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第1話「契約更新まで三十日、指輪が微光」

 更新まで、あと三十日。

 王家から下賜された銀の指輪は、いまも微かにしか光らない。


 机に広げた羊皮紙――一年契約婚姻誓約書。その最下段、離縁の欄に私の名だけが先に記されている。書記官の砂がインクの黒を乾かし、夜風が窓を鳴らした。


「本当に、これでいいのか」


 低い声が背に落ちた。寡黙な夫、辺境伯レオンハルト・グライフは、今日も同じ問いを繰り返す。

 私は頷き、振り返らない。「契約どおりです、閣下。恋ではじまらなかった結婚に、終わりの印は似合います」


「……閣下はやめろ。レオンでいい」


 言い淀むように、彼が付け足した。

 その名前を口にするのは、いつだって私のほうが照れる。私は咳払いで誤魔化す。


「レ、レオン様。ともかく、更新には“恋の証明”が必要です。王家の指輪が、真実の恋にだけ完全に輝く。それがなければ、離縁は成立します」


 机端に置いた私の右手の薬指で、銀がかすかに温い。昨夜、彼の軍衣のボタンを繕っていたとき、一瞬だけ鼓動に合わせて光った。

 私たちの結婚はまつりごとの延長だった。内乱後の補給路整備に、文官として名を売っていた私を王都が“嫁入り”という名の辞令で辺境へと送り出した。彼に恋はなく、私にも恋はなかった。ただ国のために、という言葉の下で。


「アーデル」


 名前を呼ばれ、思わず振り向く。辺境伯は美丈夫というより、寒い峠の岩のような人だった。剣も采配も正確、余計な飾り気のない横顔。

 彼の指にも、同じ銀がある。微光は、私のと同じ弱さだ。


「昨夜、指輪が……少し光ったろう」


「気のせいかもしれません」


「気のせいにしてはいけないのか?」


「“恋”を間違って定義してはいけないのです」


 我ながら面倒な女だと思う。それでも私は実務家で、言葉を正しく扱わねば気が済まない。恋を証明する条件は、契約の核心なのだから。


 沈黙が落ちた。彼はゆっくりと歩み寄り、誓約書の前に立つとペンを取らず、私の手の上に大きな掌をそっと重ねた。

 ざらついた剣の茫漠ではない、温度。指輪が一瞬、脈打つように明るんだ。


「恋がどういうものか、俺はよく知らない。だが、君がいない寝所は寒い」


 ――卑怯だ、と思う。そういうことを言われると、論理はすぐ敗北する。

 私は手を引けず、小さく息を吸う。


「……レオン様。恋は、定義できないほど多様です。ですが更新規定で想定される“証明”は、王家の指輪の反応、共同の意思表示、公的な承認の三要件。ひとつずつ満たすしかありません」


「なら、やってみよう。三十日、毎晩」


 毎晩――彼は平然と言う。軍務に追われる男が、約束を軽く口にしないことを私は知っている。

 やめてください、嬉しくなるじゃないですか。そんな言葉、契約婚には似合わない。


「まずは、共同生活のルールから整理します」


 私は仕事に逃げるいつもの癖で、卓上の帳面を開いた。規則、手順、役割分担。恋の前にやるべきことはいくらでもある。



 朝は氷の匂いがした。

 山裾の砦を包む霧が、陽の矢に割れていく。厨房では、支配人のマルタが大鍋を振っている。私は袖を捲って、彼女の横に立った。


「奥様、今朝はパンではなく粥にしましょう。巡回帰りの兵たちには温かいものがいい」


「そうしましょう。菓子は? 前哨地から戻った偵騎が甘いものを欲しがると聞きました」


「さすが、よく見ていらっしゃる」


 “奥様”。この呼び名は好きではない。けれども城は私をそう呼ぶ。

 私は麦粥に蜂蜜を落とし、仕上げに砕いた胡桃を振った。やがて食堂に兵たちの笑い声が満ちる。私の仕事は、人の胃袋と紙の上の数字とを両方守ること。恋より、ずっと簡単だ。


「閣下、巡回の報告です」


 食後、執務室で騎兵隊長のユルクが簡潔に述べ、地図の角に手を置く。彼は私にも一礼した。着任当初、彼は私を“王都の飾り物”だと見ていたが、いまは違う。私が倉庫の台帳を三夜で整え、補給路の欠損を埋めたからだ。


「盗賊の動きは?」


「雪解けで少し増えていますが、例年の範囲内。問題は……」


 ユルクの視線が一瞬だけ私を掠め、レオンに戻った。「閣下のご実家からの書簡です。婚姻更新の件で“王都に戻れ”と」


 私は立ったまま呼吸を整えた。外圧、来た。

 レオンは封蝋に目を落としたが、開けない。「後にしよう。今日は――」


「今日は“恋の証明”を、するのですよね」


 堪えきれずに口が走る。ユルクがむせた。

 レオンの口元が、微かに緩む。「……ああ。そうだった」


「誤解を招く言い方はやめてください。王家の三要件に基づく検証です」


 私たちは三人で同時に咳払いをした。奇妙に息が合う。

 ユルクは耳まで赤くして退室し、私は額を押さえた。恥ずかしい。穴があったら入りたい。



 日が傾きはじめる頃、私は針箱を手にレオンの私室を訪れた。扉の前で一度深呼吸して、軽く叩く。


「アーデル?」


「裾のほつれを直します。立ってください」


 彼は立ち上がり、無言でコートを脱ぐ。私は肩越しに布を撫で、縫い目の弱りを探した。

 糸の通る感触が好きだ。小さな穴が閉じ、布が強くなる。恋もそうならどれほど簡単か。ほつれを見つけ、結べば、もう解けない。


「名前で呼んでくれ」


 不意に言われ、針が止まる。「い、いま呼びました」


「“レオン様”じゃなくて。……レオン」


 すぐには言えない。胸の奥がむず痒い。

 私はごにょごにょと口の中で彼の名を転がし、ようやく出した。


「……レオン」


 言葉は想像よりも柔らかく、体温を帯びて出ていった。

 指輪が、はっきりと温かくなる。灯芯に火が移るみたいに。


「もう一度」


「レオン」


「――もう一度」


「レオン」


 三度目で、彼の喉がわずかに鳴った。静かな人の、静かで大きな反応。私は慌てて話題を変える。


「共同生活のルールを作りました。第一条、嘘をつかない。第二条、疲れたら言う。第三条、夜は一時間だけ、互いの話を聞く時間を設ける。以上です」


「簡潔でいい。第四条は?」


「……キスは、記念日に」


 ぽろっと出た言葉に、自分で驚く。

 レオンが目を瞬かせ、次いで笑った。滅多に見ない笑顔で。


「では、記念日を増やさないとな」


「ふ、増やしません。年に――」


「年に?」


「……二回」


「寛大だ」


 冗談を言う彼に、私は安堵した。恋の検証は、笑っていいのだ。

 夜が落ち、暖炉の火が部屋を琥珀色に染める。私たちは向かい合って座り、一時間をはじめた。


「俺は今日、峠の巡回で雪代の音を聞いた。春が早い」


「私は倉庫の穀量表を見直し、麦粥の配給を増やしました。兵士の疲労指標を落とすために糖分を足すのが目的です」


「甘い粥はうまかった」


「ありがとうございます」


 たわいない報告が、妙に嬉しい。

 沈黙が落ちても、怖くない。薪がはぜ、彼がマグを差し出す。私は蜂蜜酒を注ぎ、少しだけ自分のも杯に移した。

 視線が重なったとき、指輪がまた光る。今度はさっきよりも確かに。


「アーデル。俺は君の働きぶりを尊敬している。王都で称えられていた噂は誇張じゃない。……だが同時に、その肩に重い荷を載せ過ぎだと思う」


「私は、荷を載せるのが好きです」


「そうだろうな。なら、半分は俺に載せてくれ」


 その言葉で、胸の真ん中がきゅっと鳴いた。

 恋は、定義の外側からやってくる。理屈にない方向から、予告もなく。


「検証のために申し上げますが、いまのは“共同の意思表示”の一形態に該当します。生活の相互支援についての」


「そういうところが好きだ」


「だから、検証のためで……はい?」


 彼は真面目な顔で繰り返した。「好きだ。いま、はっきりした」


 指輪が、ぱっと明るんだ。私は反射的に手を隠す。


「軽率に“好き”と言わないでください。条件反射で光るんです」


「条件反射?」


「あなたが、そういう真っ直ぐな台詞を言うから」


 気づけば、視線を逸らせなくなっていた。

 彼はゆっくりと椅子を引き、立ち上がった。歩幅は大きいが、距離を詰めるときだけ慎重だ。私の前で止まり、手を差し出す。


「記念日じゃない。だから、キスはしない。ただ――」


「ただ?」


「手袋のサイズを、合わせたい」


 私は笑ってしまった。おかしくて、愛しくて。

 針箱から柔らかな革手袋を取り出し、彼の手の上に自分の手を重ねる。指先の長さ、掌の幅。彼の親指が、恐る恐る私の指の付け根をなぞった。

 指輪が、短い閃光を放つ。


「――規定の第一要件、前進です」


「第二要件も、少しは」


「公的な承認は一番最後です。焦らないでください」


 夜が更ける。窓の外で狼が遠吠えし、暖炉の火が低くなる。

 私は手袋を畳み、帳面に小さく書いた。〈第一夜 名前呼び三回/共同ルール制定/手袋測定〉

 ばかみたい、と自分でも思う。だが、こうして記すことで、恋が私の言語に翻訳されていく。


「アーデル」


 彼がもう一度、私の名を呼ぶ。返事の代わりに、私は彼の名を呼ぶ。


「レオン」


 たったそれだけで、胸の灯りが強くなる。

 三十日という期限は、短い。けれど、短いからこそ、毎晩が愛おしい。


 ――こうして、私たちの“恋の証明”は始まった。



 部屋を出ると、廊下の角で執事のハーゼが咳払いをした。年季の入った燕尾服、眉間の深い皺。


「奥様。王都より使者が――明朝に到着とのこと。婚姻更新の監査役です」


 心臓がどさりと落ちた。

 早い。外圧は思った以上に早い。

 私は一礼し、踵を返す。彼の前では弱音を吐かなかったけれど、ひとりになってから壁にもたれ、静かに息を吐いた。


「大丈夫だ」


 背後から声。振り返ると、レオンが廊下の影から出てきた。

 私の不安は、どうしていつも読まれるのだろう。


「一緒にやると言った。三十日、毎晩」


「はい」


「――おやすみ、アーデル」


「おやすみ、レオン」


 私たちはそれぞれの扉へ戻っていく。

 掌の温度が消えないうちに、私は指輪をそっと撫でた。微光は、さっきより強い。

 証明は、きっとできる。恋の定義は、きっと私たち自身で書き換えられる。


 だって、契約書の余白は広いのだ。そこに、私たちの言葉を埋めればいい。

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