の反駁は取り下げない。寄進は金、婚姻は人、議場は血統。だが――今日、お前たちは生活で示した」

 そこまで言って、彼は一拍置いた。「記録を送れ。樋の角度、人数、時間、札の運用。今日の内にだ」


 それは退けでも、承認でもない。けれど、拒絶ではなかった。私は深く頷いた。「今日送ります」


 人々は散り、濡れた石畳に夕方の光が滲む。私は食堂へ戻り、板の丸を二本、静かに消した。〈緊急〉の二つは役目を終えた。消えた白い粉が指先にまとわり、それを指で擦り合わせると、微かなざらつきが皮膚に残る。今日の感触だ。


 夜。私たちは“夜の一時間”をいつもの隅で始めた。マルタが温かい蜂蜜湯を置き、ハーゼが書簡の束を整え、ミーナが見守り札を膝にのせて腰掛ける。ユルクは立ったまま、扉の近くを守るくせで腕を組み、時々小さく咳払いをした。

 私は記録帳を開き、声に出して読み上げる。

「〈威信の示式〉〈短雨〉〈二号・仮三号運用〉〈休息帯を守る〉〈拾い制で動く〉」

 書きながら、心の中であの瞬間の迷いをもう一度撫でる。呼ばない勇気と、今できる半分。真ん中を割るように決めたあの選び方は、裏切りではなかっただろうか。休息帯を守ったことは正しい。けれど、兵を呼ばなかったことで、彼らの一部は“役に立てなかった悔しさ”を抱えたかもしれない。


「アーデル」レオンが呼ぶ。名前が、荒れていた心の皺をひと撫でして整える。「今日の選び方、よかった」

「そう、思えますか」

「ああ。仕組みで守った。兵の骨も、水の道も。家の旗も。全部、今日の重さで半分に割って持てた」

 私は一度だけ目を閉じ、ペン先を胸に押し当てた。震えは引いていく。弱さを見せる訓練。続けると決めたはずだ。私は余白に短く書く。

「〈今日、私は怖かった。だが“呼ばない”を選び、頼り方を増やした〉」

 読み上げると、レオンの目が柔らかく細まる。指輪が光る。穏やかな、控えめな灯り。長くはないが、芯はまっすぐだ。


「今日の好き」と私は書く。「〈あなたの肩が、私の重さの半分を持ったこと〉」

 レオンも書く。「〈君が“呼ばない”と言い、俺に“頼む”と言ったこと〉」

 灯りがもう一度揺れて、部屋の空気がひとつの温度に揃う。外ではもう雨の音が消え、濡れた石が夜気を冷たく返すばかりだ。


 書簡は、ハーゼの手で整えられていく。数字と所作。時刻と人。樋の角度は「指一本分」の単位のまま正式文に訳され、拾い制の名簿には“誰でも拾えた”と注記がつく。休息帯の札には小石が並び、呼ばれなかった証が数えられる。私はその束の最後に、短い言葉だけを加えた。

「〈今日、ここは立っていました〉」


 ハーゼが封をすると、蝋の上の印が灯に照らされ、赤い輪郭を光らせた。ミーナが両手でそれを見守り、マルタが「甘さを持っていきな」と小さな包みを添える。ローレンは「粉の匂いも」と笑って粉袋の切れ端を一枚入れ、ヘーデは金具の廃材をひとかけ入れた。「生活の匂いが要る」


 使者に渡すのは明け方だ。私たちは席を立ちかけ、ふと互いの目を見る。まだ何か、言葉にしていないものがある。それは“家”の中にあるもの――婚姻の札だ。窓口に落としてある。だが、今日の示式を見た家は、また別の角度で札を投げ直してくるに違いない。


「……相談していいですか」私は静かに言った。「記念日を、ひとつ増やしたい」

 マルタが目を輝かせ、ハーゼが眼鏡を押し上げる。レオンはわずかに眉を上げて笑った。「相談、受ける」

「旗を濡らした日」私は自分の声が少し震えるのに気づく。「威信の布も、生活の布も濡れた。でも、両方立っていた。今日だけ欄で旗割り記念日にしたい」

「年に二回まで」レオンはおどけずに言って、ゆっくり頷いた。「……いい記念日だ」

 指輪が光る。今日は何度目だろう。数えるのをやめると、灯はただ、灯になる。私たちは笑って、記録帳に小さく丸を付ける。〈記念日:旗割り〉


 消灯の灯が落ち、各自の足音が廊下へ散っていく。私は寝台に腰をおろし、ひとりになった部屋の静けさに耳を澄ました。遠くで水の尾が石に当たって崩れる微かな音が続いている。怖さは完全には消えない。だが私は、怖さの置き場を持っている。棚の春欄には樋の図、夏欄には交差の線、今日だけ欄には丸い印。どれも、明日のための今日ではなく、今日のための今日だ。


 やがて、窓を叩く指の音。開けると、冷えた夜気の中にゲルトルートが立っていた。従者は連れていない。驚くほど静かな目で、兄は短く言う。

「……旗の位置、ここでよかったか」

 問いというより独り言に近い響きだった。私は思わず笑いそうになる。威信の旗の位置。さっきまで“家の色”の象徴だった布の、ただの位置の話をしている。今日の話だ。

「風の向きが変わるので、明日は半歩、右がいいと思います」

 兄は頷き、旗の足元に視線を落とす。「樋の音が、ここだとよく聞こえる」

「音でなく、角度を送ります」私は言った。「でも、音も必要なら――窓口に」

 兄はわずかに口元を動かした。笑ったのかもしれない。決して長い時間ではなかった。彼は「明朝、使いが取りに来る」とだけ残し、夜に溶けるように踵を返した。


 窓を閉めると、指輪の裏側がまだ温かいのに気づく。灯は見えないが、皮膚が覚えている。私は記録帳の最後のページを開き、恋の定義に、今日の一行を足した。

〈恋は、濡れた旗の位置を、一緒に半歩ずらすこと〉


 離縁まで、十九日。数字は変わらない速さで減る。だが、今日を積んだ分だけ、速さの感じ方は変わる。交差の線は太り、札は拾われ、旗は乾く。その全部が、現在形のうちに起きている。私は灯を落とし、暗い部屋で目を閉じた。暗闇は怖くない。暗闇は、短い光がよく見える場所だ。

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