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地べたの天使

「旦那様! お待たせいたしました~!」

「遅い」


 身支度を整え終えたあともお喋りな侍女に付き合っていたら、随分と長い時間が経過してしまった。

 揃って水場から出てきた女性陣を目にしたクロディオは、苛立ちを隠せぬ様子でルセメルを睨みつけるが――。


「見てください! 薄汚い野良猫ちゃんの、大変身を!」

「大騒ぎするようなことか」

「似合っているの一言くらい、言ってあげてくださいよー! さすがは聖女天使です! もう、ほんとにかわいくて! 抱きしめたくなっちゃうくらいですよ!」

「ゃ……っ」


 侍女は満面の笑みを浮かべると、セロンに勢いよく抱きついた。

 だが、少女はそれに耐えられない。

 己の身体に触れるものは、いつだって――自分を傷つけてきたのだから……。


(怖い……っ)


 小さな悲鳴を上げた天使はその身を縮こまらせると、その場にしゃがみ込んで丸くなる。髪を引っ張られたり、暴力を振るわれたりしてもいいように、身を守るためだった。


「セロン様? どうしたんですか……?」

「あ……」


 だが――少女の恐れていた事態は、いつまで経っても現実のものにはならなかった。


『あんたって、ほんとに愚図ね!』

『私達の言うことが聞けないんだったら、追い出してやってもいいんだよ!?』


 ここにはセロンを罵倒する義姉の姿や、無理やり己を外へ連れ出そうとする義母の姿など存在しないからだ。


「気安く触れるな」

「ええー? 私のせいですか? 今のは旦那様の……」

「ルセメル」

「はぁい。ごめんなさい……」


 セロンが全身を小刻みに震わせて怯える姿を気の毒に思ったのか。

 クロディオの一喝により、侍女は渋々彼女の小さな身体から手を離した。


(守って、くれた……?)


 天使は不安そうに視線をさまよわせたあと、ゆっくりと身体を起こして彼を不思議そうに見つめる。


「俺はこれから、雑務がある。望むものがあれば、用意しよう」


 そんな天使の姿を金色の瞳で見下したクロディオは、優しい口調で少女に問いかけた。


(わたしの、ほしいもの……)


 暇を潰すための道具としてセロンが真っ先に思い浮かべるものは、一つしかない。

 ぼんやりと彼を見上げていた天使は、ポツリと願望を口にした。


「本……」

「何がいい」

「聖女天使の話は、読み飽きた……」

「わかった。ルセメル。見繕ってこい」

「かしこまりました!」


 クロディオの指示を受けた侍女は了承の言葉を口にしたあと、姿を消す。

 すると――。

 室内には静寂が訪れ、セロンとクロディオの2人だけになる。


(気まずい……)


 天使は居心地が悪そうに、視線を落とす。

 そんなこちらの姿を、見かねたのだろう。

 クロディオはどこか呆れたように肩を落として、ポツリと呟く。


「あれは、騒がしくて敵わん」


 その声を耳にしたセロンは、恨みがましい視線を彼に向ける。


(そう思うなら、どうしてわたしの侍女にしたんだろう……。嫌がらせ……?)


 少女と目を合わせたクロディオは、即座にその瞳の置くに込められた意味を理解したようだ。

 辺境伯はセロンを見下したまま、真面目な顔ではっきりと天使に告げた。


「君はあまり、会話が得意ではないな」

「うん。人と話した経験。家族以外とは、ほとんど……ない……」

「そうだと思った。ルセメルはあの通り、黙れと命じても話し続けるほどのお喋りだ。会話慣れするには、最適な人材だろう」


 セロンの発する声音はいつだってたどたどしく、自信がなさげに聞こえる。

 口を閉じている時のほうが珍しい侍女と一緒にいれば、幼子のような少女も年相応にハキハキと話せるようになると判断したようだ。


(ルセメルと、一緒……。勉強に、なるかな……)


 セロンはどうにも彼の主張に納得ができず、不思議そうに首を傾げながら告げた。


「これ……訓練?」

「そうだ」

「耐えられないって、言ったら……?」

「この程度で音を上げるようでは、ここには居られんぞ」


 その言葉が何を意味するのか。

 セロンはわからないほど、子どもではなかった。


(ほんとに……。血も涙も、ない人だ……)


 着の身着のままで伯爵家を飛び出してきた少女は、辺境伯を出れば明日をも知れない命だ。

 自力で金銭を稼げぬ限り――。

 誰かに飼われるか。

 聖女天使として捕らえられるか。

 野垂れ死ぬか。


 天使の脳裏に思い浮かぶのは、そのどれもが選び取りたくないと拒絶するような最悪の未来ばかりだった。


(それに比べたら。この人と一緒にいるほうが、安全だとは……思うけど……)


 少しでも気に食わない言動を口にすれば、今すぐ追い出すと言わんばかりにこちらを睨みつけてくるような男性だ。


(わたしはきっと、この人に……歓迎されていない……)


 一度物事を嫌な方向に考えてしまえば、止められなかった。

 セロンの脳裏には次々と過去の光景が思い出されては、消えていく。


(いつか、義家族みたいに……。虐げて、くるかも……)


 次はないと脅してきた父親。

 召使のように扱う義母。

 少しだけ気になっていた異性を、横から奪い取った義姉――。


(痛いのも、苦しいのも。つらいのも。もう、うんざり……)


 どれほどの苦痛をいだいても我慢してここに居座ったところで、傷つくだけだ。

 そう学習した天使は――。

 クロディオの人となりをじっくり観察する前に決意してしまう。


(頃合いを見て、逃げよう……)


 侍女に着替えさせられた、薄紫色のドレスが汚れるのも厭わずに。

 少女はストンと床の上に腰を下ろすと、膝をかかえて丸まった。


「地べたに座るな」


 そんな少女を見かねたクロディオは、嫌そうにセロンへ命じた。

 しかし、天使は聞かない。

 伯爵家の娘であるにもかかわらず、人と異なる力を持って産まれたセロンは人間として生きることを許されなかったからだ。


「椅子がある。そこに座れ」


 椅子や机、ベッドと行った生活に必要なものなど、一度も与えられたことがない。

 ただ広いだけの、本が山積みになった部屋で生きてきた天使にとって――家具の上に座って人間らしい扱いを受けると言う概念など、存在しなかった。


「何度言えば……」


 クロディオはどうにかして、少女を椅子の上に座らせられないかと考えを巡らせていたらしい。

 しかし、呆れたように語る彼の野望が叶えられることはなかった。


「お待たせしましたー! セロン様! 10冊ほどお持ちいたしましたので、この中からお好きな物を……。あら?」


 ――クロディオとの間に流れる険悪な雰囲気をぶち壊す、明るいルセメルの声が聞こえてきたからだ。

 天使はぱっと顔を上げ、両手いっぱいに本をかかえる侍女の元へ駆け寄る。


(さっきまでは、凄く苦手……。だったけど……。今は、この子が、救世主に見える……)


 セロンは侍女の手にした本の背表紙に視線を巡らせ、その中からある1冊の本を指差し欲しがった。

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