空っぽ天使
『セロン! しっかりするんだ!』
「ペガサス。落ち着け。そんなことをしたって、セロンの目覚めが遅くなるだけだぞ」
『だけど……!』
「う、ぅ……」
何かが胸元にのしかかっているような強い圧迫感に苛まれたセロンは、呻き声とともにゆっくりと瞳を見開く。
最初に飛び込んできたのは、神馬のドアップだった。
「ペガ、サス……?」
『セロン……! ああ、よかった……! 本当に……!』
ペガサスは天使の無事を喜ぶと、胸元に縋りついてわんわんと泣き叫ぶ。
そんな神馬の身体を優しく撫でつけたセロンは、キョロキョロとあたりを見渡して愛するクロディオの姿を探した。
(さっき、声……。したから……。多分、いる、はず……)
彼の姿は、すぐに見つかった。
ベッドの前に置かれた小さな丸椅子に座って書類とにらめっこしている。
辺境伯は、こんな時ですらも事務仕事に追われているようだ。
(声、かけちゃ……。駄目、かな……?)
セロンは不安そうに、視線をさまよわせてそわそわと挙動不審になる。
しかし、このままでは埒が明かないと考えたようだ。
覚悟を決めた天使は、恐る恐る声を発した。
「クロ、ディオ……?」
「起きたか」
「ん……。おは、よう……」
「ああ。自分の状況は、わかるか?」
天使はコクリと頷き、状況を脳裏に思い浮かべる。
「フラティウス、倒した。母国、滅亡。聖女天使に、お願いして……。天界行き、考えさせてもらった……」
天使はその発言をすべて心の中でしたつもりだったが、どうやら声に出していたらしい。
彼は優しい微笑みを浮かべてセロンの銀髪を手で梳くと、満足そうに頷いた。
「聖女天使は毎日のように、君に答えを強請りに来ているが……。体調が改善していない状態では、難しいだろう。ここでゆっくり、身体を休めていろ」
「ん……。クロディオ、は……? 一緒に、おやすみ……。ご褒美、も……」
「それは、あとでにしてくれ」
クロディオはどこか寂しそうに口元を歪めると、木製の椅子から立ち上がった。
その後、困惑する天使を残し――執務室に続く扉を開けて、出て行ってしまった。
(なんか、様子……。おかしかった……?)
セロンは今すぐにでも彼の背中に縋りつきたい気持ちでいっぱいだったが、それをするためには胸元にのしかかったペガサスをどうにかすることから始めなくてはならない。
天使は渋々、神馬に視線を向けた。
『みんな、心配してたんだよ! セロンが人間に、酷いことをされているに違いないって……!』
「誤解、ちゃんと解いた?」
『う……。それは……』
ペガサスは2人の仲を認めても、まだ天界に連れて行くのを諦めていないようだ。
(この子らしい……)
優しく口元を綻ばせたセロンは、こてりと小首を傾げて獣に問いかけた。
「わたしが呼べば、会いに来る?」
『もちろん! でも、いいのかい? あいつがいるところじゃないと……』
「ん。平気」
セロンは背中に翼を生やすと、ペガサスとともに上空へと浮かび上がる。
そして、窓をカラカラと開け放ち、外へ出た。
「わたし、起きた。話、しよ?」
セロンは虚空に向かって、同胞に話しかける。
すると、上空にはすぐに異変が起きた。
キラキラと純白の羽根が降り注ぎ、美しい翼をはためかせた聖女天使がこちらに向かってもの凄い勢いで舞い降りた。
(ちゃんと、お断り、しなきゃ……)
天使は瞳の奥底に強い意志を宿らせ、その神々しい光景を見つめる。
すると――。
「――セロン……!」
後方から愛する人が自身の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
その直後、セロンは後方へ引っ張られる。
クロディオが窓から身を乗り出して少女の腰元をしっかりと抱きかかえ、大きな株を地面から引き抜くような要領で、室内に向けて力尽くで連れ戻したからだ。
「また俺から、逃げるのか……!」
「うんん。それ、勘違い……」
勢い余って愛する天使を抱きかかえたまま床の上に倒れ込んだクロディオは、今にも泣き出しそうな怒声を響かせる。
そんな情けない声を耳にしたセロンは小さく首を振ると、背中の翼を消失させた。
――逃れるつもりはないと、彼に証明するかのように。
「クロディオは初めて会った時と、変わったけど……。同じところも、あるんだね」
「セロンは……。表情が、豊かになったな」
「そう?」
「ああ。言動も、年相応に近づいている」
「ルセメル、お喋り。クロディオもたくさん、わたしに愛を注いでくれた。そのおかげ」
天使は自らの腰元に回った逞しい腕に小さな指先を這わせると、優しく口元を綻ばせる。
セロンに逃げる様子が見られないのを確認したクロディオは、ゆっくりと愛する天使を抱きしめていた腕の力を緩める。
その後少女はくるりと身体を回転させて向かい合わせになると、金色の瞳を覗き込んだ。
「俺との約束、忘れたとは言わせないぞ」
「うん……」
「君がいなくなったらと思うだけで、胸が苦しい。俺はこの痛みに耐えきれないだろう。君を求め、命を捨て去るかもしれん……」
「天界で暮らす、わたしのために?」
「ああ。人は命を落とせば、天国に行くと言われるからな。背中に翼を生やせぬ人間が、聖女天使と再び巡り合うならば……それしか方法がない」
セロンはおずおずと小さな指先を、彼の胸元に重ねる。
そこはドクドクと高鳴っており、全身で自分を欲しているのだとすぐにわかった。
クロディオの想いは、本物だ。
天使は優しく口元を綻ばせると、歌うように呟く。
「クロディオは、辺境伯。ルユメール王国の領土を手に入れるため、尽力した立役者……」
「セロンと聖女天使達のおかげだ。俺は、何もしていない」
「うんん。あなたがいなければ、成し遂げられなかった。領民、みんな、クロディオがいないと困る」
「どうだかな……」
辺境伯はどこか遠くを見つめ、自分はいてもいなくてもいい存在なのではないかと弱気な姿を見せる。
(そんな彼すらも愛おしいと感じるあたり、重症かも……)
天使は自分も同じ気持ちだと告げるように、素直な想いを吐露した。
「目的を達したあとのわたしは、空っぽ」
「それでも構わん」
「無気力で、きっと人形みたいだよ」
「むしろ、好都合だ。純白は、何色にでも、染められる……」
クロディオは優しく目元を緩めると、天使の美しき銀髪を一房手に取る。
彼はそれに優しく口づけを落としながら告げた。




